人魚の涙 4

 カヨと別れて数刻。

 街灯など普及していないこの町の夜は、いまだ暗い。


「いい度胸だな」


 町外れの屋敷で、竜胆は人の形をした影と向かい合っていた。

 それは確かに人で、およそ三十ほどの男であるのだが、その周囲を黒い霧のようなものが取り巻いている。闇の中においてなお黒くはっきりとした輪郭を持つ霧。操られている――竜胆はそう直感した。


「人魚の使いか? それにしては死の臭いが濃いが」


 やや訝しげな竜胆の独白を男は意に介さず襲い掛かる。しかしそれは、ただ目の前の敵に掴みかかるだけの単調な動きだ。

 竜胆は「ふん」と鼻で笑い、掴まれた右腕で逆に人影の胸ぐらを掴み返すと無造作に突き放した。どれほどの力がそれに込められていたのか男は真後ろに吹き飛び、壁を二、三枚突き破って転がっていく。


 もうもうと埃が舞う中、しかし男は痛みさえ感じていないようにゆっくりと立ち上がった。


 竜胆は眉をひそめる。


 男は竜胆に引き寄せられるようにしてよたりよたりと歩いてくる。白目を剥き出しにして、開きっぱなしの口から涎を垂らしながら。竜胆の知る人魚の下僕とは、明らかに異質な存在だった。


「貴様、既に死んでいるな?」


 男は焦点の合わない目で竜胆の方角を見据え、飛びかかってきた。

「ならば遠慮は無用」竜胆は床板を踏み砕く勢いで一歩踏み込む。決して遅くはなかった男の動きがひどく鈍重に見えるほどの体捌きで竜胆の身体が沈み込む。

 掴み掛かった男の腕が空を切ると同時に、体重の乗った掌底が男の顎を下から鋭く打った。


 意味不明な音を喉から吐きながら男の身体は大きく仰け反り、跳ね上げられて天井に激突し、そのまま落下して竜胆の足元にくずおれた。

 生きていようと死んでいようと、身体を動かすのは頭。こうやって脳を揺らしてしまえば関係ない。男はぴくりとも動かなかった。


 竜胆は屈み込み、動かなくなった男の着ていた服を乱暴にはだけさせる。


「……これは」

 はたしてその首筋には、怪しく闇色に光る傷跡が刻まれていた。刺し傷……いや、咬み傷だろうか。皮膚にいくつかの穴が空いており、黒い霧はその傷跡を中心に湧き出している。


 竜胆は困惑に顔を歪める。

 男の胸に手を当てたが、心臓の鼓動は伝わってこない。そして鼻を刺すこの腐敗臭。思った通り、この男は既に死んでいる。


 人魚の歌に囚われた者は自我を失い、人魚の下僕となる。だがそれは、あくまでも生きた人間の話だ。既に死んだ人間を操って下僕にするなど、竜胆は聞いたことがなかった。さらに、首筋に浮かぶこの傷跡にも見覚えがない。カヨの父親の失踪には、どうやら人魚以外にも何かしらの存在が一枚噛んでいるようだった。


 ここで竜胆は引っ掛かりを覚える。

 カヨと出会い、父親の捜索に協力し始めてからそこまでの時間は経っていない。即日での襲撃……あまりにも動きが早すぎるのだ。周到な相手であるのは間違いない。

 しかし、それにしては差し向けられた手駒が弱すぎる。竜胆を知っていれば、この程度では足止めにもならぬと理解しているはず。では、これは?


 次の瞬間、竜胆は舌打ちをして屋敷を飛び出した。

 目にも止まらぬ速度で大通りを駆け抜け、昼に訊き出しておいたカヨの家の場所へと向かう。

「開けるぞ」

 扉を開ける手間も惜しみ、蹴破った薄い引き戸は虚しい音を立てながら転がった。


 がらんとした家に、人の気配は、ない。


「……帰すべきではなかったか」


 例の動く死体には、大した力が与えられていなかった。おそらくは与えられた二、三の命令をこなすだけの兵。この程度の兵ならば、できてもおかしくはない。

 何体来ようと竜胆の敵ではないが……カヨは、竜胆と違って抵抗する術を持たない。予想できたことだった。

 敵の狙いは最初からカヨだったのだ。竜胆が狙われたのは、おそらくカヨのついでに過ぎなかった。


「これだから人間は……!」


 苛立ちは、敵を見誤った己に対してのものだ。


 蹴破った引き戸を見れば、閂は既に何者かによって捩じ切られた後であった。

 すん、と鼻を鳴らす。血の匂いはしない。

 どうやら連れ去られただけのようだと知り、竜胆はひとまず落ち着く。己の失策を悔やむのは後だ。


「銀二を急かす必要があるな」


 竜胆は呟いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る