僕の海馬を君に贈りたい
碧瀬空
第一種「勇気の種」―自分次第の力ー
店主との出逢い
十三日の金曜日には
何かよくないことが
起こると言われる。
しかし、
今日の出来事は
それとは関係ないように思う。
今日はクラスメートの
鈴木くんがグループの
彼らの標的にされかけたので、
止めようとしたが、
やっぱりはっきりとは
言えなかった。
彼らを止められなかった
自分にちょっと罪悪感を覚えて。
彼らというのは、
僕が所属するグループの
三人のことだ。
「三人」としか言わないのは、
何の意識だろうか、
そんなことはとうに
忘れてしまったけれど。
仮定として、
僕は彼らに対する尊敬
というものを
喪失してしまったのだろう。
そういうわけで
僕は今空に浮かんでいる
灰色の雲のような
不快感を抱えていたから、
いつもとは違う道を
通って下校していた。
すると途中で、
裏道らしき小路を見つけ、
歩いていった。
多分、衝動的な
歩みだったのだと思う。
現状を変えてくれるような
何かを求めていた。
その小路を通り抜けた先に、
小さな店が存在していた。
吸い寄せられるように
店へ歩みを進めていく。
目の前まで
来たところで僕は歩みを止め、
立ち止まってまじまじと
その店を見つめてみる。
一見すると何の変哲もない
店のように見える。
それなのに引き寄せられた、
だからこそどこか怪しげだ。
ふと、入り口に
目を向けてみると
さっきは読めなかった
文字が読み取れる。
「stray sheep」読み取れても、
意味が分からない。
店名の解読は諦め、
扉付近に立てられていた
ボードに目を当てる。
立て札には
「open」と記されているが、
営業中にしては
少々閑静だと思う。
心配なのか、好奇心なのか、
僕は正面の窓から
こっそり顔を覗かせた。
思った通り店内には
客は一人もいないようだ、
けれど店員らしき
人物を一人確認する。
ギャルソンを着た彼は、
食器を拭いている最中だった。
外から覗き見ている
最中だというのも忘れて、
僕はうっかり彼に
見とれてしまっていた。
中性的な顔立ちと
しなやかな手の動きは
慣れたものだったが、
その動作はどこか艶めかしい。
男性だと
認識しているはずなのに、
それを疑ってしまうような
艶っぽい雰囲気を纏っている。
観察する如く、
あまりに長い間
見つめてしまっていたせいか、
店内にいる
彼と目が合ってしまう。
「あっ」
咄嗟に顔ごと逸らすが、
もう遅い。
彼は僕を見るなり、
扉の方へ駆けていく。
内側から扉が開かれた店内は
素朴な造りになっていた。
テーブルが五つ、
それぞれに椅子が三つずつ
配置されている、
何の変哲もない
喫茶店のようだ。
けれど、
その何でもないような空間は
懐かしさを
そこはかとなく
感じさせるものだった。
彼の声がなければ、
そのまま足を踏み入れて
いたかもしれないくらいに。
「よければ
入ってみないかい?」
言葉遣いが男らしい割に、
声は想像していたよりも高く、
優しい声音をしていた。
そして僕は
ここであることに気づく。
そういや今日は財布、
忘れていたんだった
……あぁっ。
あんなにガン見しておいて、
財布忘れていることに
気づかないとか間抜けだ。
とり敢えず、断ろう。
「ご、ごめ――」
怪しい色をしていた雲から、
滴がポツポツと
零れ始めたかと思うと、
篠突く雨が降れり、
僕の道を閉ざした。
僕の声を
かき消してくれた雨は、
そのことを
反省するどころか、
もういっそ、
開き直る勢いで
地面を叩きつけていく。
行き場のなくなった
僕の言葉と、
それを待っていた
彼の二つの陰
――晴れてないから、
陰は見えないけれど。
とり敢えずは店の軒下に
一時避難することにしたけれど、
どうするべきだろうか
この状況は。
これ以上雨が
強くならないうちに
すぐにでも帰るべきだろうが、
生憎僕は今、
傘を持ち合わせていなかった。
今の僕に
選択肢は一つしかない。
彼の誘いを断り、帰ることだ。
けれど、一度雨によって
タイミングを逃してしまったため、
切り出しにくいものがある。
そんな皮肉をこめて
空を睨みつけてみるが、
相変わらず雨は降り続ける。
それどころか、
さっきよりも
勢いを増して降ってきた。
きっと彼らはしたり顔で
この僕を見下ろしながら、
嘲笑しているに違いない。
断る勇気もなく、
度胸もなくて
情けない僕のことを。
そうして僕がああだ、
こうだと
悩んでいるうちに、
彼は先に
答えを出したようだった。
「大丈夫かい、よければ
雨宿りしていってくれ。
勿論、お代は取らないから
安心してくれていい」
大人な彼には僕の
内心なんかお見通しらしい。
なんて、
僕の言動から察すれば、
簡単に
予測できそうなものなのか。
大人な対応をしてくれた彼に
僕はなんて返事をするべきか、
また悩み込む。
選択肢は二つしかないから、
悩むというよりは、
迷っていると言った方が近い。
断るか、
好意を受け入れるか、
のどちらかしかない
――あれ、
なんかデジャヴのような……?
いや、気にしたら負けだ、
何に負けるのかは
分からないが。
しかし、無償で
他人の好意に甘える
ということには抵抗がある。
『ただほど怖いものはない』
と昔の人が言ったように、
本当に「ただ」で
済むはずがないだろう。
「ただ」には
リスクが付き物なのだから。
ただそれでも、
彼の好意を無碍にする
ということはしたくなかった。
こんなにも物腰穏やかな
対応をしてくれる人が
悪い人だとは思えないし、
思いたくない。
悪人ほど善人面をしている
というけれど、
悪意のようなものは
微塵も感じられない。
どちらかというと、
下心のようなものだ。
ただ僕にはリスクを負って、
彼の好意に甘える
という勇気ある行為ができる
人間ではないので、前者しかない。
「す、すみません。
遠慮しておき、ます」
声が震える、格好悪い。
どちらか二択じゃなく、
もう一つ選択肢があればなあ。
「そうか、すまない。
気を遣わせてしまったな」
彼の声音がしぼんでいる。
ふと見上げると
寂しそうに眉を落として笑う
彼の顔が
僕の目に刻み込まれた。
僕の方こそ、
気を遣わせてしまって
ごめんなさい。
そんな顔をさせたかった
わけではないのに、
綺麗な顔を歪めてしまった。
僕は何も返せなくて、
再び地面と
にらめっこを始める。
すると、いつの間にか
彼がこの場を去っていた。
どうやら店の中へ
戻っていったようだ。
この間にさっさと
帰ってしまおうか。
そうした方が
どちらにとっても幸いだろう。
しかし、踵を返したとき、
彼に呼び止められて。
僕は驚いて思わず振り返る。
彼はよかった、
とでも言う様に
にっこりと笑みを浮かべ、
僕の所へ駆け寄ってくる。
そして手にしていた
傘をそっと差し出した。
「これ使って。
君、傘は持ってないだろ?
返すのはいつでもいいから。
このまま濡れて帰ると、
風邪引くぞ」
あぁ、また
気を遣わせてしまった。
それに、
バレていたんだな、
恥ずかしい。
でも、心配してもらえて
少し嬉しいや。
それにこれ以上、
彼の好意を
無碍(むげ)にしたくないから、
僕の返事は――
「はい、
ありがとうございます」
ちゃんと笑顔で
答えられただろうか、
彼の笑顔には叶わないけれど、
笑顔には笑顔で応えたい。
傘を受け取り、
彼にきちんと頭を下げる。
「さようなら」
一声かけてから、
傘を開いて帰路に就いた。
僕がこのとき、
雨宿りをさせてもらう、
若しくは、
傘を借りずに帰っていたら、
彼と再び会うことは
なかったのだろう。
きっとこれが
全ての始まりだったんだ、
僕の中で何かが動き始めた。
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