変化が好転とは限らない

 彼に傘を借りたお陰で

 僕は風邪を引くこともなく、

 月曜日は至って

 普通に登校した。



 しかしこの日、

 先週の金曜日に

 僕が庇おうとした彼が

 いじめの標的にされたんだ。


 きっと僕が不用意に

 声をかけたりしなければ、

 彼はいじめられることも

 なかったはずで。


 

 ――それは先週の金曜日、

 クラスで孤立していた

 彼はある本を読んでいた。


 それは僕の好きな

 ライトノベルだった。


 朝の早い時間で

 まだグループの彼らも

 来ていなくて、

 僕と彼を除き、

 他に二人しかいなかった。



 弱虫な僕には

 それくらい閉ざされた

 環境でないと彼に

 近づくことすらできやしない。



「何の本読んでるの?」



 声をかけると、

 彼は不思議そうに

 目を丸くして

 僕を一瞬だけ見た。


 僕は構わず、続ける。



「その本面白いよね、

 僕は××が好きなんだ」



 すると伏し目がちなままで

 彼は口を開いて、

「俺も××が一番好きだ」

 と答えてくれて。


 僕はやった、

 と子どものように笑った。



「同じだね。

 それじゃあ鈴木くんは

 どのシーンが好き?」



 やや興奮気味に、

 オタクで楽しい

 会話を交わしていた。


 彼らがいないからと

 油断していたのかもしれない。




 その日の午後、

 彼らが口にしたんだ。



「鈴木さー、

 一匹狼気取ってて

 ウザいからー

『更正』させようぜ?」



 彼らのうちの一人が

 ニヒルに笑った。


 彼らの言う『更正』とは

 気に入らない、

 彼らに逆らう奴らを

 いじめることだ。


 僕の所属するグループは

 クラスで一番強い力、

 権限を持っている

 グループである。


 不満があっても

 大抵の人は逆らわないし、

 逆らえない。


 過去に標的になった人が

 一人いたが、

 その人はいじめなんて

 全く気にも留めていない様子で、

 彼らはすぐに飽きた

 ――というのは建前で、

 反撃が恐かったからだった。



 今度はそうはいかないと思い、

 止めようと

 声に出してみるけれど。



「そんなこと、するほどかなぁ」


「は、何て?」


「ううん、何でもないや」



 そうして

 事態は収拾しなかった。




 翌週、彼の鞄が

 ゴミ箱に捨てられていて、

 本は切り裂かれていた。


 彼に手を差し伸べよう

 と思うけれど、

 彼らが怖くてできない。


 彼へのいじめは

 日に日にエスカレートしていき、

 僕は陰からこっそり

 いじめを妨害する

 ことしかできなかった。



 僕は何も進歩できないままで、

 いじめを止めることも

 できないまま、

 それから一週間が経った

 二十三日の月曜日に、

 鈴木くんから言われてしまった。



「君は狡くて、臆病だ。


 真っ向から

 立ち向かえないなら、

 これ以上余計なことは

 しないでほしい……君とは、

 仲良くなれそうだったのに。


 残念だよ」



 彼の眼鏡越しに、

 落胆したような眼が

 僕の脳裏に

 しっかりと焼き付けられた。



 言葉とともに注がれる

 彼の眼差しは、

 僕の心を無数の針で

 突き刺してくる。


 酷く、胸が痛む。



 でも、

 下手に心があるからこそ、

 傷ついたり、

 臆病になったりするんだ。


 感情なんてなければ、

 心なんてなければ、

 もういっそ僕なんて

 なければいいのかもしれない。



 僕なんて、弱虫で、臆病で、

 血の通った

 利己的な「何か」だ。


 

 僕は「好かれる為」ではなく、

「嫌われない為」に

 努めてきたから、

 きっと誰からも

 好かれていないだろうし、

 必要とすらされているかも危うい。


 きっと、

 嫌なことや面倒なことから

 逃げすぎてきたたんだ。



 自業自得で

 自覚していたなはずなのに、

 あまりにも弱っちい

 僕の心は傷つくと同時に、

 罪悪感が生じていた。


 情けない自分が嫌に

 なり始めてきた帰り道、

 あの店へ続く裏道が

 視界に飛び込んできた。


 

 そうだ、

 傘を借りていたんだった、

 返しに

 行かなくちゃいけないや。


 思うよりも先に

 身体が動き出す。


 あの傘を取りに帰ろう、

 早く、あの店に。



 どうしてだか、

 無性に彼に

 会いたくなったのだ。



 息急き切らして、

 家に到着した僕は

 玄関の傘立てに

 入れられていた傘を手に、

 自室から

 普段の財布を持ち出す。


 徒歩では遅すぎるからと、

 自転車に跨がり、炎天下の中、

 額に汗を浮かべながら

 あの店を目指した。



 店にたどり着いたのは、

 家を出発してから

 十五分といった

 頃だったはずだ。


 全身汗だくになって

 ようやくたどり着くと、

 もうクタクタだった。


 そりゃそうだ、

 学校帰りに動きにくい

 制服のまま、

 汗だくになりなるまで十五分も

 自転車を漕ぎ続ければ

 疲れるだろう。



 自転車を駐輪スペースに停め、

 鍵をかけ、

 その場で深く

 ゆっくりと深呼吸をする。


 

 息を切らして

 店に駆け込むなんて、

 格好悪くて、恥ずかしいから。


 こんなに急いでいるときでも

 男のいう奴は

 意地を張ってしまう

 生き物なんだろう。


 高鳴る鼓動を抑えて、

 僕は店の扉を叩く。



 潔く、扉を開ければ

 いいのかもしれないけれど、

 今の僕には

 それができないから。


 店の奥から声がする。


「どうぞ、開いてますよ」



 彼の声を合図に僕は

 自分の手で

 ゆっくりと扉を開ける。


 そこには以前と同じように

 カウンターに

 立っている彼がいた。



「いらっしゃいま……

 ああ、この前の!

 傘を返しに

 来てくれたのかい?」



 彼は僕の顔を見るなり、

 僕のことを

 思い出してくれたようだ。


 あれだけの関わりだったのに、

 覚えてくれていたことが

 くすぐったく感じられる。



「はい。


 この前はどうも、

 ありがとうございました。


 それと、この店に

 入ってみたくなったので」



 そう、本当に

 衝動的に来たくなった。


 気恥ずかしくなって、

 視線を下げてみると、

 彼の服装が前と

 異なっていたことに気づく。



 先日は

 ギャルソンの制服だったのに、

 今日はワイシャツに

 黒のエプロンとジーンズという

 少しラフな格好をしている。


 不思議な服装ではあるが、

 サラリーマンが

 仕事帰りに台所に

 立っているような感じだ。



 しかし、

 そんな格好をしていても

 格好良さを感じるのは、

 美形故なのか。



 僕がそんな考察、

 という名の妄想を

 繰り広げているうちに

 彼は飲み物と

 おしぼりを用意していた。



「カウンターとテーブル、

 どちらにするかい?」



 不意に

 話しかけられようものなら、

 反射的に身体がピクリと

 跳ね上がってしまう。


 彼に見据えられると、

 僕のくだらない妄想まで

 見透かされるんじゃないかと

 内心焦っているからだ。


 だから僕は

 彼の問いに答える際、

 例のように

 視線を外して返事をする。



「じゃあ、カウンターで」


「では、

 好きな席に座るといい」



 彼に促されるままに、

 僕は六つの席の内の

 右から二番目に腰掛けた。


 おしぼりを手渡され、

 グラスに注がれた

 飲み物を置かれる。


 おしぼりで手を拭き、

 早速とばかりに差し出された

 飲み物に口を付ける。



 さっと、口の中に

 爽やかな甘さが広がっていき、

 汗だくになって火照っていた

 僕の身体中に

 清涼感が行き渡る。


 すっきりした甘さと

 みずみずしい香りが心地好い。


 さらにもう一口と、口に含み、

 ごくごくと喉を鳴らす勢いで

 それを飲み干した。



「うわっ、

 これすごく美味しいです!

 何のお茶ですか?」



 身を乗り出すほど

 興奮した口調で

 僕は彼に問いかける。


 彼はそんな僕を見てか、

 頬の辺りが

 緩んでいるように見えた。



「そうか、

 気に入ってもらえて良かった。


 これは、

 マスカットティーという

 紅茶の一種で、

 セイロンティーに

 香料を加えたものだよ」



 なんだかよく分からなかったが、

 紅茶ということだけは分かった。



「紅茶って、

 もっと渋くて酸っぱくて、

 飲みにくいものかと

 思ってました。


 でも、これはすごく

 飲みやすいですね。


 お砂糖か、

 何か入ってるんですか?」


 

 これなら喉が渇いたときにでも

 飲みたいくらいだ。



「いや、

 そういった類のものは

 入れてないよ。


 熱い紅茶を淹れて、

 それを水と氷で割り、

 冷蔵庫で冷やしているんだ」



 砂糖が入っていないことにも

 驚きだけれど、

 今の話を聞く限りは

 どうやらこれは

 自家製の紅茶のようだ。


「え、自家製なんですか?

 すごいですね、

 手間もかかりそうなのに」



 僕が感心したような

 声を上げると、

 彼はふふっと

 穏やかな笑みを浮かべる。



「夏や暑い日にはね、

 よく出すんだよ。


 水よりも身体に染み渡る

 感じがするからね、

 ほんのサービスだ」



 はにかんだような笑みが

 なんとなく

 可愛く見えてしまった。


 中性的な

 見た目のせいだろうか。


 

 彼の柔らかな笑みを

 凝視していると、

 思い出したように

 手元にあった

 メニューを差し出してきた。



「す、すまない。

 つい、話に夢中で

 メニューを渡し

 忘れてしまっていたよ」



 僕もそんなことは

 すっかり忘れていたので

 全く気にならなかった。


 本当に何をしに来たのか

 分からない奴だ。



「いえいえ、大丈夫です」


 受け取ったのは

 レストランなんかで

 よく目にするようなサイズの

 大きいメニュー表だった。



 ページを

 ぱらぱらとめくるが、

 がっつりした食事ばかりで

 あまり気が進まない。


 連絡もなしに

 晩ご飯を済ませてきたら

 母さんに怒られる。


 よし、デザートにしよう。


 そう思い、

 ページを繰ると、

 最後のページにデザートが

 ずらりと載せられていた。


 しかし見たところ、

 重たそうなものばかりだ。


 女子はこういうのを

 食後に食べるというのだから、

 ある意味関心してしまう。


 一番軽そうなものを、

 とメニューの隅まで見渡すが、


 ケーキ、タルト、

 パンケーキ、パフェ、


 重いか甘ったるいかの

 どちらかを

 迫られるようなものだ。



 あまりスイーツの

 クリーム系や重いものは

 得意ではない。


 スイーツ独特の甘ったるさ、

 後を引くような

 甘さが苦手だ。


 勿論、少しなら

 甘いものも食べられるが、

 チョコレートや

 クッキーなど

 手軽で食べやすいもののことだ。


 ケーキ系は甘みが強い上に、

 しつこいから基本避けている。



 僕がどれにしようか

 決めあぐねていると、

 彼が声を掛けてくれた。



「食事と、デザートのどちらで

 迷っているんだ?」


「デザートなんですが……

 その、甘さ控えめで、

 さっぱりしたもの

 ってありませんか?」



 一応、ダメ元で尋ねてみる。


 デザートなのに、

 甘くないものがいいなんて

 我が儘な話だ。



「甘さ控えめか、

 冷蔵庫に在庫がまだ残っているか

 確認してくるから、

 そこで少し待っていてくれ。

 すぐに戻るよ」



 そう言うと

 彼は僕を一人残して、

 颯爽と店の奥へと

 消えてしまった。


 しかし、

 物音が聞こえてくるから、

 思いのほか

 近くにいるのかもしれない。



 彼は宣言通り

 すぐに戻ってきてくれた、

 いくつかの

 カップスイーツを乗せた

 トレイを手に。



「お帰りなさい、

 本当に早かったですね」



 彼はなぜか、

 驚いた顔で僕のことを

 じっと見つめてきた。


 何かおかしなことでも

 言っただろうか。


 もしそうだとして、

 傷つけてしまったなら、

 謝らなくてはいけない。



「気分を害させてしまったなら、

 すみません……」



 しかし、

 予想外の答えが返ってくる。



「いや、

 こちらこそすまない。


 君の言葉が、

 知人と似ていたものだから、

 驚いてしまっただけだよ」


「そうですか」



 それ以上は

 言葉が出てこなかった、

 というよりは何か憚られた。


 この話題は

 広げてはいけないと

 思わされた、

 彼の表情が

 僅かに歪んだんだ。



 すぐさま彼は

 笑顔を創り出すが、

 その笑みが余計に辛い。


 痛そうなその笑顔が、

 何よりも

「触れないで」と告げていた。



 不用意に詮索すらできない。


 彼はその辛さを

 紛らわすように、

 話題を戻した。


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