進みたい彼女と躊躇う僕(2)

 そして縁さんはギャルソンの裾を翻し、

 頼りなく柔い表情で僕に問いかけてきた。



「透夜の家へ一緒に来てくれないだろうか」



 唐突に投げ込まれた質問に僕は気が動転し、

 質問で返してしまう。



「どうしてですか?」


「一人で行くのはどうにも心許なくてね。

 君と一緒なら、平気だと思うんだ。

 だからどうか、手を貸してほしい」



 潔く、彼女は年下である僕に頭を下げて、

 助けを請うてきた。


 もうそろそろ僕も意地を張り続けてもいられない。

 みっともなくても、

 過去を受け入れようとする彼女の前で

 僕一人が殻に閉じ籠もることはできないから。

 彼女に僕の正体を明かすのも、時間の問題だ。

 そうしたらきっと、もう一緒にはいられないんだろう。


 僅かに感じた胸のわだかまりを押し込めて、

 僕は明るく、潔く返事をする。



「分かりました。僕も一緒に行きます」


「ありがとう! 恩に着るよ」



 ぱぁあっと輝かしい笑顔をこちらに向ける彼女、

 僕には少し眩しすぎた。

 目が眩むのを隠したくて、

 僕は具体的な日程を決めようという

 こじつけを種に便宜を図った。



「お邪魔するのはいつにしますか?

 店も臨時休業にしないといけませんし……」


「ああ、そうだな。

 まずは、先方に連絡を取ろうと思う。

 いきなり押し掛けるのも、申し訳ないし、

 不在の場合がないわけでもないからな」



 縁さんは少し眉を顰めて、

 少しだけ言葉を濁すような物言いをしていた。

 ここで引いてしまってはせっかくの決意が水の泡だ。

 なんとかして、奮起させなくては。



「そうですね。じゃあ、今、電話しましょう!

 善は急げですし、

 後回しにすると尻込みしちゃいますよ」



 それらしい言葉を並べてはみたが、

 彼女の心には響いただろうか。



「ああ、そうするよ。

 一人でいるときよりも、

 君がいるときの方が心強いからな」



 すると彼女は、胸の辺りに両手を重ね、

 深呼吸をし始めた。

 不安を取り除き、勇気がほしいからだろう。

 彼女は引き締まった顔付きで、受話器に手をかけた。


 モスキトーンのような音を鳴らすと、

 少し低めの呼び出し音が静かな店内に鳴り響く。

 幾度となく、繰り返されるそれは

 時間が止まっていると錯覚させるくらいに螺旋のようだ。


 たった数十秒の間さえも静止した一時間に思われて、

 息が詰まる。

 呼吸の音さえも響かせられないほどに。


 永遠に続くかのように思えた時間はプツッ、

 という音と共に終わりを告げる。



「――はい、浪川ですが」



 懐かしい人の声が耳に入った。

 鏡子おばさんの穏やかな声音が

 受話器から微かに漏れ出し、

 僕は胸を撫で下ろした。

 しかし、問題はここからで

 胸を撫で下ろしている場合ではない

 ――と言っても、

 僕は奮起する彼女を傍で見守るだけで、何もしない。


 過去、彼女がそうしてきたように

 一人で、自分自身でやり遂げることに意味がある。

 だからこそ僕は手を出さず、ただ待つだけなんだ。



「もしもし、

 久しくご無沙汰しております、由野です」



 名前を名乗るだけなのに彼女はひどく緊張して、

 若干ではあるが、声が上擦っている。

 そこにいつもの毅然な彼女の姿はない。

 冷たく濁った汗が僕の頬を伝って、

 その汁が首筋に達した頃、おばさんからの返答が聞こえた。



「由野って……あら、もしかして、縁ちゃんなの?」



 おばさんは電話の主にいたく驚いたようで、

 驚嘆の音を上げた。

 その様子に彼女も身を正して、

 はっきりと答えたのだった。



「はい、そうです」


「そうなの、本当に久しぶりね。懐かしいわ」



 おばさんは彼女からの約八年ぶりの連絡にも

 機嫌を損ねた様子もなく、

 ただ心からその報せを喜んでいるようだった。

 それでも彼女はひたすら怯えるかの如く、

 謝罪の言葉を続けた。



「すみません。

 八年も連絡すらできなくて、

 透夜の通夜にも葬式にも出なかったのに、

 今さら連絡して、本当にすみません」



 後悔と自責の念に侵された謝罪の言葉ほど

 重くのし掛かるものはないだろ。


 もう、やめてよ。

 それ以上は誰も報われず、傷つくだけだから。



「そんな言葉はいいの」



 たった一言で、負の念が一掃された。

 代わりに、穏やかな、

 けれど芯のある声音が響きわたる。



「それよりも、大事な用があったんじゃないの?」



 それは、いつかの彼女が

 僕に言ったのと同じように、心を見透かす口調だった。

 お陰でようやく目的を思い出すことができ、

 ゆっくりと言葉を編み出していく。



「浪川さんのお宅に、

 伺わせていただきたいのですが、

 いつならご都合よろしいですか?」



 今さら、だなんて彼女はまた

 余計なことを考えてしまっているのだろう。

 そんなことはないのに、

 踏み出す勇気そのものが賞賛すべきものなんだ。


 それを教えてくれたのはあなたでしょう? 

 だから僕も、本当のことをあなたに伝えるね。

 隠し続けてきた僕の姿を、

 あなたを恨んでいたことも包み隠さず話すと誓うよ。

 だけれどそれは、もう少し待っていて。



「うーん、そうねえ。

 今週末の土曜日はどうかしら?

 その日なら予定が開いているし、丁度いいでしょう」



 丁度いいとは仕事が休みだということを

 指しているのかもしれないが、

 彼女には店の定休日はあっても、

 彼女自身の休みはほぼないので、あまり関係ない。

 だから間に休憩を挟んでいるのだろう。

 高校生の僕としては都合がいいけれども。

 勿論、彼女はおばさんの誘いを断ることはしなかった。



「はい、大丈夫です。では、何時に伺えばいいですか?」


「それじゃあ、十時くらいかしらね」



 徐徐に、彼女がおばさんとの会話に

 慣れてきたと思う頃に通話が終了しようとしていた。



「分かりました。

 それでは、今週の土曜日、

 十時頃にお宅へ伺います。ではまた」


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