36 一線

 ファランヴェールが部屋からいなくなった後すぐに、フユはヘイゼルのすっかり汚れていた体を洗うことにした。

 素っ裸のまま外を移動していたからだろうか、ヘイゼルの体は土や泥で汚れ、長い髪には草までもが絡まっていたからだ。


 メンテナンス・カプセルに入れば体も髪も洗浄されるのだが、ここまで汚れていては、汚れをすべて取り除くのにはメンテナンス液を何度か入れ替えなければならないだろう。


 しかし、ここにあるフユの部屋にある簡易カプセルでは、そこまでの液量をストックしていない。結果、『原始的な手段』――シャワーで体と髪を洗うのだ。


 これまでヘイゼルは、大した汚れで無くても、フユのコンドミニアムで寝る際にはフユと一緒にシャワーを浴びていた。それはヘイゼルがそれを強く望んでいたからなのだが、しかし今日のヘイゼルは、それを強い口調で拒絶した。


「一人で行ってくる」


 一緒に入るつもりだったフユを置いて、ヘイゼルが体を隠すようにシャワー室へと消えていく。


 結局フユは、ヘイゼルがシャワーから上がるまで、随分と長い間待たされることになった。


 その間、フユはヘイゼルの今後について考える。ファランヴェールにはあのように言ったが、実際上手くいくのか――三か月、いやそれ以上になるはずのヘイゼルの懲罰期間をそもそも短縮できるのか。下手をすれば、ヘイゼルは『返品』になりかねないことをしてしまっているのだから。


 ファランヴェールの『口添え』だけに頼るわけにはいかない。自分の持っている情報――カーミットに教えられたものも含めて――をどう使うか。フユは頭の中で学校との『交渉』の方法を必死でシミュレーションしていた。


 と、パタンという、シャワー室の扉が開く音が聞こえた。それにフユが気づき、シャワー室の方を見る。しかしヘイゼルは一向に姿を現さない。


「ヘイゼル」


 フユが呼びかける。すると暗がりの奥から、「明かりを、消して」というヘイゼルの声が聞こえた。


 ヘイゼルはそれほどに自分の変化を気にしているのだろう。フユは素直に、ルームライトを非常灯に変える。


「全部、消して」


 更なる要求に、フユはルームライトをオフにした。


 ルームライトが消えても、部屋の中には家電製品のパネルや情報端末から洩れる光でぼんやりとした青白い光で満たされている。


 しかしようやく納得したのか、ヘイゼルがシャワー室からおずおずと姿を現した。


 バイオロイド用のスクールウェアのスペアがあったので、フユはそれを用意してあげていたのだが、ヘイゼルは体にバスタオルを巻き付けたままで出てきたようだ。

 

「ウェアを用意しておいたのに」


 フユが少し非難めいた声を上げる。メンテナンスカプセルの中に入っているのでなければ、バイオロイドは正式なウェアを着ていなければならない。ヘイゼルのパーソナルウェア――フユの母親がデザインしたであろう黒いドレスは、管理棟に置いたままなのだ。


「ねえ、フユ」


 だがヘイゼルはフユの言葉に応えず、フユの名前を口にする。その声が少し震えているのを聞いて、フユはそれ以上のことを言うのをやめた。


「なに、ヘイゼル」

「あいつと」


 そこでヘイゼルが言葉を止める。フユはそのままヘイゼルの次の言葉を待った。


 ヘイゼルが近づき、フユの前へとくる。ダークグレーに変わってしまった髪は部屋の光景に黒い影を作り、ライトグレーに染まった肌は、部屋に零れるほのかな光を鈍く反射していた。


「あいつと、何してたの」


 ヘイゼルが、フユを覗き込むようにそう尋ねる。


 一瞬、フユには『あいつ』の指し示す『者』が、バイオロイド管理局の男、カーミットであるように思えた。


「あいつって」

「フユを襲ってた」


 そこでようやく、ファランヴェールのことだと気づく。


「違うよ。あれは、体がぶつかって、一緒に倒れただけで」

「うそ、ボク、見てたし」


 そのヘイゼルの言葉に、フユは思わず言葉に詰まった。


 ヘイゼルは一体いつから部屋にいたのだろう。もしかしたら、ファランヴェールが『スパイ』であるという話も聞かれたのだろうか――しかし、それをどう確かめるべきかが分からない。下手に話を出すよりはと思い、ただそのまま聞き返した。


「何を、見てたの」

「あいつが、フユに、キスしようとしてたの」


 ヘイゼルの語気が少し強まる。しかしフユは少しだけ安堵した。


「だから、違うって」

「いけないんだよね、バイオロイドと人間がそんなことしたら」

「もちろんだよ」


 実際、ファランヴェールはフユに『そう』しようとしていたのだろう。しかしフユの意識は、その是非にはなかった。


 ヘイゼルがもしファランヴェールの『秘密』を聞いていたのなら、真っ先にそれについて追及してくるはずである。そうでなかったことに、フユは安堵したのだ。いや、安堵しすぎたのかもしれない。


 突然、フユの唇が、少しだけ湿り気を帯びたものに塞がれた。

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