進みたい彼女と躊躇う僕(3)

 ピッ、という甲高い音と共に通話が終了すると、

 彼女は腰を抜かしたようにへなへなと力なく、

 地面に座り込んでしまった。

 そのうえ呆然と黙って俯いているものだから、

 心配になって彼女に駆け寄る。



「大丈夫ですか、立てますか?」



 しかし、応答はなく、

 どうするか迷ったものの、

 彼女を起き上がらせることにした。



「起こしてあげますから、腕、掴みますよ」



 事後承諾で彼女を引っ張り上げると、

 引き上げた勢いで彼女は

 ふらふらと僕の方へ倒れ込んできた。



「!?」



 背中に手を回すべきか悩んだ末に、

 そっと両手で抱き留めた。


 彼女が僕の肩に顔を埋めながら小さく呟いたから、

 一瞬焦りを感じてしまう。

 しかし、その焦りは杞憂に終わる。



「緊張した。今も不安で仕方ないよ。

 透夜の死に向き合うのが、受け入れることが、

 怖くて堪らないんだ。


 だから、もう少し、少しだけでいいんだ。

 このままでいさせてほしい」



 何て返事をすればいいか分からなかった。

 僕だって、鏡子おばさんの家に行くのは辛い。

 彼の死を知らしめられることもだけれど、

 本当のことを告げなければいけないことが

 苦しくて堪らない。


 だから僕は返事の代わりに、

 彼女の身体をキュッと抱き寄せた。

 締め付けないように、

 けれど、互いの温もりが伝わる程度に

 触れていたかったから。

 そうすれば、少しでも彼女の不安が

 取り除けるような気がしたんだ。


 これから彼女を傷つけるのは他でもない

 自分なのにという矛盾を抱えながら、

 彼女が「もういい」と口にするまで、

 その手を離しはしなかった。



 その後、彼女から手を離し、妙な空気が流れた。

 沈黙に包まれ、

 どうしようかと頭を悩ませていると、

 彼女の方から話し始めた。



「この後、よければ、また一緒に夕食を食べないか?」



 という彼女の誘いに対し、僕は断りの旨を伝える。



「すみません、今日は早く帰らなければいけないので、

 このまま帰らせてもらいますね」


「そうか、分かった。それじゃあ、気をつけて。

 また土曜日に、九時半にここへ来てくれ」


「はい。ではまた土曜日に」



 それだけ言って荷物を手に取ると、

 僕は素早い足取りで店を後にした。



 嘘を吐いた。

 早く帰らなければいけない用事なんてない。

 ただ、今はどうしても彼女といたくなかった。


 土曜日には正体を明かさねばならないのに、

 いつものように楽しい時は過ごせない。

 きっと僕は取り繕えないだろうから、

 それを防ぐために嘘を重ねた。

 一体僕はいくつの嘘を重ねたら気が済むんだ。




 とうとう土曜日がやってきた。


 その日は休日だというにも関わらず、

 七時頃に目が覚めてしまった。

 寧ろ、あまり熟睡できなかったというべきだろうか。

 不安で睡眠は浅かったものの、

 身体というものは実に素直で、

 起床してすぐに空腹を感じた。


 授業の予習や課題なんかは平日に

 全て終えてしまっていて、

 特にすることもなかった僕は

 少し手の込んだ朝食をつくることにした。


 ご飯が美味しく食べられるようなものがいいと

 和食をつくってみた。

 炊き立ての白米と、

 昔懐かしのみたらし餡がたまらないいももちと、

 薄味の玉子焼きと、萌やしとニラの炒め物だ。


 出来上がった頃には、母と父がやってきて、

 僕が食べ終わる頃にはなずも起きてきた。

 みんなして、

「朝食つくるなんて珍しい」と口を揃えて驚いていた。

 それに評価も上々のものだった。

 いつの間に料理できるようになったのかと訊かれたが、

 彼女の元で働いているうちに、だろう。



 それからスマホのアプリで漫画を読むなどして、

 暇を潰した。

 電子コミックは多種多様なうえ、

 サクッと読めてしまうからこそ暇潰しに丁度いい。

 シリーズものなんかを読むと、

 時間なんてあっという間に過ぎた。



 家から店までの所要時間は

 自転車で十数分といったところで、

 待ち合わせの十分前には優にたどり着くことができた。

 店の前の扉に立つと僕が扉に手をかけぬ間に、

 内側から扉が開かれた。



「おはよう。よく来てくれたね、助かるよ」



 穏やかな声音で僕を迎え入れてくれたその人は、

 紛れもなく一人の女性の姿をしていた。



「お、おはようございます」



 予想していなかった彼女の変化に僕は目を丸くして、

 その姿を見据えてしまう。


 それに気づいた彼女は弁明するように、

 理由を教えてくれる。



「ああ、これはね、一種のけじめだよ。

 あの格好で鏡子さんと透夜に会うのは、

 逃げのような気がしてね。違和感があるか?」



 不安そうに僕の目を見て尋ねる彼女を見て、

 たとえそうだとしても

 そんなことは口に出せないと思った。

 ただでさえ、

 不安な彼女をこれ以上不安がらせる必要はない。



「いえ、縁さんは

 そのままの格好が一番素敵だと思います」



 それは皮肉でも何でもなく、

 ただの本心からの言葉だった。


 男装姿は勿論格好いい。

 しかしそれでも、罪悪感を纏いながら、

 素敵な言葉で主に女性の心を射止める彼女よりも、

 戸惑いつつも素直な感情を表す彼女の方が

 何倍も魅力的だと思わされたんだ。



「そ、そうか……」



 彼女がどう受け取ったかは分からないけれど、

 彼女はパッと目を伏せてしまった。

 嫌味でも皮肉でもないと、

 どうか気づいてくれますように。


 たとえばもし、

 縁さんが過去を清算できたとして、

 その後はきっと封印していた夢を叶えるのだろう。

 しかし僕はどうだろうか。

 何かが変わるのかな、

 前進するどころか後退してしまいそうだ。

 僕も僕で、相当気が動転しているらしい。

 情けないな、僕がしっかりしないと、

 彼女に真実を伝えることもままならないというのに。



「さあ、縁さんそろそろ行きましょうか」



 僕が声を掛けてみると、

 彼女はようやく平静を取り戻したようで、

 顔を上げて返事をした。



「あぁそうだな、行こう」


「浪川さんの家にどうやって向かいますか?」



 何の移動手段か、という問いである。



「大して距離もないし徒歩で向かおう。

 おそらく、十分ほどで着くはずだ」


「はい」



 その会話を合図に店の戸締まりを確認し、

 店を後にする。



 浪川家までの道のりは静かで、

 どことなくぎこちない空気が流れていた。

 彼女は先導しながらもずかずかと歩くわけではなく、

 心許なさそうにゆっくりと足を運んでいる。


 対して僕は場所は知っているけれど、

 それを今彼女に知らせるわけにもいかない。

 そのため僕は彼女から

 二、三歩下がって頼りない足下に続く。

 時折見上げると、彼女の曲線美が目に映り、

 その度に視線を足下へ落としていた。

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