人魚の涙 8

 夜の帳が降りた。

 ただでさえ薄暗かった祠の中は、今や一寸先も見えぬ闇に染まっている。


『……昼はぬしらの時間、夜は儂らの時間。かつてこの世は夕闇を境に分かれておった。人は儂らを畏れ敬い、その祈りがまた儂らを形作る。そうやって生きていた。それがどうだ。偽物の太陽が夜から闇を引き剥がしてしもうた。夜に息づくものたちを信ずる心は、今や失われつつある』


 カヨは居心地が悪くなり、もぞもぞと身動きをした。人ならざるものたちの存在を、カヨもまた数刻前までは信じていなかったからだ。


 人が信じる。ゆえにそれらは存在する。

 人が信じなければ、神も妖もその力を失ってゆく一方である。


『儂は弱っておった。その昔、儂に施されたのは渇きの封。効能はこの上なく単純……儂から「水」を奪う、ただそれだけ。だが効果は絶大よの。大海に生きる人魚が水を絶たれて生きていけようか。儂はすっかり乾涸びておったのだ』


 カヨの頭に魚や烏賊の干物が思い浮かんだ。慌ててぶんぶんと首を振り、打ち消す。


『奴の血は儂の喉を潤し、儂は力の一部を取り戻すと同時に奴の下僕と化した。もはや抗えず、奴の走狗いぬとなり……この海を通る漁師たちを歌で島へと引き寄せたのだ。大きく歌えば気づかれて耳を塞がれるでな、漁師たちが通りかかるたびに小さな声で何度も歌を重ね……月が何度も満ちては欠ける頃、ようやく一人の漁師が歌の虜となった』


 カヨは目を見開いた。

 この先は聞きたくない。聞いてはいけない。カヨは耳を強く塞いだが、人魚の声は無情にも頭の中へと響き渡る。


『妻を亡くしたばかりだと言うておった。死者に寄り添う者の魂もまた、冥府へと惹かれゆくもの。だからこそあの漁師の魂が儂の歌にもっとも強く惹かれたのであろうな。……その漁師を唆し、船ごとこの島へと引き寄せた。乗っておった漁師たちは皆、あの男の餌食だ。むごいことをした。のう、まったく酷いことをした』


 カヨの目から、涙が溢れ出した。

「父……さん」


『……。おぬしの、父親であったか』


 カヨは泣きじゃくった。

 帰ってこない漁師たちを待ち続け、残された家族たちは皆、どこかで諦めていた。身体だけでも帰ってきてくれればと、時にはそう口走る者さえいた。その気持ちはカヨにも痛いほどわかった。町中を探し回るとき、何度心が挫けそうになっただろうか。


 それが。

 操られていたとはいえ漁師たちを唆したのは、他ならぬカヨの父親だったのだ。カヨの父親が、皆を死に追いやった。港に佇む人々の悲しげな顔が、カヨの瞼に浮かんでは消えた。


『すまぬ』

 人魚の短い謝罪に込められた重い悔恨が、カヨの涙をさらに押し出した。どこにもぶつけようのない悲しみが、ただ、ただ、溢れ出して止まらなかった。両腕の袖が濡れてずしりと重くなってもなお、カヨは泣き続けた。


 ……どれほどの刻が経っただろうか。


 やがて、泣き疲れたカヨは顔を上げた。

 人魚の涙……そう口走ったあの晩、すでに父親は人魚の歌に囚われていたのだろう。


『言っておくが、おぬしの父親に落ち度はない。父親を恨むでないぞ。すべては儂の責じゃ、それを忘れんでおくれ』


「……」

 カヨは鼻をすすった。


 木箱の中にいるであろう人魚に、不思議と怒りは湧かなかった。それは頭の中で響く声が、あまりに深い悲しみに満ち満ちていたせいかもしれなかった。それに、もしもこの話が本当であれば、この人魚もまた操られていたのだ。


 たっぷりとした沈黙の後、カヨはようやく口を開いた。

「話はわかりました。でも、それならどうして私はここへ連れてこられたのですか」


「それは私から説明しましょう」


 カヨは弾かれたように振り向いた。

 どれだけ体重をかけても開かなかった扉が、音も立てずに開け放たれている。雲の隙間から漏れ出る月の光が、戸口に立つ人影を淡く照らしていた。


『……貴様っ!』


「いい夜だ。いい月が出ている。こんばんは、お嬢さん」


 満月に照らされた男の口元で、牙が鈍く輝いた。

 青い瞳。黄金色の髪はぴったりと撫でつけられている。すらりと高い上背。身につけた黒色の外套と山高帽は、いわゆる洋装である。

 その口から流れ出す言葉には、不思議な抑揚があった。


「異人さん……」


 思わず漏らしたカヨの呟きに、男は笑顔で返答した。


「ええ、そうです。はるか西のはて、欧州より参りました」


「あなたが、私をここへ連れてきたのですか?」


「正確には私ではなく下僕たちですがね」

 男が指を鳴らすと、祠の周辺の茂みから次々と人が姿を現した。皆一様に虚ろな目をして、身体の周囲に黒い霧を纏っている。


「紹介しましょう。死してなお私のために働いてくれる忠実な部下たちですよ」


 息を呑むカヨの目の前で、ゆらりと立ち上がったのは。


 日に焼けた腕、逞しい身体つき、そして見慣れたはずの顔。

 無残に変わり果てた父親の姿が、そこにあった。


「父……さん?」


 返事はない。半開きの口から涎が一筋、垂れて落ちた。


「おや、これはこれは。父娘の感動の再会というわけですか……まあ、片方はもう死んでますがね」

 男の赤い唇が弧を描く。


 カヨの絶叫が、小さな島に響き渡った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る