32 マスター
暖房装置が働いているのだろう。床は仄かに暖かく、フユの両手を床へと押さえつけているファランヴェールの手にも、その暖かさが伝わって来る。
こんなことをしてはいけない。頭ではそれがわかっていても、ファランヴェールは自分を止めることができないでいた。
自分の犯してきた行為をフユが見破ってしまったという、言わば追い詰められた後ろめたさ故の行為ではない。クエンレン教導学校が行っている違法すれすれの行為をある程度バイオロイド管理局に伝えることは、クエンレンを守ることにもつながっていたのだ。
管理局はクエンレン教導学校に、PI研究をさせていたともいえる。管理局が把握できる範囲内であれば、見逃してくれていたのだ。
確かに理事長であり、ファランヴェールの恩人でもあるキャノップには黙って行った行為だったが、キャノップはある程度気づいていたようだ。それでもキャノップはファランヴェールのことを信じてくれていた。それがクエンレンのためである、と。
だからファランヴェールには、そのことを今さら恥じることも悔いることも、ない。
今、ファランヴェールを支配している感情は、もっと別のところにあった。
「フユ」
目の前の男の子は、常に灰色の髪をしたバイオロイドのことを考えていた。ファランヴェールと話をしていても、心のどこかに、灰髪のバイオロイドがいるのである。
それがどうしても許せなかった。フユが自分を利用するのは構わない。しかしそれは、あのヘイゼルという名のバイオロイドのため以外なら、という条件付きである。
フユはまさにファランヴェールを、ヘイゼルを呼び寄せるがために、そしてヘイゼルをより深く知るために利用しているのだ。そのためには自分を『ファル』と呼ぶことさえ厭わない。それが我慢ならなかった。
それは人間が『嫉妬』と呼んでいる感情だったのかもしれない。しかし、ファランヴェールにはそれがわからない。ただ己の内より湧き上がってくる得も言われぬ感情が、ファランヴェールの肉体を動かしていた。
「ファル」
フユの口が動く。フユにその名前で呼ばれるたびに、ファランヴェールの魂が喜びに震える。利用されているとわかっているのに、である。そのことが再びファランヴェールを苛んだ。
「ファルは、僕をどうしたいの」
押さえつけられているはずの少年は、しかしその瞳に何ら負の感情を宿してはいなかった。恐れも、惑いも、そして疑念すら抱いてはいない。ただまっすぐにファランヴェールを見つめている。その瞳に、迷いはない。ファランヴェールが自分を傷つけるなどとは微塵も思っていない瞳だった。
「わ、私は……」
「殺すの?」
ありえない。それはあり得ないことだった。しかしファランヴェールにはそれをうまくフユに伝える自信がない。そもそもフユ自身がすでに、その可能性などないと知っているのだから。
「私は、貴方が」
――欲しい。
しかしそれを言ってはいけない。言えば、自分が壊れてしまう。抑えていたものをもう止めることができなくなる。
そんな気がして、ファランヴェールはそれ以上の言葉を飲み込んだ。そしてゆっくりとフユの顔へと自分の顔を近づけていく。
「ファル、それは罪だよ」
もう少しで唇同士が触れ合おうという距離になって、フユがふとつぶやいた。少し冷たい息がファランヴェールの唇にかかる。
その感触に、ファランヴェールの体が小さく震えた。その振動で、ファランヴェールの白く長い髪が、背中から肩越しに、フユの頬へと落ちる。
「貴方が……貴方がその名で呼ぶから、悪いのです」
それでもなお、フユはファランヴェールの瞳をまっすぐに見ていた。逃げる様子も拒絶する様子も全くない。その視線が、ファランヴェールの魂を揺さぶる。もう抑えることはできなかった。
「マスター……」
ファランヴェールが更に顔を近づける。
二つの唇が触れ合おうとした、その瞬間、ファランヴェールは脇腹に衝撃を感じ、壁際へと吹き飛ばされた。
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