閑話 眠り姫 藤村朱里
そこは、消毒液の臭いが嗅覚を刺激する。その病室の個室の真っ白のベッドの上に藤村朱里の親友――能見黒華は眠っていた。
「朱里ちゃん、いつも来てくれてありがとね」
優しそうな恰幅の良い中年の女性が、ひどく疲れた顔で朱里に頭を下げてくる。
彼女は黒華の実母であり、黒華が寝てしまってからずっと彼女に付き添っている。
そう。あの種族選定の日の早朝から黒華は一度も起きず眠り続けているのだ。
「いえ、私こそお邪魔して申し訳ありません。それで黒華の様子は?」
社交激励に朱里も一礼すると、最も聞きたかった話題を尋ねる。
「うん。すごく安定していているわ」
「そう……ですか」
闇夜に提灯を得た想いで大きく息を吸い込む。
「ホント、黒華ちゃん、寝坊助さんなんだから」
黒華のお母さんは、愛しそうに黒華の頭を優しく撫でる。
医者の説明では、黒華が眠っている理由は医学的見地からは原因不明。ただ、生命活動に何ら異常はないから切っ掛けさえあれば、起きるだろうとのことだ。
もっとも、眠りに入った正確な日は不明だが、おそらく種族選定の当日から。あの種族選定が深く関わっているのはほぼ確定だろう。
「じゃあ、私、一階の売店で果物でも買ってくるから、黒華をお願いね」
「はい」
黒華のお母さんからの頼みに大きく頷き、近くの椅子に座って黒華の右手を握る。
「黒華、何やってるのよ。いい人みつけたんでしょ? 早く起きなきゃ、ね?」
もう何度目かになる言葉を投げかけるが、やはりピクリとも動く気配すらない。
魔物の出現とあの種族選定を契機に世界は明確に変わってしまった。
種族選定――人に様々な奇跡の恩恵を与えた神の啓示。
――研究に特化した恩恵。
――スポーツに特化した恩恵。
――経営や金融に特化した恩恵。
そして、戦闘に特化した恩恵。
あの日以来、暴動のニュースは頻繁に耳にする。そして先日のあのファンタジアランドのあの魔物の大量発生だ。朱里たちの生きるこの世界は、どうしょうのなく危険な世界へと変貌してしまっている。
(だからこそ私が守らなきゃ)
朱里にとって黒華は、妹のような存在だった。
無論、朱里の方が学年も歳も下だが、黒華は外見同様、中身もお子ちゃま。揶揄うと本当に可愛いんだ。彼女にとって黒華はあの醜悪な親兄弟たちよりもずっと大切な存在だった。
その唯一の例外が、藤村秋人、朱里の兄。
兄さんは、外見で誤解されやすいが、とても優しく面倒みの良い人だ。何より幼い頃はずっと兄さんが朱里にとっての母であり父だった。あの人だけはいつも朱里の傍で笑っていて欲しい。もう二度と、血みどろな世界を見て欲しくはない。
だから朱里は戦闘に特化した種族を選択した。朱里の大切なものを守れるように。決して失わないように。
「私も頑張るから。黒華も早く起きてよ」
決意を込めてそう口にしてみたが、それがそう簡単に叶わないことを改めて実感し、胸の辺りが酸っぱく痛むのを感じ、顔を歪めたとき――。
「もうお腹いっぱい…の…ゃ……」
今まで無表情だった黒華の可愛らしい顔がだらしなく緩み、そんな呑気な寝言を口にする。
「まったく、貴方ってひとは」
それがなぜかとても可笑しくて、嬉しくて朱里は黒華の頭を優しく撫でたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます