【エピソード2】 二章 ルマーナの店

ルマーナの店【1】

 日も沈みかけて、何処からともなく夕飯の香りが漂ってくる。

 密集した集合住宅の間にはロープが張られていて洗濯物が掛かっていた。

 普通の生活をしている人は夕飯の準備をしている時間だなぁ等と思いながら、未だに取り込んでいない女性の下着を見つつ、メンノは歩いていた。

 すると一人の女性が、ひょいと窓から顔を出した。そして、その下着を取り込もうと手を伸ばし、眼下を歩くメンノに気が付く。

 自分の下着を凝視されたら嫌な顔をするのが普通だと思うが、その女性は笑顔で手を振って来た。

 メンノは慣れた様子で優しく手を振り返し、投げキッスをする。

 女性は投げられたキスを払いのける仕草をし、べーっと舌を出した。


「ふられたか~。残念」

 独り言の様に呟きながら、メンノはそのまま進む。

 後ろにはザッカが居て、その呟きには何の反応も示さなかった。

 今度は通りすがりの女性が「今夜は来てね~」と声をかけて来て「気が向いたらな~」とメンノは答えた。

 ザッカはこれにも反応する気配は見せない。

 更に続いて、集合住宅の入り口から姿を見せた女性は「あらメンノ。こんな時間から?」と言って来た。

「遅いくらいさ」

「相変わらず好きね」

「ライラちゃん今夜は?」

「妹達のご飯用意したら行くわ。これから少し買い出し」

 部屋着と変わらない服装で、すっぴんのままの彼女はそう言って、軽く買い物篭を掲げた。

「大変だな。今度、そっちにも顔出すぜ」

「あら。今夜じゃなくて?」

「平等じゃないとな。皆、嫉妬しちゃうだろ?」

「嫉妬しちゃってる娘が、既にここにいるわよ? いつでも待ってるから。

「了解~」

 ひらひらとお互いに手を振って、そして別れる。


 ロンラインに向かう道すがら、こんな対応が幾度となく行われた。

「わざわざ遠回りする意味はわかるっすけど。……疲れないっすか?」

 ずっと無口だったザッカがやっと口を開いた。

「テンション低いな~。いつもの感じでいこうぜ」

「酒入ってないし。無理っす」

「深く考えないのがお前の取柄なんだから気楽に行こうぜ」

「じゃあ、メンノは気楽に飲めるんすか?」

 そうザッカに問われ、メンノはいつもの様に軽い口調でそれに答えようとした。しかし「だから何で?! 何でいつもそうなの?!」「うるせぇ黙れ!」と男女が喧嘩する声が聞こえて、メンノは開きかけた口を閉じた。

 その声の主が誰なのか知っているメンノは驚く事無く、そして歩みを止めなかった。

 無言で歩き続けるメンノの後ろを、ザッカは同じく無言のままでついて来る。


 細い路地前を通り過ぎる時には「ママ~」としがみ付く子供に「朝には帰って来るからね。いい子にしてて」と言い残し、仕事に向かおうとする母親の姿を見た。

 ロンラインに向かう道すがら、こんなシーンも幾度となく見た。

「……さっきの喧嘩はリリアムちゃん。子供は居ないが旦那がヤバくてさ。……今のはカディアちゃん。二人の子持ちで、甘えてたのは下の子だな。たぶん」

「……詳しいっすね」

 百人居れば百通りの人生があり、同じ人生を歩む事はあり得ない。

 遠回りしながら歩くその動線にすら、その覆される事の無い真理が見て取れる。

「美味い酒を飲むには知らなきゃな」

「そーいうもんっすか」

「そうそう。それに飲んでる時くらい、俺が楽しませてやらなきゃって。ま、ポリシー? みたいなやつ。お前は知ってるだろ? 俺のポリシー」

 船掘業をやる奴も、狩猟業をやる奴も、そしてロンラインで心と体をすり減らす娘も、皆あらゆる事情を抱えて生きている。

 メンノにとって、わざわざ遠回りする理由は、自身の欲望のみの自己中心的価値観を吹き飛ばす為の物。

 飲む事は彼女達を助ける為にある。だから知らなきゃならない。そうメンノは思う。……なんて、かっこいい信念を持ってはいても、そもそも飲む事や女の子達と触れあう事が根本的に好きなのだ、という自虐にも似た自負心がメンノに苦笑を与えた。


「だから気楽に行こうぜ。な? ザッカ」

「そっすね」

「さて、今日はどの店にする?」

「いや、いつもの店って言ったじゃないっすか」

 困った様な、それでいて安心したかの様な表情でザッカがツッコミを入れて来る。

「忘れろって言ったのはお前だぜ? だから冒険してたんじゃないか」

「そっすけど。そういう事じゃなくて……」

「待つのも疲れたしな」

「……先に進めるなら……それでいいっすよ」

「大丈夫だって」

「そっすか」

 その後も、出勤し始める女性と挨拶を交わしながら、のんびりとロンラインへ向かった。

 ザッカも幾分気持ちが元に戻りつつあるようで、女の子から手を振られれば、それに軽く返す様になった。


 入り組んだ道を抜けるとロンライン入り口のゲートが見えて来た。来る者拒まずといった雰囲気でゲートが開かれており、そこに向かって男女がぞろぞろと足を進めている。

 そんな中に、不自然に目立つ三人組が居た。本人達は目立たない様に歩いているつもりなのだろうが、逆にそれが目立つ要因になっている。

 周囲の女性は見て見ぬふりをしようとする様子で、しかし、哀れむ視線をその三人に向けている。

「……ヘヴンカムの連中だ」

「例の……失敗したって店っすか」

「ああ。一人は受付にいた男だぜ」

 三人は横並びで歩いていて、周囲から特に注目されているのは、その中央を歩く女の子。

 左右の男達から肩を組まれて、絶対に逃げられない状況で歩いている。

 まだ二十歳前後に見える艶のある肌には、可哀想な程に血の気が無かった。肩を畏縮させて恐怖に堪える様子で男二人に連れられていた。


「ああいうやり方には虫唾が走る」

「借金か何かっすかね」

「さぁな。少なくとも働かせる為の弱みは握ってるんだろ。どう見ても自分の意思じゃないぜ。あれは」

「はめられた感が半端じゃないっすよ」

「同意だ。それに……あいつらの目を見てみろよ。もう品定めしてやがる」

 周囲の男達の幾らかは、下卑た目で女の子を見ている。

 店に立つのが今夜からなのか、幾日か先になるのかは分からないが、その際に自分は買うかどうか、楽しめるかどうかを吟味しているのだ。


「……これも、ここの現実ってのがな……」

 嘆いた所で、一番通りを統括しているエルジボをどうにかしない限り、改善は絶対にあり得ない。

 特にエルジボの右腕と知られるヴィスが厄介で、今では一番通り全てを仕切り、管理貴族にまで強いパイプを持っていると聞く。

 彼が居るだけで、エルジボの地位も財産も絶対に揺らぐ事の無い物だと、ロンラインに通う者には周知の事実として受け入れられている。

 無類の女好きである為、相当数の女性を情婦にしていると言われ、噂の範囲ではあるが禁止されている奴隷売買にも手を出していると聞いた事がある。無論、そんな噂は一部に過ぎず、彼に目を付けられた輩はいつの間にか行方知れずになるとか、薬の流通にも加担しているとか、噂に至ってはキリ無く存在する。

 ロンラインに通うメンノにとってはそれらの噂も酒のさかなになる。

 だが、ヴィスとの関りが無い二番通りですら、彼の名前を出すだけで怯える女の子が少なからず居る為、メンノは出来るだけ彼の存在を考えない様に、そして口にしない様に務めていた。


「一番通り限定っす。行かなきゃいいんすよ」

「飲むだけの店もあるんだぜ?」

「なら二番通りに行けばいいだけの話っす」

「……だな」

 今夜向かう場所は二番通り。

 昨夜に冒険した一番通りにある店、ヘヴンカムにはもう二度と行く事は無い。だが、連れ去られる女の子がその店でどういう扱いを受けるのか、と考えてしまうと心が締め付けられた。

 とはいえ、ヴィスに喧嘩は売れない。


 自分に出来る事は何もないと悟り、メンノは三人組から目を背けようとした。

 とその時、三人の内の一人が、何処かを見ながら立ち止まった。

 メンノはその男の視線を辿った。

「何だ? あいつら」

 メンノにつられてザッカも顔を向けた。

「古代……じゃなくてロクセさんっすね。あと……え? アズリ?」

「それと、謎の少女」

 悪い意味で目立つ三人組とは違って、こっちの三人組は変な意味で目立っていた。

 手を繋いだ姉妹の様な二人と連れ立って歩く男の三人組。

 男の方が姉妹を追う様に歩いていて、三人がまっすぐ向かっている先にはロンラインがある。

 大きく手を振って歩く女の子二人の姿は、今から歓楽街へ遊びに行く雰囲気では無い。それこそ、この辺りで見かける様な組み合わせでもなかった。


「なんだか……親子で夜の街へ遊びに行くような……変な光景っすね」

「それもそうだが、俺としては酒の席に一切付き合わなかったロクセと、飲めないアズリが一緒にロンラインに行く事に驚いてる」

「そっすね。しかも、小さな女の子付きで」

 三人はこちらに気づく事無く、そして周囲を気にする事も無く歩いている。

 いつの間にか道行く人もアズリ達の方を気に掛ける様になっていた。


「……面白い」

「え?」

「ザッカ。今夜あいつらに付き合おうぜ」

「マジっすか!」

「こんな愉快な面子はそうそう無いって」

「そっすけど……」

「それに雰囲気からして、あいつらロンライン初めてだろ」

「まぁ、見るからに……」

「案内の一つもしてやらないと……だろ?」

「確かに。間違って変な店に入ったら……ましてや通りを間違ったら場違いどころじゃないっすからね」

「よっし! 決まりだ!」

 沈みかけていたテンションを取り戻すかのようにメンノは叫んだ。


 バシバシとザッカの背中を叩いて勢い良く歩き出す。その際、チラッと連れ去られる女の子を見やり「ごめんな」と呟いた。それは自分自身に囁くようだった。

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