闇の中から【5】

「こんな事って!」

 誰も推測しなかった。

 そもそも情報が足りなかったのだ。

 一度狩りの現場を見ておくべきだったとルマーナは後悔した。

「既に捕食が始まっています」

 偵察に行ったキエルドが戻って来て、そう報告した。

「まさか二つに分けて降ろすなんて! しかも予測地点からずっと手前だし人数も多すぎる!」


 渓谷の形状から見て、ここだと予測した地点へ向かい、渓谷上部の左右に分かれて身を潜めた。探査艇を一艇、低空で飛ばして見つからない様に偵察した。そして戻ったキエルドの報告は最悪な物だった。

 巣から伸びる渓谷に、まずは男を降ろす。捕食が始まって暫くしたら、その先に女を降ろす。

 いっぺんに降ろすよりも時間が稼げる方法なのだろう。

 そして何より、予測地点からかなり離れている。信じられないのは巣からの距離。男が配置された場所は巣から数キロしか離れていない。更に数キロ先に女を配置。

 ルマーナ達もロクセ達も全員が、もう少し遠くに配置されると思っていた。

 人数も多かった。今まで連れて行かれる人数は、多くても十人程度だった。しかし今回はその倍近くいる。

 きっと、十分な数の餌があるから遠くまで運ばなくても良いという判断だったのだろう。

 全てにおいて予測が外れたと言っても良いレベルだった。


「皆急いでちょうだい!」

 イヤホンに繋がるマイクは襟元に付いている。そのマイクのスイッチを押しながらルマーナは叫んだ。

 すると『了解』と返答するロクセの声が届いた。

 ルマーナは巣のある方へ……キャニオンスライムに向かって必死に走った。

 探査艇が木とぶつからない程度の低空でルマーナ達を追う。

 渓谷の上には木や草が生えているが、密集してはいない。走るのに邪魔という程でもない。

 しかし、ルマーナはイライラした。自分にイライラした。


「そっちよりあたい達の方が手前に居る。あたい達は男の方へ行くわ。ティニャ達はあなた達に任せても良い?!」

 最初に放つ銛を持つのはルマーナ班なのだから、当然ロクセ班よりも手前側だ。男達を助けに行くのならば、ルマーナ班の方が早い。

 出来るだけ全員を助ける……という判断としては間違っていないだろうが、ロクセから返って来た返答は却下という答えだった。

『もう捕食が始まっているのだろ? 距離的に間に合わない。そして助ける人数も多い。無理だ』

「じゃあ、どうしろって?!」

『ティニャ達を救う事に専念しろ。男達は諦めるしかない』

 言い返せなかった。

 出来るだけ全員を救うと決めたのだからそれを曲げる事は出来なかった。しかし、ルマーナも本当は同じ事を考えていた。無理だ、と。


「……わかったわ」

 ルマーナは信念を曲げた。

 ロクセに従った方が良いと判断した。

「ティニャ達が見えたら直ぐに作戦を開始する。そっちも状況に合わせて上手く立ち回ってちょうだい」

『了解』

 走っていると他の渓谷が見えて来た。それがゆっくりとカーブを描いてルマーナの走る渓谷と合流しそうだった。

 嫌な予感がした。

 ティニャ達が二手に分かれたら、ルマーナ班とロクセ班のどちらかか渓谷を渡って来なければならない可能性が出て来る。当然それまで相応の戦力が削られる事となる。

 上手くやるんだよ! という自分の発言が恥ずかしい言葉に感じた。

 既に犠牲者は出ている。

 もう、遅い。

 兎に角、ティニャ達だけは、ティニャ達だけでも救わなければ。

 ルマーナは唇を噛んで走った。






 ラモナに引っ張られながらティニャは走った。

 隣でヌェミもシャルロに手を引かれて走っている。

 振り向いても曲がった渓谷に阻まれて何が起こっているのか分からなかった。だが、男達の声だけは徐々に近づいてきていた。


 足の遅いティニャとヌェミを連れた四名以外は幾らか先を走っている。かかとの高い靴を履いていた女性はいつの間にか脱ぎ捨てていて裸足だった。足裏には血が滲んでいた。それでも走る事を止めなかった。それだけ必死に逃げているのだと思った。


  ティニャはもう一度振り向いた。その時人影が見えた。曲がった渓谷の先から出て来た数は四人。

 遠くて表情までは分からないが、必死に走っている状況だけは伝わった。

 続いてひょいと何かが姿を現した。ゴムの様に伸びて来て、ビタッと粘液が弾ける感じで渓谷の崖へ貼り付いた。貼り付いた部分は菌糸が広がる様になっていて、一度貼り付いたらそう易々と剥がれないと思えた。


「何か来た!」

 ティニャは叫んだ。

 その声に応じて、皆が振り向いた。足を止めてどんな生き物が追って来るのか確認した。

 皆黙って、息だけを切らしている。

 伸びた何かに引っ張られる様に姿を現したのは巨大な塊だった。

 本当に生物なのだろうか? と疑いたくなる程に特徴の無い何かの塊だった。色は薄い緑色。液体が意思を持っている……と表現するしかない様相だった。

 ティニャはゾッとした。

 追いつかれたら死ぬしかないと、瞬間的に感じ取った。


 緑色の何かは、胴体と思える塊部分から幾本もの腕を伸ばしていた。いや、腕と表現するより、触手と表現した方がいいかもしれない。色合いからすると植物の蔓とも取れる。胴体の至る所から自由にのばして、渓谷の崖へ貼り付いていく。それに引かれながら前へ前へと進んでいる。そして地面へ下りずに、ぶよんぶよんと上下に揺れながら男達を追っていた。

 二人程その触手に掴まっていて「助けてくれ」と叫んでいた。

 何度か逃げる男に向かって触手を伸ばした。ギリギリの所でかわしたが、触手が飛び出す勢いは凄まじく、かわした事が奇跡と思える程だった。

 掴まっていた男が一人、胴体へ放り込まれた。

 ティニャたちからの距離は一キロ以上もある。はっきりと見ないが、少なくとも放り込まれた男のシルエットが恐ろしい勢いで消えていくのだけは分かった。

 その間、緑色の何かは動きを止めた。波打つ様に体全体を震わせていた。恍惚的に、何かに陶酔する雰囲気だった。

 ティニャは思った。人を食べて快感を得ているのだろうと。


「は、走って!」

 ラモナが叫んだ。

 その叫びにハっとして、一斉に走り出した。

 意識が何処かへ飛んでいる様子だったヌェミの表情にさえ変化が現れている。

 笑顔で走る者などいない。全員が死に物狂いだ。

 ティニャは走りながらチラチラと確認した。

 また一人捕まった。そして食われた。


  緑色の何かの移動速度はそれほど早くない。しかし人間が走るスピードよりは幾らか速い。捕食している時に動きが止まる現象がなければ、既に自分達も食われていただろうとティニャは思った。

 いつの間にか逃げる男達との距離が縮んできていた。捕食されずに済んでいる男達はもう二人しかいない。身体的にも体力的にも優位な男達でさえこの状況なのだから、自分達が襲われるとなればあっと言う間に終わってしまう。

 今思えば、崖を登って逃げれば良かった。ティニャはそう思いながら崖を見た。

 だが直ぐに、無理だと判断した。

 命綱無しで素早く登るにはかなりの勇気がいる崖。女であっても時間をかければ昇り降り出来そうだが、もうこの状況ではどうしようもない。


 視線を前に戻すと先を走っていた四人が立ち止まってキョロキョロしていた。銃の男が言っていた分かれ道に達していた。

 どちらに進むか悩んでいる様子だった。

 二手に分かれる事を勧める……その言葉を思い出した。運が良ければ逃げ切れる……そういう意味だったのかもしれない。

 きっと彼女達も同じ考えに達して、悩んでいる最中なのだろう。

 だが、悠長に悩んでいる暇はない。

 一人が振り向いて一方の道を指し示した。”私達はこっちに行く”とジェスチャーで伝えて来た。四人は左の渓谷へ走って行った。

 であれば、ティニャ達は右の渓谷へ行くしかない。


「こっちに行こう!」

 ラモナが言って「そうね!」とシャルロが答えた。

 右へ進んで直ぐに「どけ! 邪魔だ!」と怒鳴り声が聞こえた。

 いつの間にか男達が追いついていて、ティニャ達の後方に迫ってきていた。

 いや、男達……では無い。逃げているのは一人だけで、残りの一人は丁度捕食されている最中だった。

 渓谷の分岐点で緑色の何かはブルブル震えながら快感を得ていた。


「くそ! 何で俺が! 何でだ! くそ!」

 そう叫びながら迫ってくる男には見覚えがあった。

 数日前にティニャがゴミを漁った時、言いがかりをつけて暴力を振るった男。

 たしか、タボライという名前だ。

 タボライは大汗をかきながら焦りと怒りが混ざった様な形相で走っている。

「ああ! くそ! こっちに来やがった!」

 振り向きながら叫ぶタボライの後ろには緑色の何かが迫っていた。


 二手に分かれた渓谷の選択。

 正解を選んだのは最初の四人。

 追われる立場になったティニャ達は運が悪かったと言う他に無い。

「どけ! ガキ!」

 そう叫んでタボライはティニャの肩を掴んだ。

「あっ!」

 強い力で引っ張られたティニャはラモナから手を離してしまい、盛大に転んだ。

「ティニャちゃん!」

 タボライは「お前もだ!」と言いながら駆け寄ろうとするラモナを突き飛ばし、走り続けた。


「うう」

 起き上がって自分の体を見ると、手の平と肘と膝を擦りむいていた。

 ラモナも額を強く打ったらしく、瞼まで血が垂れていた。

 額に手を当てて顔を上げたラモナが、何かを見つめて青ざめた。

 ティニャの白い肌へ、光を反射した緑の影が落ちた。

 ティニャはゆっくりと振り向いた。


 ドロドロと流動する液体が、まるで植物の蔓の様に伸びている。陽光を遮り、影を作るそれは、最初に見た時よりも少し濁っている様な気がした。

 きっと溶けた人間がその濁りなのだろう。

 等と一瞬でも考察する時間があった。

 太くうねうねと動くそれは、男達を瞬間的に捕らえていた時とは様子が違った。

 ラモナとティニャ、どちらを先に捕食するか悩んでいる……そんな雰囲気で躊躇している様だった。


「逃げて!」

 ラモナが叫んだ。

 でもティニャには聞こえなかった。

 はっきりと見えていた景色が白一色になったからだった。

 急にその現象が起こり、無音の世界にティニャは居た。

 植物や、小動物、そして緑色の何かが、光った糸の様な物で形作られている。


――何? これ……。


 と思った瞬間、まるで視界が切り替わる様に元に戻った。

 目の前でうねうねと動く物体は緑色。景色も元通り。

「早く! 逃げて!」

 ラモナの叫びでハッと我に返った。

「わ、ぅうあああ!」

 立とうとしても、ジタバタと地面を蹴り上げるばかりで足が思うように動かない。

 やっとの事で立ち上がる事が出来た瞬間、緑の触手がバッと広がった。

 何本もの指が四方八方に伸びる様に、絶対に獲物を掴み取る意思を伝えるが如く、ティニャの頭上に覆いかぶさろうと動いた。

 この瞬間、ティニャは思った。

 もう終わりだと思った。


 元気だった頃のティーヨの笑顔を思い出した。「お姉ちゃん!」と言いながら抱きついて来るティーヨが見えた。その後ろには母がいた。買い物篭を持った笑顔のお母さんがいた。

「ティニャッ!!」

 大きな発砲音と、細く連続した発砲音が聞こえると同時に、自分を呼ぶ声が聞こえた。

 覆いかぶさろうとした触手はその衝撃で軌道をずらし、地面へと着地した。

 崖の上に人影が見えた。そこには陽光を背にしたルマーナが居た。


 陽光のせいかどうかは分からない。


 でも一瞬。


 ルマーナの姿が母親に見えた。

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