人魚の涙 9
カヨの叫びが島に谺する。
「父さん! いや! 起きて……ねえ、目を覚まして!」
落ち窪んだ目は、どこを見ているのか。かつて父親だったものが、男の合図とともにカヨに飛びかかる。
地面に叩きつけられ、組み敷かれたカヨはそれでも声を限りに叫んだ。
「父さん!」
「無駄です」
男の笑い声。
「それは、もう死んでいます。自分で考える力も残っていない……だから娘のあなたでさえ、躊躇なく」
男が再び指を鳴らすと、カヨに馬乗りになった父親の指が、カヨの細い喉へと伸びた。
「やめ……が……げっ」
「死なない程度に締めておいてください。私は話に口を挟まれるのを好まない」
ぎりぎりと喉を締め上げる腕に必死で抵抗するカヨを眺め、男は満足げに頷いた。
「そうそう。では説明を始めましょう……あなた、人魚の涙について町中で尋ね回ってましたね? 私の可愛い蝙蝠たちがそれを聞き留めたのですよ。消えた漁師たちの行方について変に探られても困りますので、下僕たちに命じてここに連れてこさせました」
そしてふたつめは、と男は苦しむカヨに歩み寄り、手を取って口付ける。
「食事です。生娘の血は我らにとって最上級の御馳走……」
『その男を剥がせ! 娘が死ぬぞ!』焦ったような人魚の声。
「黙れ」
男が指を鳴らすと、祠がぎしりと揺らいだ。
『ぐう……っ』
「口を挟まれるのが嫌いだと言ったはずだが? 低級の妖魔風情が図に乗るな。そこで大人しく見ていろ」
今やカヨは肺の中の空気も使い果たし、わずかな言葉さえも発することができなくなっていた。陸に上がった金魚のように口を開閉するばかり。
「離しなさい」
男の声で指が喉から離れ、カヨの肺に空気がどっと流れ込む。ひゅうひゅうと喉を鳴らして咳き込むカヨを、男は笑みを浮かべて見下ろした。
「まだ絶望には程遠い。もう一度」
再び、指がカヨの喉に食い込む。
「か……ひゅ……っ」
カヨの目に涙が盛り上がる。父親の顔には何も浮かんでいない。愛娘を絞め殺そうとしてもなお、その表情に変化はない。苦しさよりも、ただそのことがどうしようもなく悲しかった。
「離しなさい」
指が離れる。カヨは身体を丸めて咳き込んだ。
「もう一度」
絞め上げる。カヨの身体が海老のように跳ねる。
「離しなさい」
指を離す。
「もう一度」
「離しなさい」
「もう一度」
「離しなさい」
「もう一度」
「離しなさい」
「もう一度」
「離しなさい」
……それが幾度、繰り返されただろうか。
力なく横たわるカヨを見下ろし、男は「もういいでしょう」と呟いた。
「ああ、ここまで香ってきます。深い絶望に身を焦がした生娘……素晴らしい……血もさぞかし熟成されていることでしょう」
男の声は、もはやカヨの耳に届かない。繰り返される悲しみと苦しみに、カヨの顔には父親と同じ無表情が貼りつきつつあった。
「あなた方には知る由もないでしょうがね、人間の血というのはその時の感情でくるくると味が変わるのです。中でも絶望したときの血は……ああ、ああ、狭い棺桶の中で、どれほどあの味を渇望したことか!」
男はカヨの襟元を掴み、大きくはだけさせた。
月明かりに照らされた白い柔肌が、すべらかに光る。男がカヨの頭を掴んで持ち上げた。カヨの中にはもう、抵抗する気力も残されていない。痺れる身体と遠のく意識で、目を開けていることさえ億劫になっていた。
「て……ど……さん……」
半ば無意識に口から出たのは、竜胆の名である。
「何です?」
「たすけ……て……りんど……さん……」
「ああ、それはあなたと行動を共にしていた男でしょうか? それならば、あなたを攫うときついでに殺すよう命じておきました。くっくっく、今頃は死体の仲間入りでしょうねえ」
カヨの目から、今度こそ光が消えた。
「では」
カヨの絶望はここが最高潮、と男は判断した。下拵えは済んだ。食べ時である。幾筋も指の圧痕が走る白い首筋に、男が大きく口を開けて食らいついた。
「おっ……おおおおおおおおおお!」
男が歓喜の叫びを上げる。
口の中に溢れ出すは、あまりにも甘美な味わい。
飢えていたあのときは、確かに漁師たちの血もありがたい栄養源ではあった。しかしこれはどうだ。この生娘の血に比べれば泥水も同然ではないか。男は恍惚の表情を浮かべながら血を啜った。
「なんという甘露……! 眷属とする手もあるが、しかし、おお、この久方ぶりの悦楽よ……ああ、抑えられん! このまま吸い尽くし」
「させねえよ」
光が奔る。
ばちり、という音とともに男が仰け反った。
「なっ……!」
男は額を押さえて呻く。しゅうしゅうと煙を上げるその額が、ぱっくりと割れ焦げている。
同時に、手を離されてどさりと崩れ落ちたカヨに人影が駆け寄った。
竜胆である。
ぐったりとしたカヨを抱え上げ、竜胆は跳躍した。祠を飛び越え、茂みの奥へ。
「私の食事を!」
牙を剥き出して唸る男が追撃のため脚に力を込めた瞬間、ばちん、と二度目の雷光が爆ぜて男が再び仰け反る。
「ぬう……っ」
男の前に進み出たのは、銀二であった。
「雷の味はどうだ?」
不敵に笑うその髪が、逆立つ。
「土着の妖魔か……邪魔をしおって!」
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