プレゼント【9】
薄い鉄板と木材で出来た建物は隙間だらけで、とにかく住む場所を確保するという意思だけの、素人が組んだ積み木の様な有様。高くても二階建てで、ぽつぽつと平屋も目立つ。
道の舗装はされているが、綺麗に舗装されているのはゴミ集積所へ向かう道のみで、他は舗装と言える代物ではない道が、迷路の様に繋がっている。
至る所に住む家のない人々が生気を失った顔をしつつ、折り曲げた鉄板を屋根にして、そのまま地べたに寝転んでいる。多くは無いが、ボロボロの薄いドレスや殆ど下着にしか見えない格好の女性も立っていて、今夜の客をぼーっと煙草を吸いながら待っていた。
下級街の奥にはこういった風景が広がっている。見ようと思えばそんな光景が眼前に広がる場所。若干まともな集合住宅が建ち並ぶギリギリのライン。そんな場所にアズリは立っていた。
懐かしく思う。
でも思い出したくない記憶。
マツリと二人で、一体ここは何処なのかと恐怖と不安に怯えながら過ごした場所。
着ていた服を売り払い、残っていたのは下着と一つの古びたネックレスだけ。何故か手放してはいけない気がしてネックレスだけはショーツの中に隠し、奪われない様にしていた。最終的には生ゴミも食べたし、汚水も啜った。食べても食べても体力が衰えるばかりで、何度も変態的な顔で近づいて来る男性から逃げ回った疲労も相まって、心身ともに限界に達するのは早かった。
飢えに飢えて、信じられない速度で細くなる自分とマツリの体を見ながら死を覚悟しかけた頃、カナリエに救って貰った。数日間、虫下し等の様々な薬を飲み、そして粥から始まり次第に固形物を与えられ、やっとの事で生き返った。
そんな記憶がフラッシュバックの様に蘇る。思い出そうと思えば、もっと細かく、密度の濃かった地獄の生活を思い出せる。
しかし、アズリはかぶりを振ってそれを強制的に消した。
「どうしたの?」
ティニャが言った。
「ううん。何でもない」
「ティニャ、ここの二階の一番奥の部屋に住んでる」
ティニャが指さしで示す建物は三階建ての集合住宅。中級街の建物とは比べ物にならない位に適当に建ててあって尚且つボロボロだが、ここから数十メートル先に広がる下級街奥の建物と比べたらまだマシな方だ。
「部屋まで行こうか?」
パウリナが言うと「大丈夫。ここまででいいよ」とティニャは答えた。
「そう……。荷物まとめておいてね。二日後の夜には迎えにくるから」
「分かった」
元気に答えるティニャの頭を、パウリナは心配顔のままで撫でた。
ルマーナの店でいざこざがあった後は再度盛り上がりを見せる事は無かった。今後のティニャへの対応話になり、皆が真剣に事の案件に向き合い、そしてそのままお開きになった。
今はティニャを家まで安全に送り届ける最中。
ロクセとアズリ、そしてパウリナがティニャと一緒に居る。
ザッカとメンノは飲み直す為に、商店街の飲み屋へ足を運んだ。
「弟君、ティーヨ君も一緒だからね」
「うん。でも、本当にいいの?」
「勿論よ。むしろ私達も一緒に住めて嬉しいわ」
今まで住んでいた所を引き払い、今後、ティニャは弟と一緒にルマーナの店に住む事となった。そうなれば確実に一番通りの連中が乗り込んでくるという話だが、それでも絶対に彼女を渡す事はせず、むしろ全面戦争する覚悟があるとルマーナ達は口を揃えた。そんな争いは数日続くだろうと予想して、その間に一番通りに居る密偵者や協力者を頼り、ヘブンカムとティニャの契約を破棄する根回しをするという。契約さえ無くなってしまえば勝ち、という判断だった。
「それじゃ、もう行くわ。バイドンには話つけておくから、昼間のお仕事はお休みしてね。迎えが来るまで絶対に部屋から出ちゃ駄目よ。ヘブンカムの悪いおじさんが来てもついて行っちゃ駄目。あと、これ、二日分のご飯と飲み物。それと今夜のお土産も入ってるから。ティーヨ君と食べてね」
「ありがとう」
紙袋をパウリナから受け取って、手を振りながら去るティニャ。二階の通路からもう一度手を振る彼女を見届けて、パウリナは胸をなでおろす。
「本当に大丈夫かな」
部屋に籠っているだけで大丈夫なのだろうか。
アズリが独り言の様に言うと「連れ去られたりはしないわ」とパウリナが答えた。
「そうとも言い切れないのでは?」
ロクセも腕を組みながら、そしてティニャが住む建物をじっと見ながら言う。
「……つい数年前まではね、下級街の子の拉致なんてよくある事だったの」
「拉致?」
ロクセはパウリナに向き直り言った。
「そ。奴隷売買。身寄りのない子を狙った……ね」
「では何故、今は問題ないと?」
「今は厳しくなったから」
「どういった理由で?」
「あそこに居る男の人を見て。あのぼーっとして座ってる人」
パウリナが目線だけでとある人物を指した。
ティニャが住む集合住宅や周辺の建物を視界に捉える位置に座っている、如何にもホームレスといった風貌の男が居る。
「あの男が何か?」
「おそらくだけど、あの人憲兵の人」
「え?」
びっくりしてアズリは声をあげた。
「……なるほど」
「あーやって、至る所に変装した憲兵がいるの。この国での奴隷売買は禁止になってね。見つかったら軽くても重罪。普通は死刑よ」
「しかし、これでは大量の人材を使うだろ」
「人だけは多いからね、この街は。それにこっちの方がいざって時に対応早いから。おかげでかなり犯罪率が減ったって話」
「制服姿の憲兵は良く見るが……なるほどこういう形でも警備にあたっていると。……面白い」
「中級街にも変装憲兵はいるけど、殆どが制服憲兵よ。変装してるのは下級街が殆ど。ここは特に犯罪が多かったから」
アズリはふと、自分がカナリエに救って貰った理由を、いや、見つけて貰った理由を思い返してみた。
カナリエは当時、偶然みつけたと言っていたが、もしかしたら最初に変装憲兵が見つけたのかもしれない。もしそうならば、その憲兵にお礼が言いたいと思った。
だが、あくまでも想像。その場で保護すればいいだけの話で、わざわざカナリエに連絡する意味が分からない。
「中級街の夜は静かだった。昼間も喧嘩程度の事はあれど、治安は悪くない街だと思っていた。見えないだけで、憲兵も仕事はしていた……という事か」
「小さな犯罪とか闇市には結構適当よ。彼ら。でも、やる時はやるし、こうやって隠れて見張られるとね、悪い人達も下手な事出来ないって訳。今のバルゲリーは評価高いわ。私も支持する。イケメン多いし」
「バルゲリー……か」
「さ、もう行きましょう」
漸くパウリナが歩き出し、それにアズリも続いた。ロクセは少し思案する素振りを見せたが「ふむ」と言いながら彼女に続く。
「船掘業の経験、一か月程度って言ってたけど、ここまで街の事知らないって、あなた何処から来たの?」
「む?」
失念していた。ロクセが古代人だと知られてはいけないのだ。
無知な人物と悟られたならば、いちいち言い訳を語らねばならない。
助けを求める視線を向けるロクセに変わり、アズリは適当な言い訳を言う。
北から来たとか何とか。いつかベルにも言った言い訳を。
そんな事を説明しながらアズリは思った。この街について自分も知らない事が多いのだな……と。
「ただいま」
手提げ紙袋を二つ持ったティニャは部屋の鍵を開けて中に入る。そしてきちんとロックした。
すえた匂いが部屋中に充満しているが、そんな匂いは生ゴミや汚水が流れる下級街では何処でも当たり前の様に漂う物なので、いちいち気にしてられない。
「見て、ティーヨ。この服、貰ったの。可愛いでしょ?」
食べ物の入った袋、そしていつも着ていた服が入っている袋。その二つを置いて、両手を広げてクルクル回った。
取れたボタンはその場で縫い付けて貰い、既に元の状態に戻っている。
「この服は一緒にお出かけする時に着ようと思うの。だからティーヨにも今度良い服買ってあげるね」
満面の笑みで言う。
「あとね、今日は沢山お土産あるから、いっぱい食べられるよ」
言いながら、先程貰った袋から幾つか取り出した。そしてテーブルに並べた。
「どれが食べたい?」
そう言ってティーヨを見つめた。しかし答えは返ってこなかった。
「って、寝ちゃってるね。ごめんね。いつも起きてる時間にお姉ちゃん居なくて」
小さなベッドに潜って、静かに寝ているティーヨの傍へ行く。
ベッド横のミニテーブルには昼間にアズリから貰ったハルマ焼き、そしてロクセから貰ったマイラサンドが手つかずのまま置いてあった。
「……また食べてない。お薬も……」
具合が悪くて、数日前から食事が殆ど喉を通らないらしい。
ここ、二日は全く食べていない。
「これからは、お仕事するお店に住むから、優しいお姉さん達もいっぱい居るから、お姉ちゃんももっと一緒に居てあげれるから……寂しく無いよ。だからきっと良くなる。安心してね……大丈夫」
座ってティーヨの寝顔を見た。少しタレ目の瞼を静かにつむって、夢の中へ落ちている顔がそこにあった。毎日見てても飽きない。だが、昼も夜も仕事をしている為、起きてる顔は最近滅多に見ない。
ティニャは優しく包む様にティーヨの手を握った。
そして自分もそのまま眠りについた。
コンコンとノックする音が聞こえ、ハッとしてティニャは起きた。
壊れかけの時計を見たら、もう既に昼過ぎになっていた。バイドンの店に行かなくても良いせいか、今までの睡眠不足を解消しようとする体の訴えを優先してしまったようだった。
ティーヨを見ると、相変わらず寝ていた。
コンコンとノックする音は止まらない。怖くなって、暫く黙っていた。だが「ティニャちゃん? 私、ラモナ」と扉の向こう側から声がかかった。
「ラモナお姉さん?」
少し舌っ足らずな喋り方はラモナそのもの。というかラモナの声だった。
何度か送ってもらった事があるので、ラモナはティニャの部屋を知っている。しかし、自ら訪問して来た事はない。
恐る恐る扉に近づいて「本物?」と、少し失礼と思いつつ聞いた。
「そうだよ。事情は聞いた。こんな時だから警戒するよね」
「うん」
「開けて」
「……一人?」
「勿論よ」
当然の様にラモナは答える。いつもの様に優しい口調だった。しかし、開けない。
「迎えが来るまで開けちゃ駄目って言われてるから」
「あ、ごめんね。その迎えが私」
「え?」
迎えが来るのは二日後。正確には明日の夜だったはず。ティニャの頭には疑問符が浮かんだ。
「とにかく開けてくれないかな? 信用できない?」
きっと大丈夫。優しいラモナなら。
ティニャはロックを外して静かに扉を開けた。優しく笑顔を向けるラモナの顔を確認した後、部屋から出て周囲も確認した。
本当に誰もおらず、通路にいつも座っているおじいさんが居るだけだった。
「大丈夫だった? ティニャちゃん。心配してたの」
そう言いながら屈んだラモナがギュッと抱きしめてきた。
「うん。でもどうして?」
「何が?」
「だって、お迎えは明日の夜って。それまでに引っ越しの仕度しておいてって」
「……そう」
何故か少し思案したラモナに「どうしたの?」とティニャは問う。
「そういう事になってたんだなって。ごめんね。詳しく知らなかったの。とにかく迎えに行ってってルマーナさんから言われて、それで来ただけなの」
「ルマーナお姉さ……ルマーナ様に?」
「様? あ、うん。ヘブンカムとの契約破棄するのには本人が居ないと駄目なんだって。話つけるって言って、もう向こうにルマーナさん居るの。今色々と話し合ってると思うわ。ま、契約破棄しちゃえば堂々としてられるし、先にしちゃうって事になったみたいよ」
「そうなんだ……。じゃあ、引っ越しもその後?」
「そう。心配事が無くなれば、ゆっくり仕度出来るからね」
そういう事かとティニャは思った。
おそらく今、ルマーナはヘブンカムの怖い人達と戦っている。自分を救う為にがんばっているのだ。それで、ティニャの部屋を知っているラモナが迎えに来たのだ。
そう思ったら、直ぐに行ってやらねばならないという気持ちになった。
「わかった。今ティーヨのご飯だけ用意してくる。待ってて」
「ありがと。信じてくれて。でも、焦らなくていいよ。ゆっくり来てって言われてるから。そうね……最近あった楽しい事、そう、昨日のルマーナのお店の事聞かせて。お話しながら行きましょ」
「うん」
安心した。
舌っ足らずで優しく話す、いつも通りのラモナだと思った。
ティニャは急いで部屋に戻り、ベッド横のミニテーブルに食べ物と飲み物と薬を用意して「お姉ちゃんがんばってくるから、起きたら食べてね」と言いながらティーヨの頭を撫でた。
昨夜と同じ寝顔のティーヨを見ると、どんなに怖い人に怒鳴られても頑張れる気がした。
部屋の外で「……ごめんね」と呟くラモナの声は聞こえなかった。
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