指定区域【7】
微睡の中、自分を呼ぶ声が聞こえる。もう少し寝かせて欲しい気持ちが溢れ「うーん」と返事とも取れない空返事だけがアズリの口から漏れる。
二、三度それを繰り返すと、流石に意識も元に戻った。ハッと飛び起きて時計を見た。短い針が三度回った時間が過ぎている。
――寝ちゃってた。あっ! マツリ!!
思って直ぐ、妹の様子を伺う。額に乗せたタオルは流石にもう冷たくはない。しかし、熱は少しずつ下がって来ているようで、額に手を添えると今朝より幾分マシになっていた。心なしか顔色も良い。
徹夜で妹の看病をしていたとはいえ、寝てしまった事に後悔した。ここで悪化してしまったのでは元も子もない。少し具合は良くなっているがまだ気を抜けない。
ボールの中の氷は溶けている。
常温の水が入ったボールを持って、アズリは部屋を出た。
「何度呼んでも来ないから……大丈夫?」
階段の下でベルが心配そうに声をかけてきた。
「ごめんなさい。少し寝ちゃってた。今、氷取り替えようと思って」
「そう。マツリちゃんの具合は?」
「少し良くなったと思う。多分、あと一日看病してれば落ち着く……かな」
「なら良かったわ。こっちの事は気にしなくていいから、今日はマツリちゃんに付き添ってあげて」
「でも、これから配達あるでしょ?」
「そうね。でもそれが仕事だもの。今日は五件だけだし私が行くわ」
「……ありがとう。ベルおばさん」
言うと「いいの。こっちの事は本当に気にしないでね」と再度繰り返し、ベルは優しく微笑んだ。
ベルに対しては、本当に感謝の念しか生まれない。
「そう言えば、呼ばれてたのって何?」
何度も呼ばれた理由は何だったのか。様子を見る為なら黙って二階に上がって来る筈だし、仕事の手伝いでもなさそうに思える。
「あら、やだ。そうそう、アズリにお客さんよ。カナリエさん。店の前で待ってるわ」
――え? カナ姐?
ベルは呼んでいた理由をすっかり忘れてしまっていた様で「ごめんなさいね、今いくわ!」と店先に向かって声を上げた。続けてアズリも「カナ姐ごめん! ちょっとまってて!」と声をかける。
まずはマツリのタオルを取り換えてあげたい。急ぎ冷蔵庫に向かい冷凍ボックスに手をのばす。すると、後ろからベルが「私がやるわ」と言ってきた。
「でも」
「いいから。お待たせしちゃってるんだもの。早く行ってあげなさい」
ベルはボールを掴み、アズリの背中とトントンと叩く。
「……ありがとう」
ベルはニコリと笑いアズリに代わって氷をボールに入れ始めた。それを見た後アズリは小走りで店先に向かうと、仕事に行ったはずのカナリエが心配そうに店内を覗き込んでいた。
昨日の夕方にゴロホル大森林の南東に行き、帰って来るのは早くても今日の夜。まだ昼前だというのにどうしてカナリエが居るのか疑問に思う。
「カナ姐、ごめん。お待たせ」
「待ってないわ。大丈夫」
「カナ姐も仕事キャンセルしたの? 行ったと思ったけど」
「いいえ。行ったわ。でも引き返して来たの」
「どうして?」
「ちょっとね。それよりも……」
言って、目線を店の奥に向ける彼女が何を言おうとしてるのかは察しがついた。
「ベルおばさんから聞いた?」
「いいえ。でも、あなたの顔を見れば分かるわ。目の下のクマ、酷いわよ。マツリちゃんに何かあったの? ……まさか、また?」
店奥でベルと話す内容を聞いていたのかもしれない。そうでなかったとしても、基本的にカナリエは勘が鋭い。いや、人を良く見ていると言うべきか。
アズリは素直に頷き、薬を使わなかった自分の落ち度も踏まえつつ昨夜の出来事を話した。
店の前をご近所さんや、見知った顔のお客様が通っていく。いつもなら互いに明るく挨拶するのだが今はそんな雰囲気ではなかった。
皆、アズリへの挨拶を躊躇して通り過ぎていく。
アズリは話しながら、気を使う皆の視線を感じていた。自分がどんな表情で話していたのかなんて分からない。
カナリエは黙って聞いてくれた。そして聞き終わるとゆっくりアズリの肩に手を置いた。
「アズリが一緒に居てくれたから軽度ですんだのよ? 自分を責めないで」
彼女に話して良かったと思う。話すだけで、気持ちが落ち着く。いつも、どんな時でも頼りになるカナリエは大きく見える。胸も身長も大きいが、そういう意味ではなく、存在がそう感じさせる。
「ありがとう」
「今はマツリちゃんの傍に居てあげて」
「……うん」
返事を聞いて、カナリエは一瞬疑念のこもった沈黙を作った。しかし、優しくゆっくりアズリの肩を叩き「私は帰るわ」と言った。
用事があったのにすんなり帰ろうとする。それは彼女なりの優しさなのが分かる。同時に、その用事が仕事であることも分かる。
アズリは踵を返して帰ろうとするカナリエの腕を掴み「待って」と言った。
「何か用事があったんでしょ? ……仕事の話……だよね?」
「……うん。そう。でもいいの。マツリちゃんの為にも今回のオフはゆっくり過ごして」
「その仕事いつから?」
必死な表情で尋ねるアズリに驚きつつも何故か納得した様な顔をしながら「出発は明日の夜くらいかしら」とカナリエが答えた。
今から数えて一日と半分。マツリの今の具合をみれば、多分明日の夜には熱も下がる。
「明日……明日の夜からなら……」
「やっぱりね」
何がだろうか。
「さっきの返事。空返事ね」
ドキリとした。彼女には何でも見透かされる。
「何度も言ったけど、今はマツリちゃんについてあげたほうがいいわよ? 人は集まるだろうし、こっちは大丈夫だから」
カナリエに昨夜の件を話し、気持ちが落ち着いたのと同時に今自分がやるべき事も痛感した。引く事は出来ない。
「お金……」
アズリは俯きながら、ぼそりと呟く。今度は顔を上げ、カナリエの目を見る。そしてはっきりと「お金が必要なんです!」と言った。
カナリエは何も言わず、目を逸らさないでいる。
「……薬の予備があと一つしかなくて……もし……もしまた何かあったら絶対足りないし、今は少しでもお金が……お金が欲しいんです」
自分の気持ちに正直になるのならば、仕事なんて放っておいて妹の傍にいてやりたい。でも、現実的に考えればそうもいってられない。昨夜と同じ事が急に起こる可能性だってある。そんな不安の中、薬の在庫が一つだけという現状は恐ろし過ぎる。
「……そう。分かったわ」
カナリエは諦めた様に答えた。
ベルの他にアズリ達の事情をよく知っているのはカナリエ。当然、理解も早い。
「でも、無理はしないで。もし、明日の夜までにマツリちゃんの熱が今より下がらなかったら、参加しちゃだめよ」
「うん。分かった」
カナリエの腕を握る手にいつの間にか力がこもっている事に気づき、アズリはゆっくり手を放した。
妹の苦しむ顔を見るくらいなら、どんな巨獣が居たって構わない。多少の怪我なんてどうってことない。死ななければ何とかなるのだ。
アズリの先走る感情が後悔を呼んだとしても、結局今はそれにすがるしかなかった。
そう。それは仕方のない事だった。
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