2 存在の証
ヘイゼル。
まるでフユの発したその言葉に誘われるように――ずっとそうを呼ばれるのを待っていたのだ。
「フユ!」
そう小さく叫ぶと、ヘイゼルが機敏な動きでフユに飛びつく。それを支えることができず、フユはデッキチェアへと倒れ込んだ。乾いた金属音が辺りに響くが、それをヘイゼルが気にする様子はない。ヘイゼルがフユの首に縋りつくと、フユの顔に灰色の長い髪が覆いかぶさる。ヘイゼルの髪は、雨の匂いがした。
「どうしてここに」
フユが、周りを気にしながらヘイゼルにそう尋ねる。ヘイゼルは、一旦フユの首から自分の顔を離すと、今度はそれを、鼻と鼻が触れるくらいにまで近づけた。
「フユに会うため。そんなの、当たり前だよ」
まるでキスしようとでもするかのように。
細い眉の下で、吸い込まれるような漆黒の瞳が、何かを訴えるようにフユをじっと見つめている。それが否応なく、フユに平和な日々を奪ったあの爆破事件を思い起こさせた。
呼吸が荒くなる。フユはヘイゼルの肩を持ち、自分から少し引き離した。黒いドレスの生地は極めて薄く重厚感が全くない。その生地越しに、余分な肉の一切ないヘイゼルの体が手のひらに感じられた。
「その服は?」
「ボクのパーソナルウェア。共同訓練は、スクールウェアかパーソナルウェアのどちらかで参加だからね」
トレーニングルームでは、ヘイゼルは学校規定のトレーニングウェアを着ていた。だから、着替えてきたのだろう。バイオロイドたちが暮らす施設は、この場所とは離れたところにあり、生徒は立ち入り禁止になっている。そこがどういう場所なのかフユには想像できない。できないのだが……今はそれが問題では無かった。
「いや、でも、それは」
フユの視線が、ヘイゼルが身に纏っている黒いドレスをうろうろとする。どうみても、女性型バイオロイド用の服装だった。
視線を感じたとたんに、ヘイゼルはフユから少し体を離す。
「ど、どうかな。似合うかな。今まで、誰にも見せたことなかったんだ。フユに、一番最初に見て欲しくて」
そしてドレスの胸元を押さえながら、照れくさそうに視線を逸らした。
エイダーとなるべく作られたバイオロイドは、誕生と同時に『パーソナルウェア』が与えられる。特殊強化繊維で作られたその服は、耐熱性・耐久性が極めて高いのだが、それはウェアを身に着けるバイオロイドの身を守るためではない。万が一、バイオロイドの身に何かあった時に『そのバイオロイドが誰であったのか』を判別するためのもの――『ドッグタグ』である。
例え業火に焼かれその身がガラス化して砕け散ったとしても、もしくは爆発によってその身が引きちぎられ野を這う獣たちの餌になろうとも、特殊強化繊維で作られたパーソナルウェアだけは、そのバイオロイドがいた証としてそこに残るようにできていた。
つまり、パーソナルウェアとは、そのバイオロイドのアイデンティティとも言える。そしてそれは、バイオロイドの設計・生産を行った者もしくはチームか会社がデザインし、専門の工場が製作するのが一般的だ。
「誰に、作ってもらったの」
フユが、ヘイゼルに尋ねる。その声が少し震えるのを、フユは自分でも感じた。
ヘイゼルが一瞬、戸惑いの表情を浮かべる。
「お、覚えてないよ」
「フォーワルという人?」
「そんなこと、どうだっていいよ。ねえ、フユ、見て。似合ってる?」
ヘイゼルはドレスの裾を両手でつまみ広げると、フユの目の前でくるっと一回転して見せた。灰色の長い髪が、体の回転に遅れてついていく。広がった髪の隙間から覗く星々が、まるでその髪を彩るスパンコールのようだ。フユの位置からは、ヘイゼルが夜空で舞い踊っているように見えた。
その姿から感じるのは、ファランヴェールのような美しさではない。しかし、あのレイリスというバイオロイドが醸し出していた可愛いらしさとも違っている。
ヘイゼルの中性的な容姿と相まって、フユがその姿を言葉で表すとすれば、それは『妖艶』というものだった。
「似合ってる。とても」
フユがそう答えたのは、普段は意識の下に隠れている無意識のなせる業だったのだろう。フユの言葉に、ヘイゼルはまるで花が開いたようにその表情を明るくしたが、それがフユを我に返らせた。すると突然、フユの背筋に、えも言われぬほどの冷たさが走る。
一体なぜ、ヘイゼルを作った者は、本来女性型バイオロイドのものとして好まれる『ドレス』を、男性型であるはずのヘイゼルのパーソナルウェアとして選んだのだろうか、と。
黒いドレス。それがヘイゼルの『ドッグタグ』だった。
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