夕闇鬼譚

紫水街(旧:水尾)

人魚の涙 1

 時は一九〇二年、五月。


 日本政府は必死になって洋化政策を推し進めているが、洋風の建築などそう簡単には普及しない。第一、目前に迫った露国との戦争の準備で金がない。そういうわけで、特にこのような地方都市では、まだまだ古来からの日本家屋が主流である。


 そんな日本家屋が立ち並ぶ一画に、その家は建っていた。長年風雨に晒され、今にも崩れ落ちそうなぼろ屋敷である。内部は薄暗く、手元の洋燈ランプの光がなければ歩くこともままならない。


 そんな所に家事手伝いのたちばなカヨが仕事を放っぽり出してまで足を踏み入れたのは、無論ただの気まぐれではなかった。


「……何の用だ」


 住む者がいなくなって久しく、すっかり荒れ果てたこの屋敷は、幽霊が出るともっぱらの評判である。そこにいつの間にか住み着いていたのが、現在目の前でカヨを睨みつけている男であった。


 外見から歳を知ることは不可能に近い。少年のようにも、老人のようにも見える。古びてはいるものの、仕立てのよい着物を身に纏っている。髷を解いたわけでもなくざんぎり頭でもなく、ただぼうぼうに伸ばしたとしか思えない髪が顔を覆い隠していた。その奥に隠された鋭い目が、カヨの手に握られた洋燈の光を反射してぎらりと光った。


 聞き及んでいた風貌と、完全に一致する。


 カヨはおそるおそる一歩踏み出し、尋ねた。

「あなたが……竜胆りんどうさんですか?」


「……だったら、何だ」

 男はぶっきらぼうに言う。どうやらカヨが探していたのは、この男で間違いないらしい。


「お願いがあります。私のお父さんを、探してください」


 カヨは頭を下げた。


 父は船乗りである。幼少の頃から船に乗って育ち、寄港した港町で一目惚れした母を口説き落としたという筋金入りの海の男だ。仲間とともに遠洋まで漁に出ており、家を空けることのほうが多かったが、帰ってきたときはいつもカヨに海の話をしてくれた。潮の香りがする腕に包まれながら父の話に耳を傾ける時間が、カヨは大好きだった。


 そんな父が突然いなくなった。

 謎めいた言葉だけを残し、消息を絶ってしまったのだ。


「ただの人探しなら頼む相手を間違えている。他を当たれ」


 竜胆はくるりと後ろを向き、屋敷の奥へと歩み去ろうとする。


「ま、待ってください竜胆さん! もうあなたしか頼れる人がいないんです」

「お前の事情など知ったことか」


 カヨは慌てて追いすがるが、竜胆は意にも介さない。

 転ぶようにして竜胆の足首を掴んだものの、カヨを引きずったまま平然とすたすた歩いていく。何年掃除していないのか、床に積もった埃をカヨの着物を一瞬でまだらに染めた。


「た、ただの人探しなら、って言いましたよね!」カヨは引きずられながら叫んだ。「じゃあ、場合は、引き受けてくださるんですよね!」

 竜胆の足がぴたりと止まる。


「……話してみろ」


 カヨはほっとする。おかしな事件にのみ首を突っ込む――聞き及んでいた通りだ。


「いなくなる前日の夜のことです。父が私にぼそりと言ったんです……『人魚の涙を探してくる』と。そのときの父の顔は」

 ぐりん、と首を回して振り向いた竜胆がカヨの襟元を掴み、自身の目の高さまで引っ張り上げた。

「きゃっ」


「人魚の涙? 人魚と、そう言ったのか?」


 竜胆の目がカヨの目を覗き込む。洋燈の光のせいか、竜胆の瞳が紅く輝いているように見え、カヨはくらりと眩暈を起こした。


「はっ、はい。確かに」


 カヨが頷くと、竜胆はにいっと笑った。


「肉ではなく、涙か……。面白そうだ。いいだろう、引き受けてやる」


「ありがとうございます! ……あと、その」


「なんだ」


「手を離していただけると」カヨは床から三寸ほど浮いた足をばたばたさせた。


「ん? ああ」

 竜胆はカヨの襟元からぱっと手を離した。


「んぎゃ」

 カヨはべちゃりと床に落ち、這いつくばる。埃が舞い上がり、カヨの気管に飛び込んだ。


「ごほっ、あ、ありがとうございます」


「礼などいらん。それより人魚の涙とやらについてもっと詳しく聞かせてもらうぞ」


「はっ、はい」


 立ち上がったカヨの視界の端で、竜胆の口元が洋燈の光を反射してきらりと光った。

(……牙?)

 目をごしごしと擦ってみる。もう一度見た竜胆の口元には、特に何も見当たらなかった。見間違いだろうか。


「なんだ。人の顔をじろじろ見るな」


「あ、す、すみません」


 ……ともかく、これがカヨと竜胆の出会いであった。

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