人魚の涙 5

 カヨが目を覚ますと、最初に目に入ったのは見慣れた天井の木目ではなく煤けて薄汚れた木の板であった。自分がうつ伏せになっていることを理解するまで、数秒かかった。

 昨日の夜、布団に入ったところまでは覚えている。いつの間にこのような、布団も何もない板の間に移動したのだろうか。


 起き上がろうとして、手が動かないことに気づいた。後ろ手に縛られている。

「んんん」

 身体をよじってみると、硬い床のせいか節々が痛んだ。


 なんとかして上体を起こし、カヨは周囲を見渡す。

 薄汚れた小屋だ。煤けた梁には蜘蛛の巣が張り、板の間には埃が積もっている。扉の閂は外れており、どうやら閉じ込められたわけではないようだとカヨは一安心した。

 左右の壁にある窓は雨戸まで閉じられており、壁や窓の隙間から細く細く差し込む夕日だけが小屋の中を照らしている。


 そして後ろを振り向いたとき、カヨは息を呑んだ。設えられた簡素な祭壇と、その中央に祀られた古い木箱。


 祠だ。


 何かを祀っている、神聖な場所。人の身で迂闊に踏み込んでよい場所ではない。


「た、大変」

 カヨはふらつきながらも立ち上がり、慌てて外に出ようとした。縛られた手で引き戸の取っ手を探り、ぐっと引く。

 動かない。


『出られはせぬ』


 誰かの声が、あまりにも唐突にカヨの頭の中で響いた。


 カヨは喉から出かかった悲鳴を必死で飲み込み、取っ手に体重をかけた。後ろ手に縛られているため、扉を開けるには扉を背にして祭壇のほうを向く必要がある。目を逸らさなければと思っても、視線はまるで引き寄せられるように祭壇の中央、安置してある木箱へと向かう。


『その扉は、ぬし程度の力で開きはせぬ』


 木箱が、ごとりと鳴った。


 カヨの呼吸が浅く早くなっていく。ずるずるとへたり込みながら、やっとのことで声を絞り出した。


「あ、あなたは、誰ですか」


『ほう、儂の声が届くか。これはこれは』

 木箱の蓋が、軽い音を立てて揺れる。

『儂はこの中に居る』


「え……」


 カヨが扉に身体を押し付けたのを察したのか、声はカラカラと笑った。

『怖がるでない。別に取って食いやせん』


「は、はあ……」

 カヨが抱えられるほどの大きさの木箱に、人間が入るはずもない。必然、カヨに語りかけているのは人間ではないということになる。取って食われないという保証がどこにあるだろうか。


『嘗ての儂なら食っておったかもしれぬが、今の儂にそのような力は残っておらぬでな』

 寂しそうな声が響いた。


 カヨは困惑する。

 この声からは、カヨに対する害意や悪意のようなものが微塵も感じられない。


 一度驚きから立ち直ってみると、そこまで怖がることはないような気がしてきた。


「お……お邪魔してます」

 祭壇の上の木箱に、恐る恐るお辞儀をしてみる。


『うむ。苦しゅうない』


「あなたは……ここの神様ですか」


 声は再びカラカラと笑った。

『神様。神様か。生憎、神は神でも悪神だ。百と余年の昔この祠に封じられた、な』


 悪神の祠。


 カヨはふうと息を吐いた。

 安堵感がカヨを満たす。一般に悪神とは、人間に悪さをする妖怪変化の類を指す。しかし一度神社などに祀り上げてしまえば悪神は反省し、良神となって人々に福をもたらすとされているのだ。ならば今カヨに話しかけているのは、良神だと見ていいだろう。


『楽にしてよいぞ』


「ありがとうございます」

 カヨは板の間に座り込んだ。緊張から解放されるにつれて、様々な疑問が浮かんでくる。


「あの……」


『うむ。おぬし、どうやら何も知らぬようだな』


「はい。どうして私はここにいるのか、とか、どうして出していただけないのか、とか、いろいろと尋ねたいことがございます」


『よかろう。どうせが目覚めるまで数刻の猶予がある。知りうる限りのことは話してやろう……』


 木箱の神はゆっくりと語り始めた。

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