第3話一反木綿
届かないところに手が届くのは便利なことだ。
たとえそれが人の手ではなくとも。
からりと晴れた日だった。珍しく午前中に三人も客が来た。一人は私が通っていた大学の教授だった。一年次、基礎クラスの担任でもあった。理由は分からないが、大学を中退した私がどうも気にかかったらしい。
何か不自由はないかと訊ねられた。私が別段苦労はしていないと言ったが、教授はゼミ生の連中に食わせると言って大量の和菓子を買ってくれた。それとなく教授連中や生徒にも宣伝してくれるとも約束してくれた。
有り難い話だ。人の縁には感謝しなければいけない。そう思いながらはたきを持って掃除をしようと立ち上がろうとする――
『ごめんやし。あんたがすみれさんの息子さんですか?』
またも音を立てずにやってきた。なんとなく妖怪だと気づく。
目の前の男は痩せぎすの細目であまり良いとは言えぬ容貌だった。まるで子供が紙粘土で適当に作った人形のような印象がする。服も上等なものとはとても思えなかった。口にはマスクを付けていた。
そんな男が文字を紙に書いて、私の目の前にいた。口が利けないのだろうか。
「あなたも妖怪か?」
『そうです。失礼、俺は言葉を喋れないんだ』
「敬語とタメ口が混ざっているな……何の妖怪だ?」
男は『
「そりゃあ知っている。アニメで有名だからな。しかしあなたはどう見ても人間じゃないか」
『大抵の妖怪は変化の術が使える。でも俺は元々口も声帯もないから話せないんだ』
理に適っているようないないような。人間に変化できるのなら喋れてもおかしくないと思うが。
まあいい。私はとりあえず「和菓子も食べられないのか?」と訊ねる。一反木綿は『匂いを嗅いで楽しむ』と書く。
ふむ。匂いの良い和菓子か。しかし茶を楽しむ菓子だから、匂いのきついものは少ない。
私は雨女と一緒に食べようと思って作った、柚の香りのする水羊羹を見せた。晴れているので、おそらく彼女は来ないだろう。
『とても良い匂いだ。ありがとう』
お礼を言われることはしていないが、とりあえず気持ちは受けとっておく。
それから一反木綿と話――彼にとっては筆談だが――をした。
彼の故郷は鹿児島らしい。だから一番好きな匂いは日本酒だと言う。一反木綿という紙のように薄い妖怪が紙を使って話をするのはなんだか滑稽に思えなくもない。
話をしているうちにはたと気づいた。
「そうだ一反木綿。頼みがあるんだが」
『なんですか? できることならするぜ』
私は床と棚の間に千円札を落としたのを思い出した。かなり奥のほうまで入ってしまったので、棒を使っても取れなかったのだ。
「君なら手が届くかもしれないな」
『わかりやした。やってみましょう』
一反木綿は自分の手と腕だけ変化を解いて正体を現した。とても綺麗な白だった。
そして床と棚の間に手を入れる。かさかさという音がして、手を引っ込めると千円札が握られていた。
「ありがとう。いやあ助かった」
『これくらいどうってことありやせん。しかし――』
一反木綿はひらひらと手を見せる。
『汚れちまったんで、お手洗い貸してくれ』
潔癖症なのだろうか、彼はお手洗いからしばらく出てこなかった。
返ってきた千円札を手に取りつつ、一反木綿がお手洗いに行く前の言葉について考える。
『人間ってのは不便ですね。そんなもんがなければ何もできやしない。命を失うことだってある。奇妙な生き物です』
紙の妖怪に言われるとは。紙幣の面目丸潰れだな。
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