第5話 到底あり得ない現実 雨宮梓

 暗い沼の底にあった意識が浮上していくような独特な感覚の中、雨宮梓が瞼を開けると、そこはいつもの梓の自室の天井だった。


『よかったのじゃ。無事、気色悪いものは全て除去できた』


 梓のお腹の上でチョコンとお座りしている黒色の子猫が視界に入る。


「子猫?」


 キョトンとして尋ねると、


『うむ、こうして話すのは初めてじゃな。妾はクロノ、よろしくの』


 梓の肩に飛び乗ると頬を擦り付けてゴロゴロと喉を鳴らしてくる。


「よ、よろしく」


 寝起きのせいか、ボーとしてまだ頭が上手く働かない。人語を解する子猫の登場も非現実性を助長し、梓から正常な判断能力を奪っていた。


『うむ、エンジェル、経緯は覚えているかの?』

「ん……先輩と冬コミに行って手を繋いで帰って、そして先輩に告白――」


 急速に顔が紅潮していくのがわかる。同時に新たな事実も思い出してくる。

 そうだ。先輩に告白した直後、秀樹と家の前で話したんだ。あのときの秀樹は明らかに変だった。まるで何かに取り憑かれたかのようで、必死に彼から逃げ出そうとして……。

 あの人間とは思えぬ恐ろしい形相の秀樹に襲われた光景をはっきりと思い出し、全身の血液が冷たくなっていくのを自覚する。


「あれから、何があったの!?」

『心配は無用じゃ。理由はわからんが、洗脳中そなたはあの下郎と距離をとっておった。もしかしたら、そなたの潜在意識があのクズ虫を拒絶していたのやもしれぬ』

「せ、洗脳? ごめん、話しについていけない」


 不吉な感じはすこぶるするけど。


『うむ、そなたは香坂秀樹というあの薄汚いクズムシに操られておったのよ』

「あ、操られていた!?」

『うむ、じゃが、安堵せよ。クズムシに洗脳の自覚がないことが幸いしたの。あやつ、そなたの無意識の拒絶にまったく気付かず、自分の世界に浸ってそなたには殊更手をだしてこなかったのじゃ。

一応、エンジェルに憑依ひょういしそなたの記憶を覗き見させてもらったが、純潔はもちろん、ファーストキスも誰にも奪われてはおらぬ。心身ともに清いままじゃ』


 得意げに胸を張る子猫に、梓にとって最も重要なことを思い出す。


「ちょっと待ってじゃあ、ボクの先輩への告白は!?」

『それは……今回は諦めよ』

「今回は諦めろ!?  それはどういうことだいっ!?」


 冗談じゃない。梓が先輩にどれほどの決意で告白したと思っているんだ。なかったことになどされてはたまるものか。


『あれから色々あったのでな。今、アキトはそんな浮ついたことなど考えられぬ状況に置かれておる。あやつが戻ったらもう一度改めて告げるのじゃな』


 黒猫の言葉に先ほどと比較にならない悪寒が背骨をせりあがって行き、


「せ、先輩に何かあったのっ!?」


 血相を変えて尋ねていた。

 子猫は器用に腕を組むと、少しの間唸っていたが、


『そうじゃな。今後そなたに協力してもらいたいこともある。教えてしんぜよう。ただ、心を強く持って聞くのじゃぞ』

「う、うん」

 

 強烈な不安を紛らわすかのように何度も頷く。


『アキトの奴は坪井とかいう会社の同僚と警備員の殺害を理由に警察とやらに捕縛中じゃ。おまけに、そなたはその殺害現場に偶々居合わせて、アキトから暴行を受けようとしたところを恋人の香坂秀樹に守られた。そういうことになっておる』

「あはは……なんだい、それ? 意味がわからない」


 カラカラの喉から出たのは拒絶の言葉と乾いた笑い声。

 坪井という人には覚えがある。あの怖そうな人だろう? 先輩がその坪井という人の殺人容疑で逮捕? 秀樹が梓の恋人で先輩から秀樹に守られた? 全てがあまりに梓の常識と乖離しすぎている。信じられるはずはない。


『奴らはいかれておる。そなたの洗脳が解けているとしれば、きっとまた危害を加えてこよう。じゃから、今後もあの秀樹とかいうクズ虫との恋人ごっこを続ける必要があるのじゃ』

「恋人ごっこなんてやだよ。ボクが好きなのは先輩だけだもん!」


 たとえ演技でも先輩以外の人の恋人なんて絶対にやだ。


『我儘いうでない。あやつに再び囚われれば今度こそ戻れぬかもしれぬ。アキトと――あの唐変木と一緒にいたいのじゃろ?』


黒猫は肩の上に乗り、梓に愛しそうに頬ずりをする。


「うん……」

『ならもう少しの辛抱じゃ。じきに今のこの事態はあの唐変木の手により終息する。それまで妾の言いつけを守り、いい子にしておるのじゃぞ』


 諭すような口調で黒猫はそう梓に指示をする。


「うん」


 黒猫は梓の返答に満足そうに頷くとその姿を消失させた。

 誰もいなくなったベッドで、羽毛布団を頭から被る。

 今は何も考えられない。いや、考えたくはない。ただ、今はあり得ない現実を忘れて、泥のように眠っていたかった。


(アキト先輩、会いたい。会いたいよ)


 先輩の顔が見たい。先輩と手をつなぎたい。頭を優しく撫でてもらいたい。


(アキト……先輩)


 アキト先輩の名を口にしながらも、梓が瞼を固く閉じるとその意識はストンと微睡まどろみの中へ落ちていった。


        

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