取引客【1】

 その日は冷たい雨が降り注ぐ日だった。雨雲が空を覆い、薄暗い通りにはまだ昼過ぎだというのに、淡く光るガス灯が列をなしている。石畳の道を走る馬車の車輪の音と車のエンジン音が傘を打つ雨の音に混じってリズムを刻んでいた。


 轍に溜まった雨水は、馬車が通る度に跳ね上がる。エドワードは器用にそれを避けながら、傘の下で笑った。この国では傘をさす文化は乏しいが、店長に借りた何の変哲もない黒い傘は、思わぬところでエドワードの気分を高揚させた。軽快な雨音と傘から伝わり落ちる雫、早足に行きかう人々の足――傘の合間から見える景色はいつもとは違って見えた。


 大通り沿いのカフェで休憩を取り、店へと戻る帰り道であったが、エドワードはこの雨に濡れた大通りを後にするのが名残惜しかった。しかし、腕時計を見ればそうゆっくりもしていられない。雨音に合わせて歩を進め、いつもの路地を抜ける。すると、珍しいことに店の前には黒塗りの車が一台停まっていた。エドワードも最近知ったことだが、この辺りの道は大通りと違い一方通行が多いため、よくよくその事を知っている馴染みの客は、店の前まで車を乗り付けることはしない。


 となると、一見さんか――とエドワードが思っていると、丁度、店から一人の男が羊皮紙に包まれた包みを手に出てきた。中肉中背で口髭を生やした中年男だ。少々顔色が悪く、男が身につけているのはブラウンの背広と同じような土気色をしている。また、背広は身体に合っていないのか肩が落ち、スラックスの裾は引き摺られ気味だった。店長には負けるが、なんともだらしがない。だが、だらしない割に、着ている物はそれなりによい物なのが、エドワードには気に掛かった。


 いや、エドワードが気に留めたのはそのことだけではなかった。


「どこかで見たことあるような……」


 男の顔にどこか見覚えがあったのである。エドワードが記憶を辿っている隙に、男は運転手が開けたドアから車に乗り込み、ブロロロロという独特のエンジン音と共に車は走り去ってしまった。


 それを気にせず尚も記憶を手繰り寄せ、エドワードは、


「あ!」


 と声をあげた。思い出したのである。


 彼はエドワードの母の知人だった。エドワードの母が病に倒れてしまう前までは、エドワード自身彼と何度か言葉を交わしたことがある。母が病に倒れてからは、顔すら見なかったが、以前に比べると少々痩せた気がする。見かけない間に何があったかはしれないが、以前の男はもう少し肉付きの良い体つきをしていたのだ。男の服が体に合っていなかったのは、昔の服をそのまま身につけているためだろう。



 それにしても、とエドワードは首を傾げた。


 彼はいったい何を買いにきたのだろう。


 彼自ら、日用品を買いに来る必要性などない。使用人に事付ければ済むことだ。だが、それをしなかった理由に思い至らない訳でもない。そう――なぜなら、男が出てきたあの店は妖精の尻尾なのだ。それこそ、店長は、靴下から妖精の鱗粉まで何でも揃えられると自負している。社交界は噂好きが多いからどこからともなくその噂を耳にしたのだろう。興味本位か、それとも――。


「つっ!」


 考え事をしながら歩いていたエドワードは、背中に感じた衝撃に歩みを止めた。思考を放棄し、振り返れば、その原因は雨に濡れた細身の女性であった。着ているものは男物のパンツであったが、上着の下にはふくよかな女性特有の膨らみがある。腰先まであろうかという雨に濡れた茶髪は、元々癖が強いのか四方にはねている。


「悪ぃ……」


 どうにも男勝りな言葉遣いで謝罪を述べて、彼女はエドワードの横を擦り抜け、店へと続くステップに足を掛けた。


「あの、お客さんですか?」


 エドワードが遠慮がちに問い掛ければ、


「違う! 俺はあいつを殴りに来たんだ!」


 と、彼女は拳を握ってエドワードを振り返った。


「殴りに?」


 あいつ――と言うのはこの場合、店長の事だろうか、とエドワードは目を瞬かせた。


 その隙に、女はエドワードに対する興味を失ったらしく、ずんずんとステップを上っていく。


「アヴィー!」


 女は乱暴に店のドアを開けると、声を張り上げた。その拍子に雨に濡れた髪から、いくつもの水滴がぱらぱらと飛ぶ。彼女は床に染みを作るのも気にせず、カウンターまで歩を進めた。


 それを見てエドワードは慌てて後を追う。掴み合いの喧嘩になったら大事だ。ルーに比べたら店長は一見細身であったが、それでも彼は、エドワードでは遠く及ばない均衡のとれた体つきをしている。店長だって女性に手を上げるつもりはないだろうが、喧嘩になったら何の拍子に怪我を負わせるとも限らない。


 エドワードが傘立てに傘を立てて、後ろ手にドアを閉めると、女はカウンターに拳を押しつけたところだった。木製のカウンターに力が伝わり鈍い音がする。


「アヴィー!」


 女は再度声を張り上げて、店長を読んだ。


「そんなに声を張り上げなくても聞こえるさ、ニーヤ」


 声と共にカウンターの奥、二階に続く階段から、湯気の立つポットと白い磁器のカップの乗った盆を手に店長が降りてくる。どうやら、先程の客を見送った後新しくお茶を淹れなおしていたらしい。商談用の丸テーブルには、籠に入れられた焼き菓子が置かれたままになっている。


「アヴィー、居るなら居るで、さっさと出てこい」


「全く、無理な注文を付ける客が帰ったと思った矢先に厄介事だ。出てったら、ニーヤは俺を殴るだろう?」


「当たり前だ。分かっているならさっさと殴らせろ。そうでもしないとこの怒り、収まらん」


「相変わらず、短気だなぁ」


 店長が肩を竦めて言う。その仕草が余程女の怒りを呷ったのか、彼女はカウンター越しに身を乗り出し、


「そもそもの原因を作ったお前が言うな!」


 店長を捕まえようと腕を伸ばす。その腕をするりと交わして、店長はカウンターの外まで出てきた。女は虚を突かれて、慌ててカウンターから身を起こすが、その隙に店長は商談用の丸テーブルまで移動していた。


「まあまあ、落ち着きなよ。君もおやつ食べるかい?」


 盆をテーブルに置き、テーブルを囲むようにして二脚並んだ木製椅子の一つに腰かけて、店長が籠を掲げて見せる。


「食べない。そんな事より、例の物を返せ!  今返せば、殴らずに済ませてやる」


 女が身体を反転させて店長を睨む。その目に動揺も示さずに、


「無理」


 と言って、店長はクッキーを一つ口に放り込んだ。


「無理、だと?」


「ついさっき売ったばかりさ。そのお客、富を手に入れるために必要だとか言ってたけど、何でそんなものばかり求めるんだか理解に困るよ」


 クッキーを咀嚼しながら、もごもごと店長が答える。それを聞いて女の身体が怒りから震え、俯き加減に拳を握る。しかし、耐え切れなくなったのか、女は拳を振り上げた。


 次の瞬間――


 鈍い音がして、頬を真っ赤にして店長が床に倒れ込んでいた。


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