第12話 研究発表会前の事情 雨宮梓
2020年12月20日(日曜日)
スープをスプーンで掬い口に入れると甘くも優しい味が舌に広がる。
「ホント、梓ちゃん、元気になってよかったわ」
母が隣の席で梓の頭を優しく撫でながらも、本日もう何度目かになる言葉を口にする。
これでも元気はないんだが、阿良々木電子で殺人事件があってから梓が意識を取り戻すまで梓は会社にもいかず、ずっと部屋に閉じこもって出てこなかったらしい。
あれから子猫――クロノの話を参考に色々考察してみた結果、梓の種族の天種の種族特性が原因だと結論付けた。元々ニンフには異性たる男性の理想とする人物像を作り上げるという効果がある。現に最近の梓の肉体は日々そのように変化している。そして、梓の意識レベルが低下した結果、その効果が一時的に精神にも及び疑似の人格を作り上げた。だが、あくまで梓の人格の残り香だから、その影響を強く受けあの恐ろしい秀樹を遠ざけていたのだと思う。
そして殺人事件の凄惨な現場を見て、梓の弱い疑似の心は擦り切れてしまった。そう考えれば全ての辻褄があう。
「ママ、心配かけてごめん」
「大丈夫よ。悪人は警察に捕まったんだから、もう梓ちゃんが心配することはないの。もし、悪い奴がきたら、ママが守ってあげるから」
多分、悪い奴とはアキト先輩のことを言っているんだと思う。母たちは梓が部屋に閉じこもっていたのは、アキト先輩を恐れてのことだと考えている。
もちろん、幾度となく反論したくなる衝動に駆られるが、クロノから洗脳が解けていることを察知されるような行動は慎むよう念を押されている。なんでも、今の秀樹は己の思うようにいかないと何をするかわからない。そんな駄々っ子のような存在らしい。下手をすれば梓の両親や妹にも危害を加えかねないのだ。今は我慢するしかない。
「じゃあ、ボクはそろそろいくよ」
「今日の発表頑張ってね。ママも御家で応援してるから!」
梓を強く抱きしめると頬擦りをしてくる。梓の家族は両親、妹ともにこんな暑苦しいスキンシップをとってくる。しかも、それを人目も憚らずするから、非常に恥ずかしいのだが、母たちが暖かく接してくれるからどうにか梓は平常を保っていられる。それにはとても感謝していた。だから、強く母を抱きしめると、
「うん、じゃあ、行ってきます」
安心させるよう力強く叫び、脇に置いていた鞄を持って玄関へ向かう。
会社前に到着すると十数人のマスコミが梓を取り囲む。
「雨宮梓さん、本日の研究発表について一言!」
「魔石を使った本研究には世界中が注目しておりますが、今日の実験の成功について意気込みについてコメントをお願いします!」
「婚約者の香坂秀樹さんは、会場にいらっしゃるんですか?」
「結婚予定日はいつになりそうです?」
案の定、半分は返答するのも不愉快な内容だったので、全力で無視する。
このように世間では、秀樹と梓は恋人同士という立ち位置になってしまっている。
それこれも、秀樹が毎日のようにテレビ出演し、悪漢たるアキト先輩から梓を守った正義の
クロノ曰く、こんな笑ってしまうような偽りだらけの関係が秀樹の望む理想なんだそうだ。
多分、秀樹は梓を好きでもなんでもなく、単にそういう異性にモテる自分に酔っていたいだけ。要は秀樹にとって梓を含む女性は、体のいいアクセサリーのようなものなんだと思う。
だけど、女性も馬鹿じゃない。こんな秀樹の本質を見ている人は見ている。少し前までの梓の上司の研究部の部長と栗原さんがそうだ。彼女たちは、秀樹に対しあからさまな拒絶反応を示していた。その彼女たちがあの変わりようだ。きっと、秀樹が己に靡かない二人の心を無理やり支配して変えてしまったんだと思う。
アキト先輩に恋をして、心の在り方がどれほど大事かは理解している。勝手に変えられるのがどれほど悔しく許せないかも。
もちろん、あの口の裂けた秀樹は異様だったし、完全に正気ではないんだと思う。でも、一連の秀樹の行動は実に彼らしく独りよがりだ。彼の今の行動の全ては彼の元来の性質によるもの。それは誓ってもいい。
例え幼馴染でも、許せないことはある。そう。もう我慢の限界なのだ。彼が正気に戻ったら遠慮などせずに、秀樹にはっきりと今の梓の言葉でその憤りの全てをぶつけようと思っている。
会社のビルに入り階段をかけ上げると先輩の上司である斎藤さんと会い、簡単な挨拶だけ交わす。彼だけは今まで通り梓に接してくれた。
テレビでは毎日のように耳を塞ぎたくなるような先輩に対する罵詈雑言が溢れているのだ。会社でも同じだと思っていた。でも第一営業部の人たちは一部を除き先輩の悪口を一言も口にせず、逆に秀樹や梓たちから距離をとっている。いや距離をとっているという表現は正確ではない。梓たちは彼らから徹底的に避けられていた。
秀樹は阿良々木電子の次期社長が確実視されている人物。その秀樹をあれほど強烈に忌避すれば、自身の出世や会社での立場も危うくする。
多分、彼らはアキト先輩が坪井主任を殺したとは考えちゃいない。そして、世間がもてはやす秀樹たちを強く疑っている。つまり、彼らは会社の押す秀樹と藤村秋人を天秤にかけて先輩という人間を信じているのだ。
あれだけひどい噂を流されていた先輩だったが、結局のところ本気でバッシングしていた人はほとんどいなかったのかもしれない。それがこのとき梓は嬉しかった。
研究部へ向けて廊下を歩いていると丁度、第一営業部から出てきた男性とばったり会う。
「雨宮君、おはよう。今日の発表会は世界中が注目している。期待しているよ」
短い黒髪にやや頬の痩けた中年の男性。鋭い眼光に猫背の長身、この男は外のマスコミに先輩についてひどいデマを言っていた男、上野課長。当然、梓はこの男が大っ嫌いだ。
というより、あれから梓なりに事件を検証してみた結果、阿良々木電子殺人事件にこの男が関わっていると割と本気で考えている。
犯人は先輩を夜間に会社に呼び出せる人物で、かつ、犯行はこの会社の第一営業部内で起きている。そして事件直後からの上野課長の一連の先輩へのバッシング。この男が関わっていないと考える方がよほど不自然だと思う。
「いえ。ありがとうございます」
上野課長へに不信感を可能な限り顔の出さずに笑顔で応対する。
「本日は香坂グループの会長を始めとする方々や君の御父上である雨宮経産相もおいでになる。早めに出向いて挨拶しておくべきだろう」
「はい」
本心を吐露すれば、秀樹の件で今、香坂家とは極力関わりになりたくはないが、そんな子供染みた言い訳が通るわけもない。今は従うしかない。
――東京ウルトラサイト
今日の研究発表は世界初の魔石の商品への応用。それ故か、日本でも有数な敷地面積を誇るイベントホールでもある東京ウルトラサイトの東の大ホールは人で溢れていた。
世界各国のマスメディアに協賛企業の重役たち、さらに各国の要人まで揃い踏みしている様子だ。
研究発表といっても既に完成させた理論のお披露目に過ぎない。しかも皆で用意万端に準備は完了している。故に会場での準備など大して時間もかからなかった。
「ねえ、梓先輩、秀樹様、今日いらっしゃらないんですか?」
お洒落な風貌の赤髪眼鏡の女性社員が、珈琲をちびちびと飲みながら予想通りの疑問を投げかけている。彼女は栗原さん。同じ人見知り同士、気が合ったんだが、今や見る影もない。
本来一般受けするその感情豊かな彼女の表情が、梓にはロボットのような不自然なものに思えていたのだ。
「う、うん。今日はボクら研究部の催しだから」
「そうだぞ。今日の催しは我ら研究開発部と第一営業部の仕切りだ。いくら秀樹君が優秀でも彼は人事部。くるはずがないさ」
黒髪をポニーテールにした女性が颯爽として現れる。彼女は梓たちのボス、営業部の部長。碌に自分の仕事をせずに女性を口説いている秀樹を相当嫌っており、本来こんな風な発言をするなど絶対にありえない。
(本当に人形みたいだ)
どうしても彼女たちをこんな風にした秀樹に対して強烈な嫌悪感がふつふつと湧き上がっていく。
平常を装うべく下唇をかみしめていると、背後から梓を呼ぶ声。
「梓!」
振り返ると巨体を揺らしながらやってくる熊のような外観の男性が視界に入る。そして、彼は近づいてくると、梓を抱きしめてくる。
「パパ、もう、恥ずかしいなぁ」
そう。あれは経産省の大臣。これでも梓の父なのだ。
「ふん、まさに天使と野獣。相変わらず、とても同じDNAを持つとは思えんな」
父とは対照的なスリムでダンディーなカイゼル髭の紳士が人の群を引き連れてこちらにやってくる。
(まったく同感じゃな)
右肩を見ると珍しく黒猫――クロノが顕現していた。消耗を防ぐため、クロノは最近梓の身体の中に入ったままでいることが多かった。多分、熟睡していたが父に抱き着かれて慌てて起きたんだと思う。
「お久しぶりです。おじさま」
ペコリと頭を下げると紳士は、
「うんうん、アズちゃんも久しぶりだね。元気かい?」
先ほどの父に対する態度とは一転、だらしなく頬を緩ませながら、梓の頭を撫でて社交辞令を口にしてくる。
「はい、おじ様」
彼は
「聞いたよ。あの不詳のドラ息子と添い遂げる決意をしてくれたんだってね?」
「いえ、あの――」
「父さん、それは今この場で話すべきことでもないでしょう。さあ、梓、行こう」
ぱっちりとした目に形のよい鼻、そして梓とは正反対の女性的な風貌の大人の女性。そのまさに眉目秀麗の言葉がぴったりの女性が、梓の右手を引いて人込みから外れていく。
人気のない会場の外のロビーの隅まで連れて行く。
「
彼女は
「うん。そうね。でね、梓、正直に応えてちょうだい。貴方、今、無理してない?」
いつものように
「無理?」
「うん、私の勘違いならいいの。でも、何かあるなら相談して。力になるから」
先輩が罵られているのを否定することすら許されない。そのぐしゃぐしゃに混濁した梓の心の内を誰もわかってくれなかった。だからだろう。
「こちょうお姉ちゃん……うぐっ! 先輩が……」
泣きじゃくりながらも、最近の梓の身に起こったあり得ぬ事実を吐露していた。
(そうじゃな、今は泣くがよい。今はそれが……)
どこか寂しそうなクロノの呟きが聞こえたような気がした。
「そう、秀樹の変容か……どうりで……」
「あのときの秀樹、絶対変だった。まるで……」
あの耳元まで口が裂けた秀樹の姿が脳裏に映し出されて、身体に震えが走る。
胡蝶お姉ちゃんはクスッと笑うと梓を強く抱きしめて、
「安心して。例えあの子が来ても、私が守ってあげるから。ほら、あの子私には逆らえないの、知ってるでしょ?」
後頭部を撫でながら語りかけてきた。
「う、うん」
「あと、あいつも大丈夫よ。基本単純ボーフラ脳みそだから、事情を話せばあっさり信じると思うわ。それにしてもまさか梓とあいつが友人関係だったとはねぇ。内心、目玉が飛び出るほど驚いてるわ」
まるで先輩と旧知の仲のような台詞を口にする。
「お姉ちゃん、先輩と知り合いなの?」
混乱する頭を振り切るように、胡蝶お姉ちゃんに疑問を投げかける。
「知り合いというより、腐れ縁? いや、犬猿の仲? いやいや、そんな、なまっちょろいものじゃないわね。そう、不倶戴天の敵。そう、それよ!」
納得したように何度も頷く
「せ、先輩は――」
改めて先輩の無罪を主張しようとするが、
「あー、大丈夫、あいつ真正の陰険クズ男だから人殺してたら、逃亡か完全犯罪の二択。あんな間抜けな捕まり方するなんて、ないない」
胡蝶お姉ちゃんは、両手を左右に振り梓の危惧を否定した。
「うー、なんでそんなに先輩のこと知っているの?」
その先輩を知り尽くしているごとき姿に、なぜか無性に胸がチクチクして頬を膨らませてそう尋ねていた。
「……えっ! ちょ、ちょっとまさか、梓、あなたあのクズ男のこと?」
暫し、
「えっと……まあ……うん」
頬が発火するのを自覚しつつも俯き気味に頷くと、お姉ちゃんは盛大に頬を引き攣らせてよろめき、額に右手を当てて、
「まさか、よりにもよって私達の天使があんな人間失格のクズ男に? だめよ。それはだめ!」
右拳を握って力説する。
(うむ、お主、妾と気が合うようなじゃな。そうじゃ、絶対に許してはならんのじゃ!)
クロノと変な納得の仕方をしつつも、再度目を血走らせながら再度梓の両肩を掴み、
「いい! 梓、目を覚ましなさい! あんな野獣と貴方は相応しくはないわっ!」
すごい形相で説得してくる。そのとき――。
(エンジェル、気を付けろ。マズいのに遭遇したっ!)
普段陽気なクロノらしくない固い声が脳裏に響く。
「ひどいな。姉さん。野獣はひどいんじゃない?」
胡蝶お姉ちゃんは声のする方へ顔を向けると、一瞬で顔から一切の表情を消す。そして梓を背後に隠すようにその人物に対し立ち塞がる。そして――。
「秀樹、貴方……なの?」
目を細めてまるで己に問いかけるかのように尋ねる。
「当たり前だろ? それ以外に見えるかい?」
(気を付けろ。今のこやつからは嫌な匂いしかしない!)
クロノが梓の右肩で毛を逆立ててフーと秀樹に威嚇の声をあげていた。
(う、うんわかってる)
変質していても秀樹は普段のままだった。だが、今のこの秀樹は違う。あの口が裂けた秀樹と同様、梓には目の前にいる人物が秀樹という皮を被った得体のしれない何かにしか見えなかった。そして、それは胡蝶お姉ちゃんも同じのようで、
「ええ、正直、それ以外にしか見えないわね」
額に玉のような汗を張り付けながら、じりっと背後に後退る。梓たちの緊迫した様子を視界にいれて、通りがかった二人の警備員が訝しげに近づいてくると、
「どうかしましたか?」
ありがたくも尋ねてきた。
胡蝶お姉ちゃんは深い息をはくと、
「彼は部外者よ。直ぐにその男を摘み出しなさいっ!」
胡蝶お姉ちゃんのひと際鋭い指示に近くの二人の警備員は困惑気味に顔を見合わせていたが、秀樹に近づくと、
「申し訳ございません。本日はゲスト以外の入場はお断りしております。外まで案内いたしますので――」
丁寧に申し出ようとするが、
「この僕に触れるなっ!」
秀樹の怒号がホール中に響き渡り、ビクッと身を竦ませる警備員。
ホール中の視線を浴びて、秀樹は数度、深く深呼吸をすると、
「ほら、これが僕の入場許可証と社員証さ? これで文句ないだろう!?」
胸ポケットからプレートを取り出して二人の警備員に示す。
「し、失礼いたしました!」
紹介状を確認した二人の警備員は弾かれたように飛びのいて姿勢を正して秀樹に一礼すると、そそくさと持ち場を離れる。
最悪だ。今回の発表は、研究開発部と第一営業部の二者の仕切りのはずで、人事部の秀樹はこの場に招待されるはずがない。大方、香坂のおじさまに気を使って阿良々木電子の社長が秀樹をこの発表会に招いたんだろう。これで別人のようになった秀樹を縛るものは何もなくなった。
秀樹の口角が引き裂かれ、長い舌が垣間見える。そうだ。あの秀樹の姿は、あの最後に見たもの。
「ーっ!」
まるで金縛りにあったかのように微動にできなくなるお姉ちゃんの頭部に、秀樹が伸ばした右手が触れる。そして――。
「僕も会場に招待されているんだ。いいね、姉さん?」
「うん。そうね」
胡蝶お姉ちゃんの何が変わったということもない。ただあれだけ拒絶していた秀樹に対する警戒心だけが抜け落ちていた。
「じゃあ、梓、また発表が終わってからね」
秀樹は口角を元に戻すと、颯爽と会場の中に入って行ってしまう。
「私達も行こう、梓、そろそろ発表よ」
その限りなく自然な仕草に、背筋に冷たいものが走り抜ける。
(クロノ、お姉ちゃんも?)
(ああ、大方、頭に気色悪いものを植え付けられたんじゃろ)
(ボクみたいに治せないのかい!?)
クロノはすまなそうに梓から顔を背ける。
(無理じゃ。あれを駆除するのにエンジェルでさえも相当の期間を要した。天種のエンジェルはともかく他の人間種にすぎぬものでは、妾には切除不可能じゃ)
(どうしたらいいと思う?)
(うむ、妾はこの場からの即時離脱を進言するぞ。そなた一人なら妾の力でどうとでも――)
(発表が終わるまで、それはダメ)
ここで梓が逃げれば、今まで共に研究をしてきた研究室の室員たちの血のにじむような努力を無駄にしてしまう。それだけは梓にはできなかった。
(なら、答えは一つじゃ。発表とやらが終わり次第、この魔境から全力で脱出する)
(うん、そうだね)
「梓、どうしたの? いくわよ?」
立ち止まる梓に胡蝶お姉ちゃんに促されて、
「う、うん!」
梓は会場へと歩き出した。
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