プレゼント【10】
「ふぐぉ!」
大きないびきをかいた男が急に起こされた時の様な、如何にも動物的な鼻息を漏らして起きた。 寝ぼけたまま自室のデスクの上を見ると、大量の涎が大切な資料にべったりと染みを作っていた。
やってしまった! と思い、ルマーナは咄嗟に自分の服の袖でそれを拭い取った。
「やっと起きましたね」
目の前にはキエルドが立っていて、困り顔でデスクの上の酒瓶を片付けている。
「寝てた……」
「ええ。もう熟睡でしたよ」
「乾くと思う?」
ルマーナが濡れた資料をヒラヒラと掲げて質問すると「大丈夫でしょう。彼が来るまで、まだ少し時間ありますし」とキエルドは答えた。
「う~ん」と資料を見つめてから、ルマーナはおもむろにキスをした。
その濡れた資料は最終ページ。ページの下にキスマークをつける。
自分の体液が付いた資料をロクセが触ると思うとゾクゾクした。濡れた資料もキスマークもプレイの一環だと思えば、これはこれで良い。
「何?」
苦笑するキエルドを睨みながら強く問うと「いえ、何でもありません」と答えた。
ルマーナはふんと鼻を鳴らし、数枚の資料を重ねてトントンと揃えた。
資料の内容は、中級街の衣料品店の地図とジャンル分けされた店の詳細。サラとパームとパウリナを交えて作った資料で、思ったより上手にまとめてあり、今後も個人的に使える資料だとその出来栄えに満足している。
ロクセ達が初めて来店してからまだ二日しか経っていない。いや、二日も経っている。
この資料を作っている時は楽しかった。彼が喜んでくれると思えば、そしてどの店を選んでプレゼントしてくれるのかと予想と妄想をしていれば、会えない時間も苦ではなかった。二、三時間もしない内にまた会えると思うとドキドキしてくる。
「ティニャの部屋は用意出来てる?」
ドキドキを止める為に深呼吸をして、資料をクリップで挟んでデスクの端に置いた。
「ええ。掃除も終わってます。ベッドは一つしか用意出来ませんでしたが、姉弟ですから暫くは大丈夫でしょう。近い内に二つ用意します」
「そう。迎えに行く時はパウリナと一緒にキャロルとベティーもね」
「わかってますよ」
「それと、起こしに来た理由は?」
「おっと、忘れてました。デスクの上があまりに汚かったのでつい……」
「うるさい」
キエルドは手に持っていた酒瓶をテーブルに置いて、ポケットから一枚の封筒を取り出した。そしてこちらまで歩いて来て、手渡ししてきた。
ルマーナはそれを受け取って差出人をチェックする。
そこには小さなマークのようなサインが一つあるだけだった。
「いつ来たの?」
「ついさっき店の裏口の扉に」
情報提供してくれる協力者は各々のサインを持っている。
これは一番通りで働く、とある人物のサインだ。とはいえ、その協力者も部下に過ぎず、本来の情報提供主は他に居て、その主からの命令で送ってきた封筒だろうと予測できた。
デスクの引き出しからペーパーナイフを取り出してピッと綺麗に開ける……事なんてしないルマーナは、そのままビリっと破いて中身を引っ張りだした。
「あの子の契約についてでしょうね。今回は相手に知られてますから、多少は強引に行くべきでしょう」
キエルドが独り言の様に口を挟んできたが、ルマーナはその情報に集中していた。
徐々に表情が険しくなり、それに気づいたキエルドは「何と書かれてました?」と自身の表情も険しくして聞いて来た。
「やられた!」
そう言ってルマーナは立ち上がった。持っていた紙を封筒ごとキエルドに押し付ける様に渡して、ソファー前のテーブルへと小走りで向かう。
キエルドが置いた酒瓶や、元々置いてある皿や空瓶を押しのけて、一枚の手紙を拾った。
その手紙はティニャが持って来たバイドンからの手紙。今の今まで存在すら忘れていた。
勢い良く破いて中身を出す。
その中には請求書と一枚の便箋があった。
男のわりに綺麗な便箋を使うバイドンだが、今はそんな事につっこんでいられる事態では無かった。
「……甘かったですね」
読んだキエルドはそう漏らした。
ルマーナはそんなキエルドの言葉を無視して、バイドンからの情報を脳内で整理する。ティニャから渡された手紙は軽視して良い物ではなかったと後悔した。
バイドンからの手紙も押し付ける様にキエルドに渡して、ルマーナはソファーへ座り、じっとテーブルを眺めた。
「……まずいですね……これは、非常にまずい」
そう言うキエルドの眉間にも、当然ルマーナの眉間にも、これでもかというくらいに深い皺が彫られている。
バイドンからの情報と、今訪れた情報は繋がっていた。
まず、後者の情報はティニャが昨日の内にヘブンカムへ連れ戻されたという事。その手口はティニャと仲の良かった女を使って、憲兵に目をつけられない様に自らヘブンカムへ赴く行動をさせるという手口。そして、エルジボ狩猟商会に向かったという話。この三点。
そして、前者……バイドンの手紙には、エルジボ狩猟商会が、滅多に出ない狩りに出るかもしれないと言う情報があった。
「あたいは……ほんとにあたいって奴は……」
ロクセに夢中になりすぎて、ティニャの保護を軽くみていた。
考えてみれば、甘い言葉や優しい言葉、そして嘘で、簡単に子供なんて騙せる。信頼していた人物を使えば目立つ行動をせずに、ティニャを連れて行く事も出来るのだ。相当数減ったとはいえ、未だに下級街の行方不明者が現れる現状を考えれば、二、三日程度誰かを見張りにつかせる位の事はしても良かった。
ティニャから受け取った手紙だって、その場で読むべきだった。昼間から酒を飲んで仕度に時間が取れずに勝手に焦って、そしてロクセと飲める事ばかりを考えていた。
本当に馬鹿だとルマーナは自身を貶した。
好きな人へ渡す資料を楽し気に作って、来店するのを今か今かと待ちわびている。そんな中、ティニャはどんな気持ちでいた事か。
勢い付いて保護する覚悟を示しても、結果がこれでは自身もクズと言わざるを得ない。
「ああもう!」
そう叫んで、ルマーナはテーブルを蹴った。皿が滑って床に転がり、空瓶も音を立てて倒れた。
エルジボに対する怒り。ヘブンカムに対する怒り。そして自分自身に対する怒り。
それら全てがルマーナの顔に現れている。
「ガレート商会は?! 出てる?」
「確認します」
「こっちに居るならラノーラを呼んでちょうだい! 大至急で来る様に言って! 居ないなら誰でもいい」
「わかりました」
「それと、レッチョをバイドンの所に向かわせてちょうだい。直ぐに品物を持ってこさせて。お金は後から!」
「ローンですか?」
「当然!」
「暫くすると彼……ロクセ様達が来店しますが、どうします?」
「……無関係じゃないからね。……いいわ。一緒に聞いて貰う」
もしかしたら協力して貰えるかもしれないという打算。
言わずともその打算を理解しているであろうキエルドは「ですね」と即答した。
「今回は早すぎる……」
「まだ当分先かと思っていましたが……しかし、バイドンの品が出来上がっている事は幸いでしたね」
「あたい達は本職じゃない。それに、いきなりの本番。気合入れなさい」
「勿論ですよ。ただ計画もこれからって時でしたからね」
「だからラノーラを呼ぶんでしょう? ぶっつけ本番だよ」
「上手くいけばいいですが」
弱腰の意見を述べるキエルドに「上手くやるんだよ!」とルマーナは一喝した。
多々良の修理は肌の構築へと移った。
二日もすれば人間と見分けがつかない完璧な肌が出来上がり、毛髪を含めた体毛もしっかりと植え付けられる。
じっと見ていてもいいが、女性の裸体が構築される工程を観察するほど変態ではない。
六瀬はカバーガラスをブラインド設定にして、観察をやめた。
「……まさか、俺が女の服を買いに歩く羽目になるとはな」
ルマーナに調達を頼むはずだったのに、何故か上手くいかなかった。
いや、何故って事はない。
ルマーナやサラが楽し気にグイグイと計画を話すものだから、つい「そっちで調達してくれ」とは言えなかったのだ。
自分が悪い。
「だが、まぁアズリがいるだけでも救いか。女の下着なんて、俺が買える訳ない」
今夜二度目となる来店に、一緒に行きたい、と要望した彼女には本当に礼が言いたかった。
きっと買い物も付き合う事になるだろうと予想出来るので、ほぼ全てを彼女に任せれば問題無い。自分は後ろをついて回ればいいのだ。
――機嫌も良くなった事だしな。礼に何か一着買ってやるか。ついでだ。
先日はずっと機嫌が悪かった。
彼女の不満は何処から湧いて来るのか結局理解出来なかったが、何故か急にその不満が解消されたらしく、帰り際はいつものアズリに戻っていた……様な気がした。
管轄する者達の利権や名誉や不満がぶつかり合う問題。夜の街では珍しくも無いいざこざ。そんな光景を見て、何処も同じだなと思った。
だが、そんないざこざが終わった頃、アズリの機嫌が良くなった事に気が付いた。何度もその辺りの記憶をリピートさせて精査したが、何処に要因があったのか全く分からなかった。
だから考えるのをやめた。
やめた……のだが、夕飯を作りに来ない理由については気になった。
二日に一度は必ず夕飯を作りに来るアズリだが、昨夜は来なかった。昨夜はその作る日であり、一応、食いっぱなしだった皿を洗って片付けておいた。
その理由について予想出来る事は体調が悪かったとか、用事があったとかだけ。
昨日の昼間も今日の昼間も元気に花屋で働く姿を見ているのだから、心配することもない。きっと何かしらの予定があったのだろう。それに、食事はただのバイオ燃料として使う物。あれば多少はエネルギーの補助となるが、無いなら無いで問題無い。
とはいえ、普段と違うルーティーンが発生すれば妙に気になる。意味も無く。
女は本当に面倒くさい。
六瀬は水の入ったカップをグイっと飲み干した。
そろそろ待ち合わせしているベルの花屋へ向かわなければならない。のんびり待っている時間はここまでだと思いキッチンへ向かった。だが、途中で足を止めて振り返った。
三度のノックが聞こえた後、ゴソゴソと物音が聞こえた。
サーモグラフィーをかけると、男が一人、立ち去る姿が見えた。
「来たか」
待っていた物が届いた。
六瀬は玄関……というより元店舗の入り口へ向かった。
見ると扉の隙間に封筒が一枚差し込んであった。
それを取って差出人を確認したが、小さなサインがあるだけで誰かも分からなかった。だが、封筒が届く事を知っていたのだから誰であっても関係なかった。
六瀬は人差し指で封筒の端に触れ、サッと横になぞった。
すると封筒はまるで鋭利な刃物で切ったかのように綺麗に口を開けた。
この程度の事は指先一本で出来る。
中身を確認すると、折り畳んだ一枚の紙が入っていた。
「……面倒だがやってやるか」
紙に書かれていた文章を読んだ感想。
そこには依頼された……六瀬がこれから行う仕事の内容があった。
「じゃあ行って来るから」
「いってらっしゃい」
マツリが笑顔で送り出してくれた。
アズリは肩掛けの鞄を持ってベルの花屋を後にした。
「それは?」
ロクセが歩きながら聞いて来た。
「ルマーナさんから貰ったドレスと靴が入ってます。着替えもお化粧も全部あっちでしてくれるって話ですから」
「そうですか」
これからルマーナの店へ向かってまた先日の様な酒の席につく。ちゃんとした格好で来てと言われたが、化粧品を一切持っていないと答えたら、苦笑されつつそのまま来店して良いと了解を得た。女として少し悔しかった。いつか、リップくらいは買おうかと思った。
「ティニャちゃんもう居るかな。あのドレス可愛かった。というよりお人形みたいで本当に凄かったし、また見れると思うと楽しみです」
「……既に迎えは行ってるでしょう。今頃……店で可愛がられているかもしれませんよ」
少し歯切れが悪い感じがした。
「そうかもしれませんね」
「ええ」
茜色から闇色に変わる頃合い。商店街の人々は店の片付けを始めていて、急いで今夜の買い出しを済ませようとする女性達が無理やり店に顔を出し、急ぎ足で立ち去っていく。
店の店主達は勿論、急ぎ足の女性達の中にも知り合いは居る。皆、ロクセと二人で歩くアズリを見やり、ニヤけ顔に近い笑顔を向けて来た。
アズリは少し目線を落として歩いた。
「ええ」というロクセの返答を最後に沈黙が続いた。だがその沈黙も、妙に周囲の視線が嬉しくて気にならなかった。
不意にロクセが「昨夜はどうしましたか?」と聞いて来た。
「え?」
「いえ、二日に一度は夕食を作りに来てましたが、昨夜は無かったなと思いまして。何か急な予定でも入りましたか?」
驚いた。
まさか気にしていたとは思っていなかった。
一応気を使って、男一人の家に通う事を遠慮した。ルマーナとの関係があるのだから、邪魔だと思われるのが普通だと思っていた。それにルマーナに申し訳ないとも思っていた。
「夕食、作りに行っても良いんですか?」
「良いもなにも、二日に一度は作りに来ると決めたのはアズリさんですよ?」
「でも、ルマーナさんに悪いかなって」
「ん? 何故ですか? 意味がわかりませんが……」
「いえ、何でもないです。じゃあ、また作りに行きますよ?」
「ええ。どうぞ」
ルマーナの名前を出しても何の戸惑いも無い様子。
ロクセ自身はアズリの存在を良しとしている。
そう思ったら、自分は勘違いしていたのか? と理解し始めた。
食事を作りに行っても良い。それだけの事。でも、それはどれだけ大きな事か。
一人暮らしの男の住まいに通う女。それを良しとするのならば、相応の潔白がなければならない。女の影があっても別段気にしない程の理由。それは、彼がその陰があっても問題無い人間関係を持っている証拠。家政婦の様な都合の良い女と思われているのかもしれない。だが、それでも普通は恋人、又は気になる女性がいる手前、そんな女を通わせる事はしない。
空船内で男の船員達が酒を飲みながら、浮気がどうとか恋人がどうとか、誤解がどうとか嫁がどうとかと、愚痴を含んだ会話をしている。
そんな話を耳にしていれば、きっとこの考えも間違いではないと思う。
――そっか。……なんだ。そういう事。ふーん。そーなんだ。
ルマーナとの関係はもしかしたら、彼女だけの一方通行なのかもしれない。そしておそらく、ロクセは何とも思っていない。
「何が食べたいですか?」
「エネルギーになれば何でも」
「エネルギー?」
「ああ、いえ。すみません。冗談です」
「あはは。面白い事言いますね。食べ物はなんでもエネルギーになりますよ。食べると元気になります。美味しい物なら尚更です」
「そうですね」
不意に出た”綺麗”というロクセの言葉で晴れたとはいえ、一晩寝たらまた沸々と言葉にならないモヤモヤが沸き起こり、ここ二日は胸の中に重い物が埋まっている感覚がしていた。花屋の仕事をしていても空元気でいる自分を俯瞰的に見ている気さえした。
だが……それももう無い。
一方通行だと知ったから、彼女に興味が無いと知ったから、そんな勝手な予想で晴れた気持ちではない。
きっと必要とされない事に不安を感じていたのだ。
彼とルマーナとの関係がどういった物であっても、必要とされている事実が重要だったのだ。きっとそうだ。そうに違いない。
ルマーナには悪いが、これは彼が選んだ事だ。そして世話役としての義務だ。
何が食べたいですか? そう質問した時には既に、どんなに丁寧に作られた化粧でも勝ち目のない、渾身の笑顔が乗っていた。
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