進みたい彼女と躊躇う僕

 彼のことで知らない話は殆どないと思っていたのに、

 知り得たのは縁さんの生い立ちや過去、

 後悔と懺悔だけでなく、

 僕の知らない一面を持つ彼だった。


「種」についての由縁が判明していないし、

 それをどうして売り始めたのかも明確にされていない。

 その訳がやけに気になって、僕は言及する。



「じゃあ、どうして彼からもらった『種』を

 売ろうとしたんですか?

 彼の形見のようなものなんでしょう」



 彼女は苦渋の表情を浮かべ、伏し目がちに答える。



「枯らして、しまいそうになったんだ。

『種』の影響については説明が記されていたし、

 何より、枯らしたくなかった。

 彼が最期に遺してくれたものを

 失いたくはなかったんだよ。


『種』は心の成長を促すが、

 それでも私の心はちっとも育たなかった。

 だから、代わりに栄養を与えてもらおうと、

 種を繁殖してもらおうと思って、始めた。

『種』の種類についても彼が明記してくれていて、

 困らなかったよ。


 そしてある日、心から『種』の養分、

 肥料となるものが生まれることを知った。

 それを『樹』の近くにやると、

 それがはじけて『種』が一つ増えたんだ。


 そうして私は『種』を増やす方法を見つけた。

 ただ、私はただの一度も

 その果実を口にしたことはない。

 己を知るのがね、怖いんだよ」


「もう八年も前になるのに、ですか」


「えっ」



 しまった、つい口を滑らせてしまった。

 僕のことは知られてはいけないのに。



「いや、この前先生と深津さんが来たときに、

 深津さんと縁さんが同い年だと聞きましたし、

 先生の歳とその三人の関係を耳にしたので、

 計算するとそれぐらいかなって……」



 取り繕うと言い訳臭くなってしまったが、

 縁さんはその答えで満足したようだ。



「そうか。その通りだ、今年で九年目になるのに、

 まだ踏み出せずにいるよ。

 笑ってしまうだろ、

 他人には散々偉そうなことを言ってきて、

 自分は目を背け続けているなんて、な」



 僕の怒りや憎しみなんて知らない彼女は、

 自らの言動について、

 そして現在の自分を自嘲気味に語った。


 僕はとうにいが大好きだった。

 だからこそ、通夜にも葬式にも

 顔を見せなかったあなたをひどく恨んでいた。

 自分だってあれ以来、

 とうにいの家には行けていないのに。


 彼女だけでなく、僕も彼の「死」から逃げてきたんだ。



 あのときまだ七歳と幼かった僕に、それは悲壮すぎた。

 受け入れることができなくて、

 彼はもう「いない」ということ

 だけしか理解していなかった。


 そして抱いたのは憎しみと悲しみ。

 僕は知っていたんだ、

 とうにいが彼女に会いに行こうとしていたことを。

 その途中で消え去ったから、

 遣り場のない苦しみを彼女に押しつけた。

 そんな考えを未だに捨てられずに、

 胸の奥でくすぶらせている僕は

 子どもというより、愚かだろうな。


 だったら僕が

 このオモイを断ち切るためにすべきことは……



「縁さん、店で育てている

 心の『種』に花が咲きました。

 時期に実をつけると思います。

 今からでも遅くありません、

 二人の気持ちが詰まったその果実を食べてください」


「いや、しかし、今は君が育てているから、

 私の気持ちなどとうに

 消え失せてしまっているだろう――」



 今、彼女に後ろ向きな言葉を

 口にさせるわけにはいかない。

 あなたの言動に、僕の未練も関わってくるんだ。



「店を建てる前から育てていたんですよね。

 だったら、僕よりも縁さんの気持ちで溢れています。

 何なら、今から実をつけるまでの間だけでも、

 縁さんが世話をしてください。

『浪川透夜』のことを大事に思うなら、

 どうか向き合ってください。お願いします!」



 どうして頭を下げるまでして、

 僕は懇願しているのだろう。

 ああ、きっととうにいの想いを

 聴かされてきたからなんだろうな、

 はにかみながらも愛おしそうに話してくれた

 その声も、顔も鮮明に思い出せるから。


 それでも憎くて、赦せないのに、

 どうして僕はあなたを

 最後まで嫌いになりきれないんだろうか。



「ああ、そうするよ。

 君にそこまで説教されてまで逃げるような真似はしない。

 ありがとう、背中を押してくれて」



 ひどく穏やかな眼差しを僕に向けて。

 そんな格好いいものではないのに、

 ただ積年の思いを静かに

 ぶつけているのに過ぎないから、

 感謝の言葉なんていらなかった。



 一週間と経たないうちに、花は実をつけた。

 それは美しいルビー色をした、さくらんぼだった。


 彼女が意を決して果実に手を伸ばすと、

 それは眩い光を放ち、

 プロジェクターのように

 あの日の彼の記憶を映し出した。


 彼はどこかに向かう途中でいきなり道路に飛び出し、

 車に轢かれて、意識が朦朧とする中、

 掠れた声で呟いていた。



『ゆ、かり、ちゃんの――』



 それが最期の言葉だった。

 その後彼はゆっくりと瞼を閉じ、二度と開くことはなく、

 その映像は終わってしまった。


 縁さんは一筋の涙を流すと、

 たがが外れたように止めどなく涙を溢れさせては、

 頬に伝わせ、ぼたぼたと滴を垂らし続けた。



「透夜、ごめんな……」



 宥めることも、励ますこともできない。

 僕にはそんな資格なんてないから。

 それに、今は好きなだけ泣かせてあげるべきだとも思う。

 押し潰されそうな思いからやっと解放されたんだ。

 だから、ただ待っているよ。



 十数分と経った頃に、

 ようやく泣き止み、彼女はさくらんぼをもいだ。



「いただきます」



 静かにそう呟くと、さくらんぼの実を口に含んだ。

 縁さんはそっと目を閉じて、胸の辺りに手を添える。

 胸の温もりをそっと抱き留めるように。

 

 細々と、しかし、清らかな声音で言葉を発した。



「透夜、今までごめん。それと、ありがとう」



 そこで彼女が何を感じたのか分からないけれど、

 きっと、とうにいとの思い出が詰まっていたんだろう。

 僕の知らない彼を。

 それでも、二人にとって彼が

 特別な存在だったことは断言できるはずだ。


 およそ八年に亘って、

 心の中で生き続けるほどの大きな存在なら、

 たとえ、唯一無二の意味を持たなかったとしても、

 それだけで特別なものになる。


 全く似ていないはずの僕らの共通項だ。



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