人魚の涙 7

 ここは小さな島だ。


 島というより、岩礁に近いかもしれぬ。潮が満ちればこの祠の周辺だけを残して海に没する、地図にも載っていないような小島だ。この島を知っているのは、遠洋に出る漁師くらいであろう。


 さて、この辺りの潮流は気まぐれでな。時折、遠い異国の地からの漂流物が流れ着く。無論その大半はただの塵芥なのだが……は、違った。


 木箱……人間ほどの大きさの、黒く塗られた木箱。そのあまりに異質な気配は、祠の中からでも容易に感じ取れた。半分眠るように過ごしておったのを乱暴に叩き起こされた気分じゃ。


 そして新月の夜……真暗な闇の中、打ち寄せる波の音に紛れ、ぴしりと何かの砕ける音が響いた。


 木箱が割れ、中から一人の男が姿を現した。


 うむ。人間ではない。そして、この国の者でさえなかった。男は何事かを叫び、よろよろと砂浜を進んでいった。ひどく弱っておるのがわかった。男の言葉に聞き覚えはなかったから、おそらく清国よりもさらに遠く……西方の地の出身であろう。


 その胸には、大きな杭が刺さっておった。ただの杭ではない。力のようなものが漲っていた。抜く気力さえ残っておらなんだか、男が再び倒れ伏すまでにそう長くはかからなかった。


 儂はこの祠どころか、木箱の中からも出られやせん。助けようにも何もできぬ。それに、儂の中の何かが警告しておった。関わるな……とな。その予感は当たっておった。


 男は何度か目を覚まし、そのたびに這いずって進んでは気を失うことを繰り返した。やがて男は岸壁に空いた穴を見つけ、そこに潜り込んだ。そこは入り口こそ大人が一人通れるかどうかの狭さだが、奥まで進むと日の差し込まぬ大きな洞窟で、海鳥や鼠や蝙蝠たちのよい栖となっている。


 日が昇り、また沈んだ。それを十数回繰り返す頃には、そこに暮らす生き物は蝙蝠を除いて残らず食われてしまっていた。いや、食われるという言い方は適切でないな。血を吸われ、乾涸びておったのだ。


 やがて満月の晩、蝙蝠たちを従えて洞窟から姿を現した男は、迷いのない足取りでこの祠へと向かってきた。杭が刺さっていたはずの胸には傷跡さえなく、流れ着いたときの弱々しさが嘘のように、全身に力を漲らせていた。


『いい月夜ですね』


 男の発する言葉は、儂の存在そのものに届いた。口から発するのではない、相手へと直接送り込む言葉だ。ちょうど、儂が今おぬしに対してそうしているようにな。


 儂が黙っていると、男はさらに言葉を重ねた。

『この国では、来客に対して挨拶もしないのですか?』


『……無礼な闖入者にかける言葉は持ち合わせておらぬでな』


『ほう。どうやら人ではない、さりとて大した力もない……ですか。その程度でよくもまあ舐めた口を』


 男は強かった。封じられた身の儂にできることなど、たかが知れている。必死で閉ざした祠の扉はするりと開け放たれ、男が中へと踏み入ってきた。


 木箱の蓋を開け、中を覗かれた。下卑た笑みだった。


『見るな!』


『おっと、これは失礼しました。乾涸びているとはいえ女人の裸体を……』


 粘つくように笑う男は、何を思ったか、己の指に牙を立てた。

 指先から血が溢れ出した。悍ましい、粘ついた黒い血だった。


『噂に聞いたことはありますが、実物にお目にかかれて光栄です。人魚族のご婦人』


『貴様、何を……』


 男は血の滴る指を差し出す。


『力を失い、海に流され、死ぬ寸前に流れ着いたこの島でまさかこのような出会いがあるとは。僥倖、まさに僥倖です』


 その指を、儂の口に近づけてきた。


『や、やめ……』

『乾涸びたままというのも忍びない。ここはひとつ、私の血を分けてさしあげましょう。噂に聞く人魚の歌、私がまた力を取り戻すために奏でてもらいます――』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る