朝日と温もり【3】
「言葉に出来ないけど……しいて言うなら、誰かに語り掛けられてるみたいなの」
そういうカナリエはデッキブラシを立てて、柄に両手を乗せている。
アマネルはそんな彼女を見つめながらライフラインに寄りかかっていた。
「嫌な予感がしてたとか、そんなんじゃなくて?」
「そうとも取れるけど、何だか少し違う……守らなきゃって義務感……みたいな。そうしなさいって言われてるみたいな。そんな感じ」
「……分かるかも」
日も落ち始め、茜色の空が岩肌を照らしている。火照った体を休ませながら、ほんのりと張り付く汗を拭うカナリエを見て、アマネルも真似をした。
甲板に残った大量の死体は片づけたが、粘ついた体液が厄介で、船員皆で掃除しても随分と時間がかかっている。
「あの子が来てから二年になるかしら?」
「そうね。……十四歳でこの仕事をしたいって言った時にはどれだけ反対したか……今でも覚えてる」
「その時も同じ感覚だった?」
そう問うとカナリエは一瞬遠い目をして「ええ」と答えた。
カナリエが言う言葉に出来ない感覚は、アマネル自身も感じていた。
アズリに何かある度に、その前触れと言える妙な胸のざわつきを感じる。皆が同じという訳では無いのだろうが、少なくともアマネルは感じていた。
そして今初めて、カナリエも同類という事を知った。
特に、その感覚を強く得るのはカナリエなのだろう。彼女が絶えずアズリを気にしている時は殆どと言っていいほど事件が起きる。
「前世では親子だったりして?」
冗談で言ったつもりだったが、真顔のカナリエは躊躇なく「そうかもね」と答えた。
昼間の捜索ではアズリの生死を確認することは出来なかった。
人であった何かが地面に残っている、という程度が可能性としては一番高く、運が良くて遺体の回収が関の山。正直な所アマネルはそう思っていた。
しかし、何の痕跡も発見できなかった捜索は、アズリの生存を示唆している。
低い可能性であったとしても、その事実はこの船の本来の雰囲気を取り戻させた。
銃の整備も明日の準備も終わり、ミラナナは高速艇でガレート商会に向かってしまっている。
甲板掃除の最中にしているこの会話は別段特別な物ではないのだが、アマネルにとっては考慮に値する物だった。
「ウチの商会、アズリが来てから一人も死者を出してないのよ」
言うと、カナリエは「そうね……怪我は絶えないけど」と返してきた。
「それに、ランクも三つ上がったわ。ここ二年の売上は相当な物よ」
「知ってる」
「今回の事もそうだけど。アズリは……いつも自分の犠牲と引き換えに利益をもたらしてくれる……そんな子に思えるの」
「気苦労は絶えないけどね」
その答えを聞いて、カナリエも同じ事を思っていたのだと察した。
偶然なのかもしれないが、大きな利益を出した時には何かしらアズリが関わっている。生存が絶望的状況になる今回みたいな事は初めてだが、それに近しい事は何度もあった。
「生きてるって信じてる?」
聞くと、当たり前と言わんばかりに「もちろん」とカナリエは答えた。
「そ。……リビが言ってたわね。いつもケロリとして戻ってくるって。私もそう思うわ」
半分は嘘だ。しかし、今までの事を考えるとそう思えるのも事実だった。
「探査艇を出してくれてありがとう、アマネル。船長があのままだったら、諦められてたと思う。普通、この状況じゃ生きてるなんて思えないもの」
「ええ。そうね。でも、アズリなら可能性はあるって皆、心の中で思ってたんだと思うわ。探査艇を出したのも、ザッカとメンノが打診してきたからよ」
「二人して?」
「ええ。今すぐ行かせてくれって言って来たわ。燃料代も馬鹿にならないし、基本的に船長の命令がないと小型艇は出さない決まりだけど、私も直ぐに捜索に出るべきだと思ってたからね。ルールなんて無視よ無視」
「……あなたのそういう所が一番好き」
「あらそう? ありがとう。でも流石に今回は絶望的に思えて、判断が遅くなったと思ってる。あのままだったらもっと遅かった……。背中を押してくれた二人に感謝かもね」
「ザッカはああ見えて面倒見が良いから……」
「ふふ。確かに。ま、メンノは女の子大好きだから当然の行動だったと思うわ」
アマネルは、デッキブラシで懸命に甲板をこするザッカに目をやった。慣れた手つきで大汗をかきながら掃除をする後ろには、ぼーっとしているメンノが居た。
アマネルの視線に気が付いたカナリエも同じく彼らを見た。
「ザッカの罰……今日で終了にしてあげましょう」
あんなにも懸命に掃除をする姿を見せられたら、素直にそう思える。
「そうね」
カナリエも賛同した。
夕方のほんのり肌寒い温度になった風は、汗を冷やしてくる。風邪をひく体温になる前に、二人はもう一度デッキブラシで体を温める事にした。
息がきれる。
全力疾走ではないにしろ、いったいどれだけ走ったか分からない。
アズリは右目に手を当てながら、狭い視界で懸命に走っていた。
浅はかだったと今は後悔している。
倒れたハイグローブの枝葉に隠れて安心したのはほんの数分。気が付いた時には手遅れだった。
ハイグローブの幹から飛び立った鳥。あれはエッグネックからすれば捕食対象でありつつ天敵でもあったのだ。
幹に作られた穴。それは鳥の住処では無くエッグネックの住処だった。あの鳥はまだ小さいエッグネックの子を捕食していたのだ。
そんな事を知るはずもないアズリは、隠れていたハイグローブからその事実を知った。
隠れて直ぐに、自分を助けてくれた鳥が近くで飛び立つ姿を見た。先程追われた個体とは別だった。もしかしたら卵でもあるのではないかと、好奇心と若干の空腹感で飛び立った場所に近寄った。
しかし、そこにあったのは卵でも雛でも無く、グロテスクに口を開けるエッグネックの子供だった。
餌を求めているのか驚いているのか分からないが、小さな奇声をあげながらにゅるにゅると口の触手を伸ばしていた。まだ足が細く背中の触手も気持ち悪く蠢くだけで短い。
考えてみれば先の鳥も今の鳥も嘴が膨らんでいた様に思える。
アズリはゾッとした。安全だと思っていた場所こそ一番危険だった。
エッグネックの巣はハイグローブの幹にある。地上に下りた事も、鳥が飛び立った場所を確認した事も、ある意味では良かったのかもしれない。しかし、今の状況はかなりマズイ。この場に留まる事は絶対に出来ない。
では、今度は何処に隠れたら良いのか。勿論、見当もつかない。
どうにか背丈のある雑草を探すしかないのだろうか。等と、思案してる暇もなかった。
子が攫われた事を察した親が、クリック音を響かせて近づいてきた。
どうすればいいか悩んでいる内に、その個体は重い音を響かせて降り立った。そして巣の近くにいるアズリに気が付き、口を開けながら首を伸ばしてきた。
アズリは咄嗟にナイフでその首を刺し、一目散に逃げ出した。
そして今、数体のエッグネックに追われながら必死に逃げている。
足元の蔓を避けながら走る。走れば走る程自分か落ちた場所から離れて行く。森の奥へ奥へと進む度に絶望感が増していった。
エッグネックの移動距離は一回の跳躍で簡単に木々の間を埋める。しかし、立ち止まってはクリック音を鳴らす為、走り去るアズリにとってはその時間が唯一相手を引き離す手段だった。
普通は、この森で蔓に掴まらず走り抜ける生物はそう居ないのだろう。捕食者は不定的に屈曲しながら走る獲物の居場所を捉えるのに必死になっている様に見えた。
「もう……息が……続かない。走るのも……」
奇跡の左目があるから今は生きのびられている。
この目が何なのか、原理も理由も何も分からないが、それに頼ってどうにか逃げ切るしかない。しかし、どんなに走ってもハイグローブ以外の植物は膝下程度で、時折腰丈までの植物があったとしても、まばらで密集しているわけではなかった。
隠れる場所なんて初めから何処にも無かったのかもしれない。
ハイグローブの上にはまだ茜色の空があるのだろうが、森の中はかなり薄暗く、湿気の強い空気が充満している。奥に進めば進むほど湿気は増して行き、見た事も無い生き物が時折姿をみせた。変な鳴き声も増え、今自分は狩猟商会でさえ足を踏み入れない場所まで来てるのではないかと思った。
「ああ……そんな……嘘でしょ」
増えるのは湿気や鳴き声だけではなかった。足元の蔓も進むにつれて増えていた。
出来るだけ安全な場所を走っているつもりだったのだが、まるで誘導されているかのようにアズリの逃げ道を減らしていた。
既に光る蔓がそこらじゅうに張り巡らされている。戻るにしても、後ろからはエッグネックが追ってきている。
逃げ道は無いかと探しても、もう何処にも無かった。
ゆっくりとだが、動く蔓がアズリの足元まで迫っている。すでに踏み出す場所すら無かった。
――もう駄目。
そう思うと、マツリの顔が浮かんだ。
薬の買い置きなんて殆どない。自分が死ねば、マツリの死も直ぐに訪れる。ベルや、カナリエが面倒を見るといっても限界がある。アズリの稼ぎの殆どを費やしている現状を、孤児院を持つカナリエや、小さな花屋だけで食いつないでいるベルに賄える訳がないのだ。
「ごめんね……ごめんね……」
辛い人生の中の小さな幸せ。マツリの顔を見れないと思うと、手が震えた。妹の元に戻れないと思うと脚が震えた。
大きくクリック音が聞こえた。捕食者はもうすぐそこまで来ている。
逃げ切る自信も勇気も打ち砕かれたアズリはその場でしゃがみこんだ。
手足を食いちぎられ、はらわたを引きずり出され、頭を噛み砕かれる。そんな生きたまま肉塊と化す自分を想像すると、全身が痙攣でもしたかのように震えた。
アズリは「ごめんね」と妹に向けてもう一度謝った。
「こっちよ。飛び込みなさい。早く」
こんな状況で、不意にかけられた声。
「足元には気をつけて。蔦があるかもしれない。踏まない様に、一気に飛び込みなさい」
この森で起こった奇跡の中で、この声が一番の奇跡だったとアズリが感じるのは、いくらか先の事になる。
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