指定区域【6】

 花屋の朝は早く、小型のトラックに積んだ花が入荷する事から始まる。


 ベルの花屋は大通りから近いとはいえ、ブロック一つ分奥まっている。それでも、固定のお客はそこそこいるし、フラワーアレンジメントも好評で上級市民街からの注文も時折入る。しかしこの店で特に評判がいいのは水揚げだった。切り花の鮮度を落とさない茎の切り口は、植物の種類や状態に合わせて絶妙に調整されており、その技術はベルの右に出る者はいなかった。切り口一つで鮮度は変わりはしないと言う同業者もいるが、ベルは「花達だって生きているの。せめて痛くない様に長生きさせてあげたいわ」というだけで、何を言われても毎日を笑顔で過ごしている。


 この日も変わらないを迎え、アズリはベルと一緒に荷下ろしを手伝っていた。ただ違う事といえば、いつものベルの笑顔は気を使って作っている笑顔である事と、アズリの目の下にクマが出来ている事だった。


 荷下ろしが終わり、水揚げの準備をしているとベルから声がかかった。

「アズリ、様子を見てきてあげて。ここはもういいから」

 少し不安の混じったベルの顔が視界に入る。

「でも……」

「いいの。今日はそんなに多くないから一人で出来るわ。行ってあげて」

「……うん。ありがとう。ベルおばさん」

 ベルの言葉に甘え、アズリは二階にある自室へ足早に戻った。


「マツリ……気分はどう?」

 薄っすらと瞼を開けてこちらに視線を送るマツリは顔色が悪く、額には汗が滲んでいる。誰が見ても心配するであろう程に衰弱しているが、昨夜に比べたらこれでも随分マシな方だった。

「……うん。大丈夫。お姉ちゃん……仕事は?」

「今日はそんなに多くないから、水揚げが終わるまではここに居る。配達は少しあるから後で手伝うけど。でも、こっちの事は気にしないで。マツリは自分の事だけ考えて」

 言いながらアズリは額の汗を拭ってあげた。そしてマツリの頬に手を添える。


「冷たくて気持ちいい」

「さっきまで水揚げの準備してたからね」

 ふふっと覇気のない笑顔を見せてマツリは目を閉じた。

「……ごめんなさい。お姉ちゃん」

「なんで?」

「薬要らないって言ったの私だもん。……迷惑かけちゃった」

「そんな事ない。気がつかなかった私も悪いの」

「お姉ちゃんは悪くないよ。意地はってたのはマツリの方だもん。だから……」

「いいからマツリは自分の体の事だけ考えて」

 マツリの言葉を遮る様に言うと、一瞬目を開けて「……うん。ごめんなさい」と一言だけ残し、マツリは眠りについた。

 正直、強制的にでも薬を打っておけば良かったとアズリは後悔していた。




 昨夜、マツリの嬉し泣きが落ち着いた後、また鏡を見ながら色々なアレンジを加えてみた。一人ででも出来る髪型をアズリとマツリで考え、結局編み込みのサイドアップに落ち着いた。編み込みなので多少時間がかかるが、マツリはそれが気に入った様で、時間が無い時だけはハーフアップで後ろに纏めるという結論に至った。

 どんな髪型でも可愛いと思っているアズリにとっては、マツリが笑顔で髪を整える姿を見るだけで十分満足だった。


 気がつくと、既に日が変わる頃合いとなっていて、二人で焦って寝床についた。小さいベッドで身を寄せ合い、向かい合いながらお互いに笑顔を向け合う。

「明日から楽しみ」

 そう言うマツリは幸せそうで、プレゼントに髪留めを選んで良かったとアズリは思った。妹がこんなに喜んでくれる品を譲ってくれたロクセと、それを許可してくれたオルホエイには感謝しなきゃとも思った。


 ほんのり笑顔のまま眠る妹の顔を瞼に焼き付け、アズリも眠りについた。この幸せが一生続けばいいのにと願い、意識を閉じた。

 しかし、その幸せもつかの間だった。

 アズリがまだ深い眠りに入っていない頃合いに、唸り声が聞こえた。


 自分の目の前でさっきまで天使の様な寝顔だった妹が、大粒の汗と涙を作りギュッとベットのシーツを握っている。


――え?!


 見た瞬間、アズリはすぐさま体を起こし、マツリの左頬に触れる。

「どこッ? ここッ?」

 言ってもマツリは唸るばかりで何の反応も示さない。激痛に耐えるのが精一杯で涙の量を増やすばかりだ。

 次いで黒ずんだ両手に触れたが、そこも反応を示さない。となると残りは足。ボロボロになるまで着古したマツリの寝間着用ワンピースの裾に手をかけ、勢いよく捲り上げた。


 足首まで変色し始めた右足と、包帯に巻かれた脹脛ふくらはぎまでしか存在しない左足が姿を見せる。

 まさかと思いながら、巻いたばかりの包帯に恐る恐る手を添える。すると「ぎゃぁッ!」とマツリの口から悲鳴が上がった。


――まさか、まさか!


 この感じは前に何度も経験している。絶望にも似た感情を抑えながらアズリは部屋の隅に置いてある薬に手を伸ばした。

「包帯外すねッ。我慢してッ」

 軽く左足を持ち上げ、包帯に触れる。

「ぎゃぁぁッ。痛いッ。痛いッ!」

 叫びながらも、マツリは包帯を外す左足は動かさない。両手には更に力がこもり、右足をピンと伸ばし、指先で破れんばかりにシーツを蹴り伸ばす。


 触られただけで身悶えしそうなくらいに痛いのだろうが、包帯を外す姉を思い、患部だけは動かさず耐える妹に、アズリは胸を締め付けられた。

 焦る気持ちを抑え出来るだけ痛くない様に、丁寧に包帯を外す。そして最後の一巻きを外した瞬間、どす黒く変色した足の一部がボロっと崩れた。


――そんな……。


 持ち上げていた足をゆっくり下ろす。すると更に崩れ、マツリは悲鳴をあげた。

 最初の悲鳴に驚き、起きて来たベルの足音が同時に聞こえ、勢いよく部屋の扉が開かれる。

 ベルがアズリの元へ駆け寄り、マツリの足を一瞥し手を口に押し当てる。

「ああ……そんな。アズリッ。薬はッ?」

 言われた頃には既に、細長い小瓶に入った薬を注射器にセットしていた。

「今ッ!」

 アズリは言うより早く、左足の崩れた箇所よりも数センチ上に注射器を押し当てた。ボタンを押すと、プシュっと空気が漏れる音と共に一気に薬剤が注入される。


 しかし、これでは足りない。崩れ始めた場合は、一度に二本打ちなさいと医者の先生から言われている。

 マツリの手を握り声をかけるベルに感謝しつつ、アズリは急ぎ二本目の薬をセットした。そして最初に打った場所から少し離し、もう一度薬を注射する。

「うう……うう……」とマツリの唸り声は止まらない。

 即効性のある薬ではあるが、痛みがある程度引くまでにはもう暫くかかる。


 アズリは妹の背中をさすりながら「もう大丈夫だから」と何度も声をかけた。

 ベルは手を握り続け、アズリは背中をさすり続ける。


 数分後にはマツリの唸り声は消え、荒い息だけになった。

「痛みは引いたみたい」

 アズリは少し安堵したが、まだ気が抜けない。

「手……熱いわ」

 ベルが心底心配そうな表情でアズリに視線を向け、言われたアズリはマツリの額に手を当てた。

「やっぱり熱も酷い。……今夜中に熱が下がればいいのだけれど」

「そうね。今、氷水とタオル持ってくるわ」

「ありがとうベルおばさん。心配かけてごめんなさい」

「いいのよ。それより、足はどうなの?……どの位進んでしまったの?」

 ベルは言いながら、マツリの足に目線を移し、それに釣られる様にアズリも視線を向けた。


「二センチ程度。動かせばもう少し崩れるかもしれないけど……。多分止まったと思う。最初に比べたら随分少ない量で済んだし……良かった」

「そう……でもまた少し進んでしまったわ」

「無理やりにでも薬を打っておけば……。私のせい」

「そんな事ないわ。もしアズリが仕事で居なかったら……もっと酷い事になっていたかもしれないもの。今日ここに居てくれて良かったわ」

 そうかもしれない。でも後悔はここではない。


 今日は大丈夫と言う妹の言葉を信じて薬を使わなかった。一瞬でもこの高価な薬を使いたくないと惜しんでしまった自分の浅ましさがあったからだ。そんな自分に嫌気がさした。同時に、薬の値段を気にし過ぎて使う事を躊躇う妹の思いと、そう思わせてしまう自分の不甲斐無さも突き刺さる。


 何も答えず黙り込んでいると「氷水……持ってくるわ」と言ってベルは部屋から出て行った。

 アズリは妹の手を握り自分の額に押し当てる。


――稼がないと……もっともっと頑張らないと。マツリが気にせず薬を使ってくれる様に……安心させないとダメ。


 アズリは顔を上げ妹の顔を見つめた。

「ごめんね……お姉ちゃんもっと頑張るから」

 そう呟いた時にはマツリは眠りについていた。痛みも引きどっと疲れが出たからだろう、気を失う様に眠っている。

 アズリは自分の袖で妹の額に浮き出る汗を拭って、もう一度「ごめんね」と呟いた。




 空気の流れを良くする為に、窓と部屋の入り口を開けている。

 ベルの剪定バサミの音が一階から小気味よく聞こえてくる。

 アズリは昨夜の事を思い出し、いつもベルおばさんには迷惑をかけている事実に申し訳ない気持ちになった。同時に感謝の念も生まれる。否、通念している。

 朝一でたっぷり入れた氷はステンレス製のボールにまだ少し溶けずに残っていた。指を入れるとまだまだ冷たい。


 アズリは妹の額に乗ったタオルを取り、絞り直した。昨夜の件以降、寝ずに行っていたそれを今また繰り返す。絞りたての冷たいタオルを妹の額に置くと「冷たい」と小さく声が聞こえた。

「気持ちいいでしょう?」

「うん」

 笑顔を向けて再度眠りにつくマツリの寝顔を眺めていると、いつの間にか自分も眠りについていた。

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