闇の中から【3】
エルジボ狩猟商会事務所。
どうしてこんな所に自分が居るのか、ティニャには理解が出来なかった。
ラモナについて行き、ヘブンカムに着くと、いつもの怖い人達が待っていただけでルマーナの姿は何処にも無かった。
ソファーに座る男、ヘブンカムで一番偉いボーシュがおもむろに立ち上がり、ラモナの肩へ手を置いて何やら囁いた後、拳を横に打ち払った。
今までは体だけを狙っていたのだが、その拳は容赦なくティニャの顔面を捉えて部屋の隅まで吹き飛ばした。
悲鳴をあげる事も出来ない一撃はティニャの意識を奪った。意識が飛ぶ直前にラモナが駆け寄る姿だけは見えた。
気が付くと知らない部屋の床に寝ていた。だが、屈むラモナに上半身だけは支えられていた。頬と目元の間辺りがズキズキ痛かった。片目の視界が少し狭いので、きっと腫れているのだろうと思った。
「ごめんね。ごめんね」
意識を取り戻した事に気づいたラモナはポロポロと涙を流しながら呟いていた。
涙がティニャの頬に降って来て、更に頬を伝って床に落ちた。
周囲を見ると、ボーシュを含めたヘブンカムの人達は見当たらず、ルマーナの店で会ったイジドという男とブルーノンという男が椅子に座っていた。更に自分とラモナの他に女性が六人、男性が十人居て、イジドに何やら説明を受けていた。仕事が終われば借金をチャラにするとか、自由にするとか、多額の報酬を出すとか、そんな一方的な説明の後、男性達は真実か否かと喚いていた。女性達は何も言葉を発する事無く、絶望的な顔を床に向けるだけだった。
大きな船に乗せられてから漸く、先の部屋はエルジボ狩猟商会という仕事場の事務所だった事を知った。
ラモナが教えてくれた。
そしてこれから仕事をするという事態になっている事も教えてくれた。
だが、それしか分からなかった。
暗く重い空気が椅子も無い船室を息苦しくさせていて、誰も何も話さない。
皆、これからどんな仕事をするのか知らない様子だった。ただ、恐怖の訪れだけは感じている様子だった。
ティーヨはご飯を食べただろうか。
薬は飲んだだろうか。
そんな事ばかりを考えた。
どうしてこんな所に自分が居るのか、ティニャには未だに理解が出来なかった。
ヴィスはすっと立ち上がり、背を向けた。
「その程度ではこの先やっていけませんよ?」
気持ち悪い笑いと共に、そんな言葉を投げられた。
急ぎで一枚羽織っただけのシャツとパンツ姿のボーシュがソファーにふんぞり返っている。
その姿をわざわざ振り返ってまで見ようともしないヴィスは、歩き出そうとする足を止めた。
だが何も答えなかった。
そのまま黙って部屋の扉を開け、営業中の店内を素通りしてヘブンカムを後にした。退店の際、受付の男が上から目線のニヤけ顔を向けて来たが無視した。
暫く歩いて誰も追って来ない事を確認した後、ヴィスは通信機を取り出した。
数秒程度ビーっという音が耳元で鳴ってから『お疲れ様です』と返答があった。
「出たか?」
『これからです』
エルジボ狩猟商会に居るイジドの声。隣にはブルーノンも居るはず。
作戦に参加しないヴィスはロンライン一番通りから状況を確認していた。
「そうか。餌は全員揃ったんだな?」
『はい、勿論です。しかし、今回は多いですね。全部で十八ですよ、十八。相当上もご立腹なんですね』
「確実な仕事をしなければならないって事だ」
『確実な……ね。ところで兄貴。そっちは?』
「ああ。面会の日取りは決めた。それと例の交渉先も知った。もう問題無い。確実な仕事が出来る」
『あははは。そうですね。確実に事を進めましょう。俺達がやる訳では無いですが。それとやはり、嫌味も土産に持たされましたか?』
「当然だ。回収出来なかったんだからな。結局奴が手を回した。次の日には終わってたんだ。元々そうなるだろうと踏んでたんだろう」
『ルマーナ嬢相手ですから俺達には無理ですよ』
「そのルマーナが向かうぞ。分かってるな?」
『ええ。勿論。計画通りに』
「失敗は許されない。頼んだぞ。だが、奴が現れた場合はお前たちに任せる。好きにしろ」
『現れますかね? 不確定過ぎませんか?』
「状況次第だ。余裕があれば現れるだろうよ」
『個人的にはそう願いたいですね』
「無理はするなよ?」
『殺りに行く事前提で言ってませんか?』
「お前らの性格は良く分かっている。やめろと言っても聞かないだろ?」
『特にブルーノンが、ですけどね。まぁ興味本位ですから。アイツも馬鹿じゃないですし』
「金がかかる事はするな、とだけ言っておけ」
『うっす』
「では切るぞ」
『ようやく……ですね』
「……遅すぎたくらいだ」
ヴィスは通信を切った。
最後に自分で言った言葉が、脳裏に残った。
本当に遅すぎるくらいだ。限界だったのだ。
しかし、まさかこんな日が来るとは思わなかった。意を決するには丁度良いと思った。
崇拝される未来が見える。そして彼女も喜ぶだろうと思えた。
煙草の煙を吐き出して「出航したのか」とボーシュは言った。
「はい。先程出た様です」
モイズが部屋の入り口に立ったままで答えた。
薄暗い部屋に灯る淡い光源はベッドを中心とした場所のみを狙い、妖艶な雰囲気を作り出している。
煙草の煙が光に揺れて、更にその雰囲気を強くした。
「ルマーナの方はどうだった?」
「はい。やはり手を出すと思います。商会の事務所へ向かう所を確認しました」
ボーシュはくっくっくと笑って、再度煙草の味を深く楽しんだ。
何気に吸っている物も、今夜は美味い。
「知っているのは俺だけか?」
「恐らく」
「面白い事になった。それにタイミングも最高だ」
「はい。エルジボ様との面会を取り付けた矢先にコレですから」
「あのガキ絡みか……。殴って悪かったな。今は感謝しかない」
「ボーシュ様の読み通りです」
「数年前からエルジボの仕事にちょっかい出してたんだ。エルジボも餌集めに苦労しただろうよ。それに、人身……奴隷売買の禁止にも絡んでる噂があった。いつかは直接手出しすると思っていたが……まさかこんなに早くチャンスが舞い込んでくるとは思わなかったな」
「どうなると思いますか?」
「捕獲失敗の可能性もある。そうなれば、彼女が責任を問われる。俺が密告するしな。それでルマーナは潰せる。上手く行けばヴィスも共倒れだ」
「どちらも無事に終わる可能性もありますが?」
「全て無事に……とはいかないだろう。どちらかに多少の被害は出るはずだ。どちらにせよ、この状況、エルジボは黙っていない。ヴィスの進退にも関わる」
「そこでボーシュ様の登場ですか」
「スタートを切るには最高だろ?」
「駆除薬の件もありますからね」
「そこで確実にヴィスは潰れる。だがそれは保険としておこう」
ボーシュはテーブルにある灰皿へまだ半分以上もある煙草を惜しげもなくグシュと潰して消した。そして「さて……」と言いながら羽織っていたシャツを脱いでソファーに捨てた。
「では、また後程」
空気を読んだモイズは静かに部屋を後にした。
ボーシュはベッドを見た。
教育用に作られた部屋にはもう一人居た。
モイズと話す間も「うう、あああ」等と小さく呻いていた女が一人、ベッドに裸体を預けている。
二日前から研修という名の教育を受けている女だった。
その女を見つめて、そういえば名前は何だったか? とボーシュは記憶を探った。だが、出て来る筈も無かった。そもそも聞いてすらいないからだ。
まぁいいかと思いつつボーシュは小さな瓶を手に取った。
「や、やめて……」
涎が頬を伝っても拭おうとすらしない女は、力の入らない体を必死に動かそうとしている。そして、どれだけ泣いたか分からない程に赤くなった目に、いつまでも枯れない涙を浮かべながら訴えかけて来た。
「おっと。自我が長いな。やはり切れかけてきたか」
「お、お願い……します。もう……」
「いやいや、ここからが本番だ。今夜は気分が良い。最高の夜にしようじゃないか」
「や、やめっ」
言わせる前にボーシュは女の口へ手を当てた。鼻も囲って息が出来ない様にする。
徐々に赤くなる女の顔を見つめながら時を進めた。
この時間が一番好きだとボーシュは思っている。自身でも驚く程に興奮する。
そろそろ限界だと思った瞬間ぱっと手を離し、女の顔に小瓶から出る霧をプシュっと吹きかけた。
呼吸と共に霧状の液体が女の体へと進入する。
ハイフリッカーの即効性は異常だ。
吸った瞬間、女の意識は別の場所へと飛び、動物の様な喘ぎ声だけを響かせた。しかし時折、一瞬だけ自我を取り戻し、その瞬間にぶわっと涙を溢れさせる。
怖い薬だとボーシュは思う。
原液の特性はお香の様に加工された物とは違い、非常に残酷な物だ。
別人と化す自分と冷静になる自分が明滅するように交互に訪れる。気が付いたら事が終わっていた……というのならどれだけ幸せな事か。
時折、瞬間的に冷静になり、自分が何をしているのか、何をされているのかを認識しながら時を過ごす。
自分が自分で無くなる事を体感し続けるのだ。
「さて、楽しませてくれよ」
ボーシュは涙で濡れた女の頬にキスをした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます