人魚の涙 2

 夕刻、カヨと竜胆が訪れたのは港町の中心部から少し外れた路地裏にひっそりと佇む蕎麦屋である。


「あの……」

「何だ」

「どうして、お蕎麦屋さんに?」


「腹が減ったからだ」

 竜胆は店の一番奥の席にどっかと座ってカヨを招き寄せ、近寄ってきた女給に笊蕎麦ざるそばをふたつ注文した。


「それに、ここの主人は顔馴染みでな」


「そうなんですね」


「代金を払わずとも食わせてくれる」

 しれっとそんなことを言う。


「ほ、本当ですか……?」


「嘘に決まってんだろう!」

 笊蕎麦をふたつ運んできた初老の男性が、カヨの前には優しく、竜胆の前には乱暴に器を置いた。


「日に二度も三度もタダ飯食いにきやがって!」


「ほう、店主直々の給仕とは痛み入る」


「てめえが性懲りも無く飯食いにきたのがんでな」

 男性は竜胆に向かって小声で凄む。店内にいる他の客に配慮して声量を絞っているのは、さすが店主といったところか。


「命を助けてやった恩を忘れたか?」

 竜胆は悠々とした態度を崩さない。


「できることなら忘れてしまいたいね! ちくしょう嬢ちゃん、こいつに借りを作らないほうがいいぜ。骨の髄まで搾り取られちまうからな」


 カヨは男性の迫力に押され、慌ててこくこくと頷いた。どうやら竜胆はこの店で食事を摂っているらしい。それも、一日の食事ほぼすべてを。無料で。なんて贅沢な身分!


「おい銀二ぎんじ


 厨房へ戻ろうとしていた店主――どうやら銀二という名前らしい――は振り向き、ドスの効いた声で「ああん?」と聞き返した。


「依頼だ。『人魚の涙』について二日で調べろ」


 銀二は顔を赤くしたり黒くしたりしてから、やがて「……わかった」と力ない呟きを残して厨房へと消えていった。丸まった背中がとても小さく見えた。


「どうした、伸びる前に食え。まあ大した味の蕎麦でもないがな」


 無料で食っておきながらなんという言い草だろうか。


「あの店主さんとは古い付き合いなんですか?」


「そういうわけでもないが、いろいろと便利なやつでな。ま、そういうわけで二日ほど待て」


「わかりました」


 カヨは蕎麦をつるつると啜った。五月とはいえ、海風はぬるい湿気を含んで肌にまとわりつく。冷たい蕎麦の喉越しがありがたかった。


「で、お前の父親は何と?」


 竜胆の蕎麦は既に皿の上から丸ごと消え失せていた。食べるのが早い。


「人魚の涙を探してくる……と、それだけです」


「理由は?」


「理由はわかりません。でも、きっと母の死に関係しているのだと思います」


 カヨの母親が死んだのは、半年から一年ほど前のことだった。

 風邪を拗らせて肺炎に罹り、すとんと滑り落ちるように逝ってしまった。

 元来、丈夫な人ではなかった。身体が弱く、季節の変わり目などにはよく体調を崩して寝込んでいた。父親は家を空けていることのほうが多かったため、母親の世話はカヨの役目だった。


「――母が体調を崩している間は、私が炊事や洗濯をしていました。今こうして家事手伝いとして働いているのも、単に手慣れていて苦労に感じなかったからです」


 漁から戻り、母親の死を知った父親はカヨ以上に泣いた。大の男が蹲ってあそこまで大きな声を上げ、大粒の涙を零すのを、カヨは初めて目にした。


 父親の一目惚れだったという。思えば漁から帰ってきていたとき、幼いカヨが床に就いたあとの夜更けに、二人はいつも仲睦まじげに語り合っていた。

 それを思えば、父親の悲しむ様にも納得できるというものだった。


 ただし、それが数ヶ月も続けば話は別である。また漁に出て、戻ってきても、父親の顔は晴れないままであった。それが何度か続いた。一向に立ち直らない父親に、カヨは不安を覚え始めていた。


「はっきり違和感を覚えたのは、父がまた漁に出る前の晩でした。私の頭を撫でて、こう言ったんです。『母さんに会いたいよな』って」


「死人にか?」

「……はい。もちろん会いたくないと言えば嘘になりますが、なんだか様子がおかしくて。思い詰めているような、切羽詰まっているような」


 それからまた、父親は行ってしまった。


 カヨはやけに広々とした家で父親の帰りを待った。カヨが家事手伝いとして働いている家は大変に優しく、屋根裏に部屋があるからそこで寝泊まりしてもよいと言われていたが、いつも丁重に断っていた。

「私までいなくなってしまったら、父の帰る場所がなくなってしまいますので」

 それがカヨの断り文句で、そのたび家の夫婦は残念そうな顔をしてカヨに菓子やら乾物やらを握らせた。


 それから一ヶ月ほど経ち、父親が漁から帰ってきた。


 カヨは喜び勇んで家に迎え入れたが、父親はどこか上の空で、話しかけても返事をしない。夜は布団の中でぶつぶつと何事か呟いている。カヨは心配に思いつつも、母親の死から立ち直るにはもっともっと時間を要するのだろう、と解釈していた。

 なにせカヨの二倍近い年月、母親と連れ添ってきたのである。悲しみの量も尋常ではあるまい、と。


 そしてまた漁に出る前日、父親から飛び出したのが『人魚の涙』という単語であった。


「人魚の涙を探してくる」


「……えっ?」

 何かの聞き間違いかと思ったが、聞き返しても父親は黙ったままだった。


 その日を境に、父親は姿を消す。

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