第8話 妹殿の来訪
トントントン!
規則正しく鳴るまな板を叩く音に瞼を開けると、見慣れた天井が視界に入る。ここは爺ちゃんから俺が受け継いだ我が家。
布団から這い出て音のする
「
大きな欠伸をしながらもテーブルのいつもの席に腰を下ろし、ブレザーの上からエプロンを身に着けた美しい少女に挨拶をする。
少女は手を止めてまな板に包丁を置く。そして、振り返るといつものように腰に両手を当てて目を尖らせ、
「この寒空です。あんな場所で寝ていたら、いくら兄さんがアレでも風邪をひきますよ!」
淡々と言い放つ。
「え? アレって?」
「もちろん、ご想像の通りの意味です」
笑顔で返答する妹殿。目が微塵も笑っちゃいない。おまけに、毒舌を通り超して悪口となっている。ヤバいな。こんなとき、決まって
だから――。
「う、うむ、それで今日はどうしたんだ?」
話題を変えることにした。
「用がないとここに来てはいけない。そう、兄さんは仰るんですか?」
朱里の発言はいつも棘があるが、決して攻撃的ではない。ここまであからさまに喧嘩腰なのは、年間一回あればいい方だ。大方、朱里の悪い癖でもでたな。こりゃ。
俺は大きなため息を吐いて朱里に近づくと、その頭に右の掌を置く。
「んなわけねぇだろ。ここは爺ちゃんの家だ。お前を拒むような場所じゃねぇ。それはわかるな?」
「……」
ジワーと次第に朱里の目尻に涙が滲んでいき、無言で頷く。そして、俺に抱き着くと顔をその胸に埋めてくる。
どうにもならぬ不安が一定レベルを超えると癇癪を起す。こいつも、よくも悪くも変わらねぇな。
約一時間、妹殿の泣きながらの説教を受けてようやく彼女の怒りと不安の源が判明した。
どうやら例のオーク事件に俺が巻き込まれたことが実家に伝わったらしい。あのとき連絡先も告げずに立ち去ったからな。警察関係者が安否確認のために連絡したのだろう。
あの親父や兄貴たちが俺なんぞを心配するはずもない。一家の団欒で無様に震えていた俺を嘲笑でもして朱里が耳にした。そんなところが関の山だろうさ。
今は表面上ようやく機嫌が戻った妹殿と夕食を食べているところだ。
「うん、美味いな。朱里も中々上達したんじゃね?」
舌に生じる柔かで甘い触感。美味いが豚肉とも牛肉とも鶏肉とも違う。これって何の肉だろうか?
「ええ、色々なペットの本を研究しましたから」
ペットって……お前、サラッとすごいこというのな。
「あのぉ、ちなみに朱里さん、このスープの肉って何の肉なんで?」
何気なく尋ねる俺に朱里はニコリとほほ笑む。
「アンジェリカちゃんのごはんを拝借しました」
「ア、アンジェリカ?」
そういえば、以前そんな名前のペットを飼い始めたとかいう朱里のメールが入っていたような。まずいな、いやな予感しかしないぞ。
「私が最近飼ったニシキヘビです」
「蛇畜生のごはん? いやいやいやいや、それってまさか――」
「ええ、ネズ――」
「あーあー、聞こえない! マジで聞こえなーーいっ!」
大声を上げて朱里の不吉極まりない言葉を遮っていると、プッと朱里が口元を手で押さえて勝ち誇ったような小悪魔的な笑みを浮かべる。
「冗談です。そんなわけがないじゃないですか。普通のラム肉ですよ」
そして、依然として笑みを浮かべながらも呆れたように、“まったく兄さんは”と首を左右に振る。
こいつ! 俺から連絡なかったことをまだ根にもってやがるな。
ともかく、いい機会だ。朱里にはきつく言っておかなければならないことがある。
「最近は物騒だし、来るならもっと早い時間に来いよ」
「でも兄さん、今の時間じゃなきゃいないじゃないですか!」
口を尖らせて反論する朱里。そういや、確かにあのクソ課長の嫌がらせで特に最近休みなく馬車馬のように働いていた。会社に寝泊まりなんてざらで碌に家に帰れなかったな。
「来るなら連絡しろ。駅まで迎えに行く」
複雑な家庭の事情により、幼い朱里の面倒を見ていたのはずっと俺だった。そんなこんなで朱里にとって俺は、兄というよりは父親兼母親役に等しい。どうせ来るなっていっても来る。その方が、まだ安心できるってもんだ。
「わかりました。次からそうします」
嬉しそうに頷く表情から察するに、きっちり電話はかけてくるだろう。あとは俺が迎えに行けるかだが何とかするしかないな。
夕食を終えて学校の話題など朱里の話に耳を傾けた後、一息ついたので、
「じゃあ、家まで送ろう」
席を立ち上がるが、
「何言ってんですか。私、今日はここに泊まりますよ。大丈夫、あの人達には部活の合宿といってますし、お泊りセットも持ってきてます」
俺にドヤ顔で親指を向けてくる朱里。この我儘娘め。面倒なことを。
「いや、しかしだな――」
「それにお忘れですか? 兄さんより私の方がずっと強いです。夜間に下手に帰って魔物に襲われる方がずっと危険です。嫌ですよ。私、兄さんを守りながら戦うのは!」
朱里の奴、きっとこれを狙っていたな。できる限り、迷宮の探索を進めたかったのだが、致し方ないか。それに、親父や兄貴たちとの話がついているなら別に俺に拒む理由はない。逆に奴らに事情を説明するとすこぶる面倒な事態に陥りそうだ。
「わかったよ。だが、明日の朝には学校まで送り届けるぞ」
「うん! それでいいです!」
さっきまでの不機嫌は嘘のように、無邪気にはしゃぎまくる朱里に俺は深いため息を吐いたのだった。
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