朝日と温もり【2】

 手のひらが頬に優しく触れる。

 しかし、それは手のひらなのか、それこそ人間の物であるのかさえ分からない。

 人のシルエットを成している白糸の集まりが自分の頬に触れている。母親の記憶は無いが、きっとそれに似た何かなのだろうと思えた。

 何故だか分からないが、一粒の涙が左目から流れ落ちた。その涙が手のひらに触れると、光の粒となって白糸を伝っていく。その光は人に模した何者かの体の中心まで流れ込み、クルクルと回る。

 その光景を見ていると、吸い込まれる様な感覚が意識を鈍足にさせた。

 不意に、回る光が止まり、ゆっくりと伝って来た道を戻っていった。肩を通り肘を通る。そしてまた自分の左目にたどり着く。流した涙が戻ってくる形容し難い感触を得ると、中で弾けたみたいな酷い痛みが襲った。


「うっ!」

 左目奥に一瞬の痛みが走り、アズリは目を覚ました。

 頭がふわふわして、焦点が定まらない。不思議な夢を見ていた気もするが、それが何だったのか思い出せない。

 木々の間から差し込む茜色の光を暫くぼーっと眺めた。

 風と共に擦れ合う葉音が静かに聞こえ、キチキチと雌を呼び込む虫の声が小さいながらも至る所で飛び交っている。カッカッと、嫌というほど聞いた喉を鳴らす音も聞こえる。その音はゆっくりと近づいて来ている。背後から迫るその音を聞くと妙な嫌悪感が沸いた。


――ゆっくり休ませてよ……。本当、嫌な音……。


 耳障りな音から逃れる様にアズリはゆっくり目を閉じる。が、ハッとなって再度開いた。

 気づいた時には遅かった。

 何故自分は、直ぐにでも今の状況を把握しなかったのだろうかと後悔した。微睡みに意識を持って行かれていたなんて言い訳にすらならない。

「……っ!」

 アズリは息をするのすら躊躇した。

 樹の幹に太い脚から生える爪を食い込ませ、背中の触手を枝に絡めて真横に佇む黒い影は、首をヌルリと伸ばしクリック音を響かせている。


 アズリの目の前には獲物を探すエッグネックが居た。


 アズリが目線だけを周囲に泳がせると、ハイグローブの太い枝に自分が寝ていると判断出来た。高さはどのくらいか今は分からない。一切動く事が出来ずに、ひたすら冷や汗だけがにじみ出た。

 アズリに影を落とすエッグネックは頭を左右に振っている。


――見つかったら……終わり。は、はやく行って!


 ふっふっと小刻みに息を吸うと心拍数が上がった。

 そんな微妙な動きに反応したかどうか分からないが、エッグネックは振っていた頭をアズリに向けた。

 長い首と共に近づく、つるりとした頭部には、弾が掠った様な細長い傷があった。アズリの目と鼻の先にあるのだからそんな傷すらもよく見える。

 アズリは、とにかく体を強張らせ、震えを止めた。もう既に息すらも止めている。

 ねちゃりと気持ち悪い音を立てて、恐怖の塊は口を開いた。人間の頭なんて一瞬で食いちぎるだろう悍ましいそれは、臭い息を吐きながら口内の触手を伸ばした。

 蠢く触手の中の一本がアズリの顔に近づいてくる。アズリはグロテスクな光景に耐えられずゆっくりと顔ごと視線を外し、目を閉じる。


 触手はアズリの頬に触れて、耳横を通り過ぎ、額までベロンと舐めた。


 瞬間、アズリの下着が少し暖かくなった。同時に死を覚悟した。が、しかし、何も起こらない。薄っすらと目を開けてみると、エッグネックは開いていた口をゆっくりと閉じた。そして、目の無い顔でじっとアズリを見つめ、思案している素振りを見せた。

 そんな中突如、グアェ! と驚く様な鳴き声が大きく聞こえ、アズリはビクリと体を揺すった。

 その鳴き声の発生源はエッグネックの背後からだった。エッグネックは瞬間的にそちらに頭部を向けた。

 樹の幹に開いた穴から、大きな鳥類が飛び立った。

 二度大きくクリック音を鳴らすと、素早く触手を動かし、幹を伝っていく。そして恐ろしい跳躍を見せてエッグネックはその場を去った。


「うっはっ。はぁはぁ」

 枯渇していた酸素を一気に取り込みゲホゲホと咳き込みながら息を吹き返す。

「た、助かったぁ」

 息を止めてから一分かそこらか。それともそれ以下か。時間にすればその程度だった思うが、言葉に出来ない程長く感じた。

「鳥さん、ありがとう」

 アズリは、暫くしたら奴らの餌となってしまうだろう命の恩人に礼を言った。


 緊張が解けて、脱力すると茜色の陽光が目に刺さった。少し眩しさを感じて、額に手をやると、ぬるっとした感触があった。

「まさか。これのおかげ?」

 飛び散ったエッグネックの体液が額から頬にかけてべっとりと付いている。粘度の高いそれはアズリの顔半分を覆う様に付いていて、先のエッグネックはこれを舐めとったのだと思った。

「同族の死体……だと思ったのかな? ……う。でも少し臭い。これ」


 アズリは裾で顔を拭ったが、匂いは体中から出ている。上体を起こすと、触手が体に巻き付いていた。と、そこで、今の状況に至る理由を思い出した。この触手が原因で船から落ちたのだ。

 でも何故、生きているのだろうと疑問が出る。相当高い場所から落ちたのは知っているが体は然程痛くも無かった。

 アズリは恐る恐る後ろを、否、自分の下敷きになりベッドと化している何かを見た。


「うわぁ……」

 もう見るのも嫌になるエッグネックがまたもやそこに居た。腹には無数の弾痕と大きめの穴が開いていて、そこから内臓が漏れている。肩と頭部に枝が突き刺さり、開いた口からその枝が飛び出していた。落ちた時に沢山の枝に引っかかったのだろう、体中に無数の傷があった。

 その死体は、太い枝が交差する場所にうまい具合に落ちて、安定したバランスを取っている。

「引っ張られたのもこれが原因だけど……。私が無傷だったのもこれのおかげか……。なんか複雑」


 意識がはっきりしてきた今、再度真上を確認した。折れた枝の間から、僅かに樹頭が見えた。見た感じ三、四十メートルは高い位置にある。船から落ちた距離はその倍近くあったと思われた。


――でも、本当、よく生きてたな……。私。


 気を失っていた理由は分からない。落ちた瞬間のショックからなのか、死体のクッションがあったとはいえ着地時の衝撃が強かったせいなのか。船から飛び出てからの記憶はあいまいで、どちらの可能性もあった。


――はっ! でも、私どれだけ気を失ってたの? 


 アズリは焦ってズボンのポケットをまさぐった。全船員に配られる、コンパスと時計が一体になっている鎖の付いた道具を手に取り、蓋を回す様にスライドすると一般的な時計が姿を現した。それを確認し、再度空を見る。


――って空色を見れば分かるよね。……もう夕方か。……何時間も経ってる。


 気を失っている間に仲間が捜索に来たのかどうかは分からない。どちらにしても、こんなところで長時間寝こけていたのなら、そう易々とみつかりっこない。ともかく今は、生きのびる事を優先に考えなければならないと思った。

 まず、巻き付いた触手を取り除かなければならない。しかし、死後硬直も相まって、アズリの細腕では何度力を込めても緩む様子が無かった。


――はぁ……。ビクともしない……。あっ。そうだ。


 アズリは自分の右太ももに手を当てる。そこにはコンパスと同様、船員支給のナイフが装備されていた。エッジ中部からポイントまでがゆっくり反っていて分厚い。ハンドルは丸くて太く、女性には扱い難いが、切れ味が鋭くて意外と重宝するナイフだ。

 アズリは自分の体を切りつけない様に、慎重に触手を切っていく。ズルリとした粘度の体液がナイフにこびり付き、切り進める度に切れ味を損なっていく感じがした。

 切り終わるとナイフを仕舞い、下を確認した。高さは四十メートルあるかどうか、といった所。しかし、根本は無数の木が網の目にも似た複雑な絡み方でドーム状になっている為、ドーム上部までの距離ならば三十メートルそこそこに思えた。

 この場に留まるか、イチかバチか地面に降りるか迷う。


 地上ではオモトコリスの蔦が体の自由を奪う。樹の上はエッグネックが飛び交うし、捜索の際には発見に支障をきたしかねない。

 生き残る可能性を天秤にかけるのならば、僅かながら地上の方が軍配が上がる気がした。


 理想的なのは、地上に降りた後少しでも背丈の高い雑草に隠れて、出来るだけこの場所の周囲から離れない事。降りた時点で即座に蔓に掴まれば運が悪かったと思うしかない。が、エッグネックがぴょんぴょん飛び交うこんな場所に居るよりは、それに賭けた方がマシだと思った。


「下で、隠れられそうな場所を探す……しかないよね」

 アズリは地上を見つめ、降りる為の算段をする。そしてハッと気が付きベルトから延びるロープを手に取った。

 ロープは上方に延びていて、枝葉の密集する場所へ繋がっていた。

 アズリはそのロープを引き寄せた。途中引っかかる感覚はあったが、何度か強く引き寄せると後はスルスルと手元に降りて来た。


――思ったより長く残ってる。よかった。何とかなりそう。


 長さは十数メートル。ドーム上部まで降り立つには全然足りないが、枝と幹を伝って上手く下りればいけそうだった。

 ロープを輪っかに纏めて肩に掛ける。そしてまずは、枝が無くなる地点まで慎重に降りて行った。一番下の太い枝にロープを縛り、幹に足をかけつつゆっくりと降下する。ロープが限界を迎えたら幹にしがみついた。


 ハイグローブは沢山の木の集合体で出来ている様だった。故に、幹には僅かながらも隙間があり、そこに手足を掛けることが出来た。

 躊躇なくロープをナイフで切って、幹を伝って残り数メートルを降りた。


――はぁはぁ、良かった。降りれた。


 無事に根本のドームまで降りると、想像以上にそのドームが大きい事に気が付いた。

 根がこんな形を成すのか、別々の木が寄り添うのか分からないが、周囲全てのハイグローブが同じ形状の根本を持っている。

 アズリは交差して隙間を成している部分に足をかけて更に下へ降りていった。途中、隙間から中をのぞくと、中央に一本の幹があって、他は完全に空洞になっていた。


――あれ? この中にでも隠れていれば一番安全かも?


 アズリは地上に足を付ける直前でドームに留まり、ナイフを突き立てた。しかし、一本一本がとても固く太い。女の力で、ナイフ一本で、人一人潜り込める穴を開けるには恐ろしく時間がかかると即理解した。長時間こんな所で大きな音を立てながら作業をしていては、確実にエッグネックに見つかる。


――やっぱり無理か……。


 アズリは素直に諦めた。遠くでクリック音が聞こえた。ビクリと体が強張る。


――いけない。早く何処かに隠れなきゃ。


 足元に一番近い地面を良く観察する。

 オモトコリスの蔦を見た事は無いが、刺があるのだから、よく見れば分かるかもしれない。探してみた感じでは、足を付けようとしている範囲にそれらしき植物は無かった。

 アズリは恐る恐る地面に足を付けた。


――よかった。大丈夫みたい。


 生えていた雑草が踏みつけられるだけで、何の反応も無かった。

 アズリはその場で周囲を観察した。落ちた遺物船に削り取られた場所は草木がなぎ倒されていて、安全に歩ける気がした。が、木々と寄り添う様に歩くと言っていたラノーラの言葉を思い出した。


 おそらく、開けた場所を移動するとクリック音の反響定位に引っ掛かり易いのだろう。足元は安全かもしれないが、そんな場所を歩いたら、エッグネックに即座に発見される危険があると思った。


 アズリはもう一度周囲を観察した。


 完全になぎ倒された訳では無く、押し曲げられた状態のハイグローブばかりが目に付く中、完全に倒れた一本のハイグローブを見つけた。枝葉が密集している場所ならば簡単に身を隠す事が出来そうだった。遺物船に削られた地面を迂回していけば、少し遠いが辿り着く。

 膝下までしかない雑草ばかりなのだから、周囲にはもうそこしか隠れる場所は無いと思った。


――じっくり見て、ゆっくり歩けば大丈夫。きっと。


 アズリは一歩歩く度に立ち止まり、注意深く調べてから前に進む。辿り着くまで、どれだけ時間がかかるか分からないくらいに鈍足だった。

 数メートル進むと、初めてオモトコリスの蔦らしきものを見つけた。聞いていた通り鋭い刺が付いている。

 アズリは数歩後ずさり、足元にあった大きめの石を拾った。そして、その蔓に向かって投げてみた。

 ドスンと音を立てたと思った瞬間、とぐろを巻いて蔓が上へと伸びた。絶対に獲物は逃さないと言わんばかりに締め付けようとしていて、まるで意思のある生物の様に見えた。


――うわ……捕まったら終わりだ……。


 アズリはその道を避けて回り込んで進んだ。数歩進むとまた蔓を見つけた。そして別のルートを探そうとした瞬間、おかしなことに気が付いた。

 ついさっき歩いた場所に蔓がある。よく見ると蔓は何かを探す様に動いていた。

 余計な事をしてしまったと後悔した。

 投げた石に反応してしまったのだろう。どうみても獲物を探している。ゆっくりだが着実に動く蔓はアズリの周囲にめぐらされている様に感じた。


――ど、どうしよう。


 怖くて一歩も歩けなくなった。そんなアズリに追い打ちをかけるクリック音。その音も少し大きく聞こえた。一体か二体が近くに居る。確実に。


 目的の場所まで、まだまだ遠い。さっきまで、恐怖はあれど妙に楽観的だった自分は何だったのだろうか。と、今更気が付いた。本来ならば最悪と言える状況なのだ。

 焦りが心拍数を急激に上げた。すると何故だか同時に頭痛が襲ってきた。目覚めた時に感じた物と同じ頭痛だった。左目奥が弾ける様に痛い。しかも一瞬の痛みでは無く、今度は何度も激痛が走った。


「う……うう……」

 アズリは堪らずその場でうずくまった。動悸と頭痛が連動して襲い掛かる。

 最悪だ。と思った。

 エッグネックが近づいてくる気配がある中、急いで隠れなきゃならないのになかなか前に進めず、謎の頭痛で立ち止まる。もう絶望しかない。


 しかし不意に誰かに触れられた感触があった。一瞬だけ頬に手を当てられた感触だった。

「え?」

 ハッとして目を開けたが当然誰も居なかった。頬にだけ、ほのかに温もりが残っていた。

 気が付くと頭痛が治まっていた。意味が分からず、しゃがんだまま呆けていると、白いロープの様な物が見えた。細い糸が束になっていて光が流れている。

 しかし焦点が定まらない。


「なに……これ」

 アズリは手で左目を隠してみた。すると白糸の光が消えた。逆に右目を隠すと白糸が見える。

 目の異常としか思えない。

 アズリが持つ特別な感覚。いままでは視覚として捉えるなんて事は出来なかった。多分、今の状況を誰かに話しても信じて貰えないだろう。が、そんな事はどうでも良かった。


 アズリには足元の蔓が判別できていた。左目が伝える白い光。そこらじゅうに張り巡らされているのが見て取れた。


――見える……蔓だけ光ってる。


 アズリは右目を手で押さえ、左目のみで周囲を見渡し、白糸を縫うように足を運んだ。

 大きく回り込んだり、ジグザグに進んだりと真っすぐに向かう事は出来ないが、目的の場所まで迷う事なく近づけた。


 急に現れた左目の不思議に戸惑いながらも、目の前にあるハイグローブの枝達にホッとした。隠れてさえいれば、とりあえず安心出来る。

 エッグネックの巣は何処にあるのか? そんな事は一切考える事も無く、アズリは今ある奇跡に感謝した。そして枝葉の中へ潜り込んだ。

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