28 その感情の名は

 カーミットが地面から、俊敏という形容とは程遠い動作で起き上がる。そして、「いやあ、助かりました」と呟きながら、トレンチコートについた汚れをたった一度だけ叩くと、ぼさぼさの頭を二、三度掻いた。


 そのカーミットの動作は、ファランヴェールの目に入らない。ただ目を見開いて、フユだけを見つめる。


――二人きりの時だけ


 フユはそう言っていた。その『条件付き』であったことが、ファランヴェールを一層寂しくさせていたのだ。


 しかし今、確かに、フユはファランヴェールのことを『ファル』と呼んだ。それともそれは、咄嗟に出てしまったものだろうか。


「僕がその人を呼んだんだ。許可を取らなかったのは僕の落ち度だよ」


 フユも、カーミットには目もくれず、ファランヴェールを見つめている。その瞳がファランヴェールを一層悩ませる。


 抑えられない『気持ち』。それがファランヴェールの心の奥底から湧き上がってくるのだ。

 それはなぜか。実際のところ、ファランヴェールにも分からない。ただ、フユを見るだけで、その気持ち――彼を『欲しい』という気持ちとそこからくる『切なさ』が、その身を蝕んでいく。


 その辛さが、自然とファランヴェールの表情に出てしまう。それをフユは表情も変えずに見つめたまま、ゆっくりと言葉をつづけた。


「それとも、僕を懲罰室に放り込むかい、ファル」


 もはや『咄嗟に』といったものではない。フユは意識して、他の者がいる前で、ファランヴェールをその名前で呼んでいる。


 フユがこの学校に来てから延々とファランヴェールを蝕んでいた『切なさ』がすっと消えていくのを、ファランヴェールは感じた。


 バイオロイドに魂というものがあるのだとすれば、ファランヴェールの魂は今、その喜びに震えている。


 なぜ?

 分からない。


 と、横でカーミットが何かを言おうとする気配を見せた。ファランヴェールは、この瞬間の邪魔ものでしかないカーミットに、これ以上ないくらいの嫌悪感を見せつける。それにはフユが少し驚いたようだった。


「早々に学校から出ていってもらいたい。でなければ、本当に拘束する」


 低く、威圧的な言葉がカーミットに投げかけられる。カーミットは一度だけフユを見たが、その彼もこれ以上は自分を庇うつもりがないらしいことを察し、何かを言おうとしたその言葉を飲み込んだ。


「どうも、失礼しましたな。ではまた、リオンディ君」


 頭を掻きむしりながら、カーミットが踵を返す。その背中に、フユが声を掛けた。


「カーミットさん。貴方が調べているのはパーソナルインプリンティング技術について、ですか」


 その言葉に、カーミットが立ち止まる。


「いや、そんな『ちんけな』ものじゃあ、なくて」


 そう言ってフユに近づくと、ファランヴェールを一瞥した後、フユの耳元に口を寄せた。


「『闇』、ですよ。やつら、繋がってる。君も気を付けた方がいい」


 ほとんど聞き取れないほどの小声。


「繋がってるって、何と何とがですか」


 そう訊き返すフユに、カーミットは口元を歪めるだけで応じた。

 

「怖いお兄さんがいるので、私はさっさと帰ることにしましょう」


 そう言うとカーミットは、もう二度と振り返ることなく、休憩スペースを出て行った。

 後に残されたフユとファランヴェール。先に口を開いたのは、フユだった。


「ごめんなさい、ファル」


 少しだけ上目遣いで、フユがファランヴェールを見上げる。ファランヴェールは湧き上がる欲望を抑えるために、左のこぶしをキュッと握りしめた。


「君は本当にずるい人だ。その名前は二人きりの時だけじゃなかったのかな。それとも、あの男を助けるためなら」

「そうじゃないよ」


 ファランヴェールの言葉が、途中で遮られる。


 なら、なぜ。


 そう訊き返したいのをファランヴェールは我慢した。今は、やるべき責務があるのだ。


「その話はあとで。それよりフユ、情報端末を見ていないのか」


 ファランヴェールの言葉に、フユが小さく「あっ」とつぶやく。


「何かあったの」

「ヘイゼルが、脱走したようだ」


 ファランヴェールの答えに、フユの表情が目に見えて明るくなった。


「目が覚めたんだね」

「確かにそうだが、あれを探さなければ」

「探す必要は無いよ」


 ヘイゼルには今後も試練が待ち受けている。それから逃げるための脱走に違いなく、ヘイゼルは自らの状況を悪い方へ悪い方へと動かし続けているようだ。


 しかしフユは全く焦っていないようだった。


「ヘイゼルが目指す場所はただ一つしかないよ」


 確信に満ちた言葉が、フユの口から出てくる。


「僕の、いるところ」


 その言葉に、ファランヴェールはこれまでとは違う感情が自分を蝕み始めたのを感じた。

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