35 決意
フユに抱きしめられたからだろうか、ヘイゼルはようやく落ち着きを取り戻し、そして暴れることをやめた。
単に、抱きしめられたという事実がそうさせたのではない。フユの腕から伝わる気持ち――フユが持つヘイゼルへの変わらぬ想いがヘイゼルに伝わったからなのだが、しかしそれは、フユが自分の心の中にあった『ある疑念』を押し殺すのに成功した結果とも言えた。
ヘイゼルに、『パーソナル・インプリンティング』が施されているかもしれないということを聞いて以降、その疑念はフユの心の中で日に日に大きくなっていっている。特に、カーミットとの会話は、その疑念を、もはや疑念ではないレベルにまで押し上げていた。
――DNAに刻まれた『恋慕の情』は、果たして『本物の感情』と言えるのだろうか。
ヘイゼルが自分を慕っている。それがゆえに、ヘイゼルは何度かフユの命を救ってきた。しかし、それがPIの仕業なのだとすれば、もしPIがなければ、ヘイゼルはこれほどまでに自分を慕うだろうか。
しかし今は、そのようなことは胸の奥底にしまっておかなければならない。今は、自分の腕の中で小さく震えている灰髪のバイオロイドの処遇を考えなければならないのだ。
「ヘイゼル、一緒に管理棟へ行こう」
そう切り出したフユの言葉に、ヘイゼルが顔を上げ、顔を激しく左右に振った。
「ボク、懲罰室送りなんでしょ。きっと三か月じゃすまないよ。フユに会えなくなる」
「このまま逃げ回っていても仕方ないだろ。それにエネルギーはどうする。メンテナンスはどうする」
バイオロイドは代謝機能が著しく低いため、定期的にメンテナンスを受けなければ、言葉通り「体が朽ちて」いく。ヘイゼルにしてもこのままメンテナンスを受けずに一週間もすれば、皮膚も内蔵も壊死していき、激痛の中で藻掻き苦む運命が待っているのだ。まさにそれが、バイオロイドたちに着けられた「首輪」と言えた。
フユの指摘に、ヘイゼルは反論できない。己の行為の因果応報ではあるのだが、この期に及んでようやくヘイゼルは、自分の置かれている状況――朽ちてフユに会えなくなるのか、懲罰でフユに会えなくなるのか――を理解した。
理解しても、ヘイゼルにはどうすることもできない。そのまままた、フユの体にしがみつく。
フユは一つ、ヘイゼルの頭をなでると、その耳元に口を寄せた。
「ねえ、ヘイゼル、教えてくれないか。教会の地下で何を見た」
フユの胸に沈めた顔を、ヘイゼルが再び持ち上げる。フユを見る目には戸惑いが浮かんでいた。そのままちらとファランヴェールへ視線を送る。
「大丈夫、かまわない。話してごらん」
フユがそう促す。
「ボクとそっくりなバイオロイドが三体。死んでた」
ヘイゼルが、聞こえないくらい小さな声でそう答えた。
「男の子、だった?」
フユの再度の質問に、ヘイゼルが首を振る。
「じゃあ、もう一つ。ヘイゼルが教会で見たのは」
フユは一旦そこで言葉を切ると、ヘイゼルを置いて立ち上がる。リビングにあった小物入れの引き出しを開け、中から一枚の写真を取り出した。その裏面をヘイゼルに見せる。
「このマークかな」
円を縦に走る三本の曲線が描かれたもの。ヘイゼルはすぐに頷いた。
「ありがとう」
そう言ってヘイゼルを左手で抱きしめる。そのまま持っていた写真をファランヴェールへと差し出した。
「ファルは、見たことある?」
ファランヴェールが、それを覗き込む。
「これは……解放戦線の、シンボル」
思わずファランヴェールがつぶやいたのを聞き、フユが写真を表返す。そこにはフユとその両親が写っていた。
「これは……なぜ」
「分からない。でも、決めた。このマークがなぜこの写真に書かれているのか、僕はその訳を調べる。いつまでも、どこまでも」
フユの両親とヘイゼルにはつながりがあるに違いない。父親がヘイゼルのDNAを、母親がパーソナルウェアをデザインし、ヘイゼルが生まれたのだ――
フユはもう、そう確信していた。そしてもう一つ、父親とバイオロイド解放戦線の関係を追えば、全てが分かるはずだという確信も持つに至っていた。
「何をしてでも」
フユの瞳がファランヴェールを見つめる。
「だから、手伝ってくれるよね、ファル。僕にはファルと、そしてヘイゼルの力が必要なんだ」
意志の強さがはっきりとわかる視線。きっとファランヴェールが何を言っても、フユは聞かないだろう。
ファランヴェールは少し微笑んで、ふっとため息をついた。
「何をすればいいのです」
「とりあえず、ヘイゼルの『罪』を軽くしてくれるよう、理事長に頼んでほしい」
「フユ、それは」
「どんな手を使ってもいい。ヘイゼルの謹慎が一か月ほどで済むようにしてくれるかな」
さすがにそれ以上はどうあっても短くはならないだろう。フユにもそれは分かっている。
ファランヴェールは少し考えた後、ヘイゼルの懲罰の一部をフユが肩代わりするのなら可能かもしれないと答えた。
「そんな、フユは関係ない!」
ヘイゼルが抗議の声を上げたが、フユがそれを制止する。
「僕にも監督責任がある。どのみち『無罪』というわけにはいかないよ、ヘイゼル」
諭すように、フユはヘイゼルに語り掛けた。
元はと言えば、自分が引き起こしたことである。ヘイゼルには、何も言う資格などない。
「怒ってる? フユ」
「怒ってないよ」
すぐに答えたフユに、ヘイゼルはまたしがみついた。
「さあ、管理棟に行こうか」
「いやだ」
「ヘイゼル」
「明日には、管理室に行く。だから今夜だけ。今夜だけ、フユと一緒にいさせて。でなければ、管理室には行かない」
ヘイゼルはフユにしがみついたまま離そうとしない。フユは、少し考え、そしてファランヴェールの方を見た。
「ファル、今日はファルとの訓練は中止にするよ」
「フユ、それは」
「学校も、バイオロイドが長時間脱走できるとは思っていない。学校側でわざわざ探さなくても、バイオロイドには自由はないんだ、いつかは戻ってくると思ってるんだろう。僕にヘイゼルを探して連れ戻すよう言ったのは、それが理由だね。だから、ヘイゼルを連れて行くのは明日にする」
フユは、異を唱える隙を与えてはくれない。ファランヴェールはまた一つ、ため息をついた。
「分かりました。私は管理棟に戻ります」
「ありがとう、ファル」
くれぐれも――一つだけ忠告しようとして、しかしファランヴェールはそうしなかった。きっと、自分がそう言ったところで、忠告を聞くような二人ではないだろう。
――いや、自分の抱いている感情は、『嫉妬』でしかないのだ。
忠告するような資格は自分にはない。そう自らを嘲笑しつつ、ファランヴェールはフユの部屋を後にした。
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