人魚の涙 3
カヨは父親の帰りを待ち続けた。
漁に出た船が戻らない……それはカヨの父親だけではなく、十を超える数の漁師たちの失踪を意味している。漁師の親族や友人たちは他の港町に使いを出したり、小舟で沖に出て望遠鏡で見渡したり、彼らの痕跡を探しに奔走した。
思い思いに、時には寄り集まって励まし合う中、父親が唯一の肉親であるカヨは特に同情的な目で見られていた。
待つこと数か月。
港に一隻の船が流れ着いた。
間違いなく、カヨの父親たちが乗っていた船である。日が昇ると、船は既にそこにあったという。縄さえも繋がず、ただ波に揺られている状態で。
行方不明だった漁師たちが、やっと戻ってきた――夫や恋人の生還を半ば諦めていた者たちが喜び勇んで船に乗り込んでいったが、直後、船の中から聞こえたのは悲しみと落胆の呻き声であった。
船には誰も乗っておらず、船内には鼻を突くような死臭だけが漂っていたという。
途方に暮れていたカヨは、そこでようやく動き始めた。嘆き悲しみ取り乱す遺族たちの姿が、逆にカヨに力を取り戻させたのだ。
カヨは町中を訪ね歩き、父親の行方を探し当ててくれそうな人を探した。船だけが帰ってくるなど、ありえない。船が帰ってきたのなら、人も帰ってきたはずだ。人魚の涙という単語だけがカヨに残された手がかりだった。
そして行き当たったのが、町外れの幽霊屋敷とそこに住まう男の噂であった。
「なるほどな……おおよそわかった。行くぞ」
話を聞き終えた竜胆は立ち上がり、当然のように何も払わず店を出た。
カヨは迷った挙句に懐から二人ぶんの小銭を取り出し、「すみません、これ」と女給に渡した。女給はほっとしたように小銭を受け取ってぺこりと頭を下げ、カヨは頭を下げ返してから慌てて竜胆の後を追った。
並んで歩きながら、竜胆が問いかける。
「人魚の涙についての情報は、どこで手に入れたと?」
「どこで……? わかりません、でも帰ってきたときは既に様子が変だったので、漁の途中ではないでしょうか」
「手がかりなしか。人魚……ふうむ……」
顎に手を当てて考え込む竜胆に、カヨはおそるおそる尋ねる。
「それで、あの、人魚の涙っていうのは結局何のことなんですか?」
「知らん」
竜胆の答えは極めて簡潔だった。
「涙のほうはな。だが肉なら知っている。人魚の肉は、食えば不老不死になる仙薬だ」
「ふ、不老不死? そんなもの、ほんとうに……?」
「無論、完全ではない。例えば
カヨはさらりと頷きそうになって、首を傾げた。つまり竜胆は今、何歳なのだろう?
「まあ、そういった類のものだ。人魚の涙もそれに付随するものではあるのだろうが、聞いた事がない。この俺が知らないのだから相当だ。だから銀二に調べさせている」
「なるほど……」
文明開化のこのご時世に不老不死などということを平然と口にする。だが、笑い飛ばす気にはなれなかった。
船乗りたちはよく験を担ぐ。船幽霊が出たときのため、どの船にも底が抜けた柄杓を置いていると父が話してくれた。
「夜の海はな、暗いんだ。人間の営みも何もかも届かない真っ暗な世界だ。
父親の言葉が鮮やかに蘇ってくる。
人魚。美しい歌で漁師を虜にして船をおびき寄せ、骨まで喰らい尽くす。気に入った人間は下僕にしてしまうという。波音に紛れて美しい歌が聞こえたら、櫂を投げ捨ててでも耳を塞げ――その言い伝えはカヨも知っていた。
人魚が本当に存在しないなどと、どうして言い切れるだろうか。
「では二日後の昼、またあの店に来い」
「はっ、はい」
「忘れるなよ」
竜胆は一度も振り返らず、すたすたと歩き去った。
カヨはぽかんとしてその後ろ姿を眺めていたが、やがて自分の家の方角に向かって歩き出した。不思議な男である。風態も言動も怪しいし蕎麦屋で食い逃げのようなことをする人物なのだが、なぜだか信じてもいいような心持ちになる。
それはもちろん、男が唯一カヨの話に真剣に取り合ってくれたせいかもしれなかった。しかし、それだけではない何かがあった。この男なら父親の行方を探ってくれる、という信頼のようなものが芽生え始めるのを、カヨは胸の奥底でなんとなく感じていた。
しかし。
家路を辿るカヨの頭上で蝙蝠が舞う。
傾いた陽が海の彼方に沈もうとしている。
人の時間が終わる。
夜が、来る。
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