第17話 梓の決意 雨宮梓
駅に着いたときも電車で揺られているときも、梓の頭の中はぐちゃぐちゃに混乱していた。
人付き合いが苦手で要領も悪い。しかも、同じ個人主義。ほんの数週間前まで梓にとってアキト先輩は、そんな素直に本心を話せる数少ない友達だった。
そんな梓の意識が変わったのは、あのマンモスバーガーでの一件からだと思う。
あの日、同僚から誘われた夕食をいつものように断ってGAOへと直行する。もちろん、予約していた【フォーゼ第八幕】の購入のためだ。
梓の趣味はゲーム。昔、米国で同じ日本人の友人に勧められ、このシリーズのゲームをプレイしてから独特な世界観に魅了されて忽ち虜となる。それ以来、ゲームは梓の人生の重要な位置を占めるようになった。
例えば、今の会社を選択した理由も実家から近いことが最も大きな理由だ。もちろん、会社の近くにマンションを借りたいのは山々なのだが、梓の両親や妹は米国で梓がテロ事件に巻き込まれてから一人暮らしをすることに断固として反対している。可能な限り余暇を有効活用するためには、通勤時間の少ない今の会社が最適なのだ。まあ、本社から誘われても拒絶している理由は他にもあるわけだが。
そんなこんなで、梓にとって【フォーゼ第八幕】の初回限定版の購入は是非とも避けられぬイベントだった。
女子がゲームをやるのはあまり世間体が良くないし、普段のお堅い梓のキャラとは合致しない。だから、慎重に周囲を気にしながらソフトを掴み列の最後尾に並ぶと、意外な人物が【フォーゼ第八幕】の初回限定版を買うのが見えた。
アキト先輩だ。同志を得た心地で嬉しくなり、購入してから急いで店を出ると、先輩が丁度正面にあるマンモスバーガーに入ろうとしているのが視界に入る。
妹にドン引きされてから、梓は【フォーゼ】を始めとするゲームの話題はあまり人前ではしないようにしていた。だから、同じ共通の話題に飢えていたんだと思う。
しかし、ある意味梓にとって予想だにしなかった展開となる。
それは、先輩が梓をいつものように幼女扱いされて批難の言葉を口にしたことから始まった。
「お前が特別だからじゃね?」
その甘い言葉に梓は混乱した。今まで似たような言葉は、幼馴染の香坂秀樹や、パーティーの社交界で言われたことがある。だが、秀樹は梓にとって歳の近い姉弟のようなもの。とても異性からの言葉とは思えなかったし、何より他の女性にも似たような事を言っているのを幾度となく聞いたことがあり、信憑性など皆無だったのだ。両親に連れられた社交界の場での言葉など、それこそただの社交辞令であり、検討することすら値しない。
人付き合いが下手で、口下手で女性にお世辞など間違っても言えるような人じゃないアキト先輩からのこの『特別』という言葉は、梓の調子を完全に狂わせてしまう。
渇望していた【フォーゼ】の話題が頭から嘘の様に消え失せて、よくわからない世間話を繰り広げていたとき、あの豚顔の怪物が現れたのだ。
まるでゲームの世界から抜け出してきたような怪物は、マンモスバーガーの店内にいた客をまるで草木でも摘み取るかのようにその命を奪っていく。小刻みに震える先輩の大きな背中に顔を押し付けて、梓はただ震えていた。
それからのことはよく覚えていない。先輩に抱きしめられたところまでは覚えているが、直ぐに記憶は病院のベッドの上になる。
数日間、またあの豚顔の怪物が梓の前に現れるんじゃないかと、怖くてたまらなかったが、人間とは現金なものである。日常に戻るとあの絶望と恐怖は次第に薄れていき、代わりに先輩のことを考える頻度が増す。
メールを交換し、屋上で昼食や帰りに夕食を一緒にするようになり、ますます、梓の先輩の占有は大きくなった。多分、これはまだ恋のようなものには昇華していない淡くて甘い憧れのようなものなんだと思う。それでも梓にとって初めての現実的な経験であり、真実でもあったのだ。
その儚い梓の
大人でしかも美しい容姿、すらりと流麗な女性然とした曲線を描く肢体に、艶やかな黒髪。全て梓が持ってないものばかりだ。あんな大人の女性に、ライバル宣言されて勝てるはずなどない。例え梓が先輩の立場でも彼女の方を選ぶだろうから。
(あーあ、結局、またいつもの生活か……)
自虐気味に呟くが、凄まじい喪失感と今迄、幸せが手に入れられるかもと浮かれ切っていた己の滑稽さに涙が出てきた。
そんなとき、
「よう、待たせたな」
先輩が待ち合わせ場所に到着したんだ。
先輩とのアトラクション回りは、想像していたよりもずっと楽しく心が躍った。半面、どうしようもない虚しさも募る。だって、いくら楽しくても今日この日が終わればただの思い出として記憶されてしまうから。
(ダメだ! 顔に出すな!)
そう自身に言い聞かせながら、必死に笑顔を作り続けた。
昼になりレストランに入ると女性の店員が梓たちの席までくると、
「本日は親子の方に限りのスペシャルメニューがありますが、いかがでしょうか?」
今一番言って欲しくない提案をしてくる。
「ボクは今年で24歳だっ!! どうやったら彼とボクが親子に見えるっていうんだ?」
止めようもなく、勢いよく席を立ち上がり、梓は激高していた。
びっくりした顔で梓を見下ろす女性の店員。他の客たちも何事かと梓たちを眺めている。
先輩が女性店員に注文したとき、ようやく頭に上った血が下がってきて、耐えようがない羞恥心や情けなさで一杯になる。
やっぱり、傍からには先輩と梓は、仲の良い親子にしか見えないのだろう。どこの世界に、初めての異性とのデートで親子に間違われるものがいる? こんなマイナスだけしかない容姿、本当に嫌になる……。
でも、もしかしたら、先輩はそんな梓のような容姿でも受け入れてくれる。その奇跡にすがり、尋ねた。そう尋ねてしまったのだ。結果は予想通りの答えだった。
土砂降りの雨に頭から打たれたような晴れぬ気持ちを何とか笑顔で誤魔化しつつも、当初から予定していたゴーストスクールを提案し、今、先輩と手を繋いで歩いているところだ。
梓はこの手の施設には耐性はあまりない。というより、大の苦手だ。妹とホラー系の映画をみて闇夜を一人で歩けなくなって妹に送り迎えをしてもらったのは苦くも恥ずかしい思い出だ。
ただ、ネットにデートの締めには最適と書いてあったからこの場所は避けられなかっただけ。
もっとも、ゴーストスクールの中は、猪男や骸骨が踊りを踊っていたり、まったく怖くはなかった。少し安心しつつもアキト先輩を見上げると、難しい顔で考え込んでいた。
そして梓の両肩を掴み、
「少し目をつぶってろ」
そう指示してくる。このシーンはドラマでよく見たあのシーンだろうか。
発汗器官がぶっ壊れたように多量の汗が全身から流れ、心臓が痛いくらい自己主張をしてくる。顔ももはや熱したヤカンのように真っ赤にゆで上がってしまっていた。
そんな中、先輩に抱き上げられ益々舞い上がるが、その行為があの日の悪夢の再来であることを知る。
――劈くような悲鳴や絶叫。
――助けを求める声。
――何かを咀嚼するかのような生理的嫌悪を掻き立てる音。
そこには全てが始まったあのマンモスバーガーの時以上の濃厚な絶望と死の匂いがあった。
先輩の指示通り、瞼を固く閉じて懸命にその身体にしがみ付いていると嫌な気配が消失し喧騒が鼓膜を震わせる。
恐る恐る目を開けるとそこは警察署内であり、避難したと思しきファンタジァランドのゲストで溢れていた。
ビンビンに張られていた緊張の糸が切れ、梓の両眼から大粒の涙が零れる。情けないほど流れ出る涙を懸命に上着の袖でぬぐっていると、落ち着けようとしたのだろう。先輩は梓を抱きしめるとその背中を優しく叩いてくる。
これじゃあ、外見だけではなく中身も幼子だ。
(落ち着け! 落ち着くんだ!)
自分に言い聞かせるも、涙は一向に止まる気配はない。そんな中――。
「お願いだよっ!! お母さんとお姉ちゃんを助けて!!」
悲痛の叫びが部屋中に響き渡る。視線の先には、7、8歳くらいの少年が制服姿の警察官の足にしがみ付き、懸命に懇願していた。
「もう少しでやっつけてくれるおじさんたちが到着するよ。だからもう少しの辛抱だ」
無念な表情を全力で隠しつつも制服を着た警官が引き攣った笑顔を浮かべつつも子供を宥めようとするが、
「僕、もういい子にしてるから、何でもするからさぁ!! だから、助けてっ!!」
両眼から涙を流しつつも、しがみ付く警官の足の裾を揺らす少年に周囲の誰もが目を反らし、憐憫の表情を浮かべていた。
情けなくなった。あの年端も行かない子は、きっと大人でも座り込んで泣き出したくなるような地獄を目の前で見ている。なのに、自分の恐怖すらもそっちのけで己の身内の心配に涙しているのだ。一方、梓といえば先輩が守ってくれたおかげで碌に凄惨な現場を見ていないのに、震え涙が止まらない。
(ダメ! ダメだ! こんなんじゃっ!!)
自信を懸命に奮い立たせていると、先輩は梓の手を引き部屋の隅に引っ張って行く。
あの少年を励まさなければならない。例えそれが余計なお世話だとしても、それは大人である梓たちの義務のはずだから。
「先――」
顔を上げて先輩に声を掛けようと口を開きかけるが、ぎょっとして目を見開く。
先輩は泣いていた。今も周囲の大人たちに懇願している少年に視線を固定しつつも、悲しそうな顔で涙を流していたのだ。
「先輩、大丈夫かい?」
先輩のこんな表情も涙も初めて目にして咄嗟に尋ねていた。
「もちろん。五体満足で怪我の一つもねぇよ」
「ううん、違うよ。先輩、今、泣いているから」
首を左右に振り、その事実を指摘する。
「泣いている?」
先輩は頬に今も流れる涙に触れて暫し驚いたような顔をしていたが、
「そうか……そうだったんだな」
納得したように軽く頷いて、少年の方へ歩いていく。
「先輩?」
このままでは先輩がどこか遠くに行ってしまう。そんなあり得ぬ強烈な焦燥に掻き立てられて、その意思を尋ねるも、
「雨宮、絶対にその場から動くな」
強い口調で制止される。そして、先輩は少年の前まで行きしゃがみ込みその両肩を掴む。
「坊主、母ちゃんと姉ちゃんを助けたいか?」
「う゛ん」
「名前は?」
「
「優斗、その仮面をよこしな」
「うん……」
少年優斗から【フォーゼ】の主人公が被る狐の仮面に模した被り物を受け取って立ち上がり、その面を被ると優斗の頭を乱暴に撫でる。
「これからホッピーがお前の母ちゃんと姉ちゃんを助け出す」
そう力強く宣言し、自身の右肩に視線を向けると、
「力を貸せ、クロノ」
そう叫ぶ。突如、先輩の右手に出現する白銀色の美しい銃。
誰もそのあり得ぬ光景に目を見張る中、先輩はあの化物どもが跳梁跋扈する魔境へと走り出してしまった。
先輩が飛び出してからすぐに警察署内の大型テレビは、ファンタジァランドの上空からの映像を映し出す。
「皆さん、ご覧ください! ホッピーです! ホッピーにより、ファンタジァランドに出没した化物どもが次々に駆除されていますっ!!」
幾度となく繰り返されるアナウンサーのボキャブラリー皆無な台詞。その到底信じられぬ光景の中、警察署内を支配していたのは歓喜や焦燥の声でもなく、奇妙なほどの静寂だった。
あの少年から黒髪の青年が仮面を受けとり被るシーンを現に目にしていた梓たち避難民からすれば、今も外で修羅のごとき戦いを演じているホッピーは、ただの狐の仮面を被った男ではない。それは、幼い少年から想いを託され奮起するヒーローが活躍する物語。梓たちは、その映画の一幕を眺めているかのような錯覚を覚えていたのだと思う。
次第に我に返った避難民や警察官からぽつぽつと会話が聞こえ始める。
そして続々と解放されていくゲストたち。
少年の母と姉も無事避難し、この場の一同が皆安堵したとき、この場に渦巻いていたのは興奮と歓喜だった。
「頑張れぇ!! ホッピー!!」
そして少年の声援を契機に爆発的な熱狂が生まれたのだった。
先輩がファンタジァランドの怪物どもの指揮者を倒しその姿を消失させたのを確認し、建物を震わせるごとき歓声が轟く。
――飛び上がって人類の勝利を喜ぶ少年。
――両拳を握りしめ、歓喜に震える中年男性。
――抱き合いながらも安堵の声を上げる女子高生たち。
皆の顔にあるのはヒーロー――ホッピーの完全勝利への確信であり、賞賛。
姿を消したホッピーの安否を抱くものが一人もいないのは、多分、ヒーローは目的を果たせば姿を消すというある意味ステレオタイプな思い込みからだろうか。
勝利に浮かれた声が上がる中、梓は警察署をおぼつかない足取りで飛び出していた。
警察署を出ると路上には沢山の人が既に溢れかえり、勝利の雄叫びを上げている。
ファンタジァランドの反対側の道路には一応、紐により封鎖はされていたようだが、ホッピーの勝利に群衆がそれらを引きちぎり、押し寄せていた。
その人の波をまるで逆行するかのように梓は駅へ向かって歩いていく。
先輩は大丈夫だろうか? 電話を掛けてみるがでない。メールをしてみるが当然に返信はない。安否を確認するにも先輩の住所すらわからない。
(ボク、先輩のこと何もしらないんだ……)
人付き合いが苦手で、要領が悪い個人主義の先輩。それが梓の知るアキト先輩だ。それ故に梓は先輩に強く共感していたんだから。だけど、今日晒されたアキト先輩の姿は、まったく梓の予想すらできぬものだった。
即ち、ヒーロー。ここまで群衆に熱を与えるのだ。きっとそれが一番しっくりくるのかもしれない。
(なんかいやだ)
もちろん、ファンタジァランドの人々が助かったのは純粋に嬉しい。でも、不安だった。
今回浮かび上がった先輩と梓との間に横たわっていた僅かな溝が深くも大きなものへと変わり、先輩が近い将来、梓の元からいなくなってしまう。それがただひたすら不安だったのだ。
どうやって家まで帰ったのは碌に覚えちゃいない。
ただ、ベッドに仰向けになったとき梓は一つの決心をしていた。
震える人差し指は、視界の隅のテロップへと伸びる。そして、梓はある選択をした。
急速に薄れる意識の中――。
《《カオス・ヴェルト》開始後、人類で初めて【天種】を獲得しました。雨宮梓のたどる系統樹がノーマルからレアへと移行いたします》
不思議なそして無機質な声が聞こえたような気がした。
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