ひとさじの勇気
風呂を済ませ、
部屋に戻った僕は
『種』をようやく鞄から取り出した。
巾着袋に入れられていた
それを手に取り、
両手で抱き抱えるようにそっと包み込む。
心を育てるものだと言うなら、
大事に扱うべきだと思ったから。
『少しだけいい、僕に力を貸して』
そうしたら、
僕も勇気を出して声を上げるから。
彼へのいじめを止めて、
助けるから――お願い。
鉢に土を敷き詰め、
ありったけの思いと共に
種を鉢に植えた。
これだけで変われるなんて、
甘いことは考えていないけれど、
きっかけになってくれたら
と思っているんだ。
心を育てる為には、
自分の意志を
はっきりさせなくてはいけない。
何をしたいのか、
何を為すべきなのか、
それが肝要だ。
種と鉢と土を買ったときに、
彼がおまけと言ってくれた、
両手に収まるほどの
小さなジョウロに水を溜め、
種に水を注ぐ。
注ぎ口に小さな穴が
いくつも空いているので、
水がゆっくりと流れ出す。
まだ何も芽生えてない土に
注がれる水は、
大地に降り注がれる
雨のように見えた。
小さな世界に恵みの雨、
なんて言ったらキザかもしれないが、
水の降り注ぐ音と、
その様に癒されたんだ。
僕は直径十二センチほどの
その鉢植えを勉強机の隅に置く。
まだ何もない鉢植えを眺めて、
僕はこの種が育つ
未来を想像した。
芽が生え、茎が伸び、
葉が生い茂り、蕾が付き、
花が咲いて、
実がなるそのときを。
小さくても、
立派じゃなくてもいい、
穏やかにゆったりでも
生長してくれればいいよ。
あんなに焦っていたはずの
僕の心はいつしか、
落ち着き払っていた。
人と人が関わっただけで、
そこにたった一つの
些細な縁が生まれただけなのに、
こんなにも心強い。
芽さえ生えていないけれど、心地好くて、
胸の辺りがとても暖かいんだ。
どれくらいか久しぶりに、
十一時過ぎには
安らかな眠りに就いていた。
翌朝、
アラームの設定時刻より
三十分ほど早く目覚めて
ベッドから起き上がる。
朧げな視界の中、
何かに気づいて目を凝らした。
「あ……」
思わず声を漏らしてしまうが、
そんなことは気にも留めず、
机にぎりぎりまで近寄って、
それを見つめる。
「やっぱり!
芽が、生えてるや」
それは二センチにも
満たない程度の
ちっちゃな双葉だったけれど、
僕にはそれが希望にさえ思えたんだ。
諦めなくていいんだよって、
励まされてるみたいだから。
手の中に収まる
小さな世界の命が
僕の背中を押してくれる。
お返しに、
うん、頑張ってみるよ、
小さく呟いてみせた。
振り返って
鉢植えの双葉を見てみる。
その双葉は柔い笑みを
浮かべているような気がした。
朝食の時間を長めに取り、
身支度を済ませた僕は鞄に本を詰め、
それでもいつもよりは
早めに家を出た。
僕なりのけじめをつける為に。
息を整えて入った
七時五十分の教室に、
彼は一人、読書をしていた。
あの日と同じように、
本に集中している。
いじめに遭っても挫けず、
こうして登校してきて、
いつも通りに過ごしているんだ。
彼は強くて、僕は弱い。
僕が臆病な弱虫なのは
今に始まったことではないが。
教室の扉を開いた今でも、
彼はちらりとも目を向けない。
静かに扉を閉め、
彼の席へゆっくりと近づいていく。
彼の目の前で立ち止まり、
震える心を抑えながら声をかける。
「お、おはよう!」
彼の視線は変わらず依然として、
本に向いている。
僕はただ彼の返答を待つばかりだ。
「…………何?」
不機嫌そうな低い声音で、
答えた彼は怪訝な顔で
こちらを見返した。
これ以上彼を
苛つかせてはいけないと、
すぐに用を伝える。
「頑張るよ。
いじめも止めてみせるから、
今度こそ、ちゃんと守るから――」
「うん」
続きの言葉をかき消すように
彼が言葉を発する。
どういう意味で彼がそう答えたのか
分からないけれど、
僕はそれを 受け止めてくれたんだと、
解釈してみることにした。
愚直だと誰かに
笑われてしまうかもしれないが、
そんなことはないと、僕は断言する。
彼は僕の話に
耳を傾けてくれたんだ、
先週あんなことを
しでかした僕の話なんかを。
だから、この答えは
間違いなんかではない。
「ありがとう」
彼に対する敬意と感謝を示す為、
にっこり笑ってみる。
僕はこの言葉に
決めたんだから。
いくらか待ってみても、
反応も返答もないようで、
彼に背を向け、踵を返そうとした。
「……おはよ」
背後からぶっきらぼうな声が聞こえて、
僕はまた笑顔になる。
ぱっと振り返り、
今度こそは明るく
爽やかな声で挨拶をした。
「鈴木くんおはよう!」
まだ、スタートラインに
立てたばかりの僕だけど、
幸先よいスタートになりそうだ。
ああでも、
明日からテストが始まる、
忘れていたわけではないけれど、
この頃は色々ありすぎて、
あまり勉強に身が入らなかった。
どうか欠点だけは
免れますように。
火曜日から金曜日までの毎日、
僕は鈴木くんに挨拶をしている。
そうするだけでは、
何が変わるというわけでもないけれど、
意思表示と願掛けを掛けていた。
最近彼らは鈴木くんに
構っている様子もなく、
彼へのいじめに飽きたのだと
思い込んでいたんだ。
しかし、その考えは誤りだった。
その証拠に、
彼らは僕すらも知らないところで
彼を執拗に、
陰湿にいじめを続けていた。
そして翌週、テスト四日目のこと。
僕はロッカーに
翌日のテスト科目の教科書類を
置き忘れてしまった。
それを取りに行き、
ついでにトイレを済ませようと
一階の男子トイレに
立ち寄ったんだ。
そこで、彼らが鈴木くんを
押さえつけて
嫌がらせをしようとしている
現場を垣間見てしまった。
彼は一人に両腕を掴まれ、
もう一人には
足を押さえつけられている。
そして、もう一人が
彼の前にしゃがみ込み、
今にも手を掛けようとしていた。
僕が今一番為すべきことは
別のことなんだけども、
考えずにはいられないものがあった。
この構図はどう見ても、
外道な男がか弱い女子を強○しようと
しているようにしか見えなかった。
僕が言うのも
おかしいかもしれないが、
彼はしなやかな体のラインで、
ほっそりした体つきだから、
座った状態のシルエットだけなら
女の子にも見える。
と、そんなことはどうでもよかった、
何よりも先に、彼を助けるべきだ。
再び、引き戸の
取っ手に手をかける。
扉を開けるなり、
僕は彼の元へ駆け寄った。
「鈴木くん!」
声をかけると、
彼は朧げな目で僕を捉える。
僕の存在に気づいた
彼は目を見張り、
こちらを見つめてきた。
「佐藤……?」
僕がここにいることに
驚いているのだろう、無理もない。
以前の僕は陰からしか
助けられない弱虫だったんだ。
正面からすっ飛んでくるなんて、
思いもしなかったはずだ。
当然だよ、
僕だってまだ身体が震えているから。
「おい、ショウタ。
何してんだ、そこどけよ」
鈴木くんに
手を加えようとしていた
彼らは邪魔をされて、
すっかりご立腹のようだ。
有無を言わせない為に
ドスの効いた声で
圧力をかけてくる一人。
僕は構わない。
千切れそうに痛む
心臓を抑えつけて、
僕は微細な声を絞り出す。
「――て、――てよ」
ダメだ、
こんなんじゃ全然足りない。
「はぁあ?
今、何て言った。聞こえねえよ」
思った通り、一人が声を荒げる。
大きく息を吸い込み、
両手に力を集中させた。
「この手を、
離してって言ったの!!」
相手の不意を突くように、
瞬間的に二人の手を
彼の手首から引き剥がし、
そのまま彼を抱き上げて走り出していた。
「えっ、佐藤!?」
「昇汰、てめぇええ!!」
すぐ傍からは彼の困惑する声、
遙か後方となった男子トイレからは
一人の怒声が耳に流れ込む。
僕自身、
咄嗟に判断する間もなく
動いてしまったもので、
何がなんだか分かっていない。
しかし、
不思議と恐怖感は拭えていた。
彼らのいた方とは
真逆の西階段を
息切らし駆け上がる。
人気のない西階段付近には
静寂だけが流れていた。
その為か、さきほどの出来事を
幻想に感じるけれども、
今、確かに
この腕にのし掛かる重みは
現実のものだった。
やり切った、若しくは、
遂にやってしまった
というべきか。
今日、僕は初めて彼らに反抗した。
謎の達成感に、
僕の頬元は緩み、
薄気味悪い笑い声を漏らす。
「ふふふ……」
彼は僕のそんな様を
不快に感じたのか、ぼそりと呟く。
「どうして、こんなことしたの?」
言葉の体裁としてこそ疑問形であったが、
それは否定とも肯定ともとれない
不安定な口調だった。
彼の言葉によって
冷静になった僕はひとまず
彼を下ろすことにした。
急に現実問題を
突きつけられたが、
僕の脳はそこまで利口じゃない。
だから、僕の脳がまともに
思考を開始するまでの間、
きっと一分にも満たない
時間だけれど、長い沈黙が続いた。
背にある窓から
初夏の生温い風が僕を煽る。
あぁ、心地好いな、
風が僕の背中を押すから。
きっと、
そういうことなんだろう。
「僕にも、
どうしてあんなことをしたのか
解らないよ。でも、夢中だった。
それに、後悔なんかしてないから。
やって良かったと思ってる。
初めて、自分の意志で
動けたことが誇らしいんだ」
彼は重たい唇を開き、
僕の言葉を制する。
「それってさ、
前に俺が言ったから?」
僕の言葉なんて
届いていないのだろうか。
そこには、
僕の気持ちがなかった。
そうか、
あんなことを言わせてしまった
後だから、
信用されていないんだ。
なら、
僕が彼にかける言葉は、
「そうかもしれないね」
彼は目を見開き、僕の顔を見る。
そして、肩を竦めて、
僕から目を逸らした。
ただね、それだけでもないんだよ。
「でも、君を庇いたいって、
彼らのいじめを
止めさせたいと思ったのは
自分の意志に変わりないよ。
たとえどんなことを言われても、
それを心に留めて、
行動に移さない限りは
何も変えられはしない。
だから、君に言われたからだけじゃないよ。
それに、止めるって宣言したからね」
再び彼の顔が起き上がり、
僕の目を不安そうに見据える。
「……うん」
そのとき、
眼鏡の向こうにある彼の目が
僅かに和らいだように見えた。
少しは信用してもらえただろうか、
この言動がスタートラインの
一歩目になるといいな。
彼との信頼関係はここから始めよう、
やり直せなくてもここからでいい。
一歩後退した地点から
一歩先のスタートラインに立っている、
今はそれだけで十分だ。
「ありがとう、佐藤」
初めて、
名前を呼んでくれたね。
前言撤回しよう、
今はスタートラインの一歩先だ。
「どういたしまして!」
彼らに反抗したことで、
きっと何かが変わるだろうし、
それは必ず良い方向とは
限らないけれど、
この前進を大事にしよう。
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