恋愛の余白

鹿野

第1話

 恋愛の余白


「先輩って、好きな人いるんですか?」


 バチン! とひときわ大きな音が響いた。紙の束をホッチキスで綴じる音だ。紙の束を裏返すと、芯が綺麗に貫通して折り畳まれている。会心の出来だ。分厚い束を綴じる時にはコツがいる。


「ねえ、ちょっと、先輩ってば」

「口より手を動かしたまえよ、君は」


 私の目の前には紙の束がうずたかく積まれ、向かいに座った後輩の胸の半ば辺りまでを隠していた。長机を2つ、長い辺同士くっつけたところにできた少しの段差で、紙の束の下の方が折れ曲がっている。それだけ紙の束が重いのだった。溜め息が出そうである。後ろを振り向くと橙の色を強くした日差しが差し込んでいて、もうすぐ日が暮れるだろうということがわかった。果たして作業は今日中に終わるのだろうか。


「ねえ、先輩ってばあ。ちょっとくらい、いいじゃないですか。お話しましょうよう」

「……」

「そういえば先輩、この部室も狭くなってきましたねぇ」

「……」

「今までの文芸誌、配りきれなかったぶんまで残すから嵩張って……文化祭終わったら、やることないですし、処分しちゃいますかあ?」

「……うん」

「今日は金曜日だからシオミくんもタオさんもロクジョーくんもいませんけどぉ……都合が合えば、呼んだ方が早く済んじゃいますね。3人とも、なんで文芸部なんか来たんでしょうねえ、出席義務が無いからでしょうけど。運動部でもおかしくないくらい力持ちで……」

「あー、もう、わかった! 分かったから! 付き合えばいいんだろう、君に!」


 苛立ち紛れに喚くと、後輩は蝉みたいにまくし立てるのをすっかりやめて、それからにんまり笑った。刷り上がった原稿を一組に纏めて折り畳む手は止めないでいるから、強く文句は言えない。かっとして思わず浮かしかけていた腰をそっと落とすと、尻の下でパイプ椅子が軋む。先輩は優しいですねと嘯くそいつになんだか無性に腹が立った。


「……それで、何だったかな」

「もう、しらばっくれないでくださいよぉ。好きな人っているんですかって聞いたでしょ。恋バナってやつですよ」

「ああ……君にお似合いの話題だ」

「頭が緩そうってことですか? あはは、照れるなあ」

「褒めてはいないんだよ、オガタくん」


 作業をしている最中でさえなければ、オガタは肩を竦めて頭を掻いたのに違いなかった。オガタはそういう、漫画的な感情表現が異様に似合う奴なのである。想像するだけでうんざりした気持ちになって、力任せに紙束を綴じた。ばちん。


「小説のネタを仕入れようったって、そうはいかないよ」

「ネタだなんて。真面目に聞いてるんですよぉ、これでも」

「真面目に聞いてたって、面白がるだけじゃないか、君は……」

「そんなことないですよ。参考にするだけですってばあ」

「何の参考だね」

「好きな人、で悪ければ、好きなタイプでもいいんですよ」

「諦めないな、君」


 私は今度こそ溜め息を着いた。はあ。執拗い後輩である。差し込む真っ赤な夕陽に、オガタは目を細めていた。部室の扉側に座ったオガタには窓から入る日差しが直接当たるので、しきりに眩しいですねえと眼を擦っている。いい気味だ、と少し溜飲を下げる。


「……君になら、教えてもいいかもな」

「おっ、その気になりました?」

「ここで渋っても、どうせしつこくされるだろうからね。ま、私のことだとわからないようにしてくれるんであれば、笑うなり話のタネにするなり、好きにしたまえよ」

「わあ、優しい」

「私とて、君の書く恋愛小説はこう、繊細で、自分も恋をしている気持ちになれて、そういうところが気に入っているからね。新しい話が読めるのであれば、まあネタになってやるのも、吝かではないよ」

「照れるなあ」

「ただ……どうだろう、君の望むような答えはあげられないかもしれないな」

「ほう、その心は?」

「単純なことさ。私は生まれてこの方18年、ひとに恋をしたことが一度もないのだ」


 ……ばちん。紙を綴じる音が大きく響いた。さっきまで頻りに鳴っていた紙の擦れる音がしない。オガタは絶句しているようだった。この反応がどういう気持ちによるものなのかはちょっと分からない。私は手元から顔を上げもしなかったし、何よりこういった話をするのは初めての事だったので、判別をつけるための十分なデータを持っていなかった。


「続けてください」

「……どこから話したものかな。ああ、いや、はぐらかそうと言うのでは全くないよ、そこは安心してくれたまえ。それくらい根深い話だということで……そうだな、これは私がほんの小さな子供だった頃にまで遡る話なのだ」

「小さい頃の先輩ですか。可愛かったでしょうね」

「子供は概ね可愛らしいものだよ。自制心と道徳心に欠けるところは、ちょっといただけないが」

「と言うと?」

「ほら、君も知っているんじゃないか?有名な……『可愛い子ほど虐めたい』と言うやつさ。髪を引っ張ったり、スカートを捲ったり、気になる子についついやっちゃうって子、いるだろう」


 オガタはなるほどという顔をした。意地悪されたことがあるのだろうか。オガタはどちらかと言うと、意地悪する側のような気もするが。それで、と続きを促す声に被さるように、そう遠くはないどこかで筒を吹くような甲高い音が響いた。吹奏楽部だろう、今日は一段と演奏に力が入っている。


「それで……そういうのが、私にはずっとわからなくてね。なんて言うのかな、他の子にはしないことを、ある子にはついやっちゃうっていうの……好きにも種類があるってこと。特別な『好き』ってやつ。……うーん、上手く言えないな」

「恋って、そういうものじゃないですか? ありふれてるくせに言語化できないって言うかぁ……」

「そう、私が分からないのはまさにそこなんだよ」

「はい?」

「なんていうかな……皆、自然と『普通の好き』と『恋』に区別をつけられるんだ。言葉にできないあやふやな違いがわかる……生物として当たり前に、異性とつがうために生まれつき備わった機構なのかな、そうだとしたら実によくできていると思うよ」

「本能ってやつなんですかねえ。でもそういう人ばっかりじゃないと思いますよ。ていうか、社会の中で育つ間に恋とか愛とかそういったものを獲得するってパターンの方が多いんじゃないですかぁ?」


 赤ちゃんには快・不快の感情しかないって習ったような気がしますし。オガタは怪訝そうな顔をした。部室は既に薄暗くなりつつあったけれど、オガタと私の間にあった紙束の山は切り崩されて、随分数を減らしている。電気をつけようか少し迷って、陽が完全に落ちるまでには終わっているだろうし、と思ってやめた。早く作業を終わらせてしまわなければ。右手を機械的に押し込む。ばちん。


「私もそう思っていたんだよ。小さい頃はね。今は私の情緒が未発達なだけで、いずれ『好き』と『恋』の違いが分かるようになるんだと信じていたんだ。……だけどそうはならなかった。異性のかおかたちを美しいと感じることはあったし、性格を好ましいと感じることもあったよ。でも特別好きだとは思わなかったし、胸の高鳴りを感じたことは無かった」

「恋には高揚感が付き物、ですからねえ。……先輩は、自分が相手を好きなように相手にも自分を好きになって欲しいとか、一緒にいたいとか、そういう欲求を感じたことがなかった」

「うーん……ちょっと違うかな。好きな人、というのはいたんだよ。そういう人には私のことを好きになって欲しかったし、一緒にいたいとも思った。でもそれが友情故か恋情故か区別を付けることができなかった、というだけのことさ。しかもそこには、年上だとか年下だとか同性だとか異性だとか、そんな属性は何ら関係ないんだ」


 一息に言ってしまうと、胸のつかえが取れた気がした。家族にも友人にも晒したことの無い部分だったのだ。失恋は人を大人にすると言う。恋破れるどころか恋をしたことも無い私は、随分未熟で恥ずかしい、つまらない子供なのだと思っていた。だから誰にも言ったことは無かったけれど​──オガタになら、まあ、言ってもいいかな、という気持ちになるのだから、不思議な事だった。そう深刻にならずに話を聞いてくれるひとだからかもしれない。ちゃらんぽらんなだけだとも言えるのだけれど。


「情緒の未発達が原因ではなかったんだ。単に私がそういう……他者に大きく期待しないタイプの人間だった、というだけでね。だから今は、ちょっとだけ違うふうに考えることにしているんだ。」

「と、言うと?」

「君も言っていたが……『恋』をすると、相手にも好かれたいと思うし、相手と一緒にいたいと思うもの、なんだろう? そうすると、付き合ったり、結婚したりして、ひとつ屋根の下で四六時中顔をつきあわせることになるだろうね」

「まあ、究極そうなるでしょうね。恙無く交際に至り関係が進展したとあれば、ですけどぉ」

「うん、それが自然な形だろう。『恋』といえば綺麗だが、突き詰めてしまえばこれも生殖行動の一種だからね。つがい、共に暮らし、子を産み、育てる。ごく自然な事だ」

「身も蓋もないことを言いますねえ。現実的ですけどぉ……」

「無論、『恋』にも純粋で綺麗で、きらきらした部分はあるのだと思っているよ。恋をしているひとは輝いて見えると言うしね。人をより魅力的にするものが繁殖の足掛かりでしかないというのは美しくない」

「……そしてロマンチストでもある」

「ふふ、知らなかったのか? ……ああ、話が随分逸れたね。……だから、この場合『恋』した結果共に暮らすようになる、ということが重要なのだ。一緒にいる時間が増える……そうすると必然、秘密という秘密は暴かれることになるだろう。それはささやかな気配りの上手さかもしれないし、もしかしたら食べ方が汚いという欠点であるかもしれない」


 私はオガタについて、私より1つ年下であることと、享楽的であることと、書く文が驚くほど繊細でうつくしいことしか知らない。放課後の数時間しか会わない人間だからだ。同様に、オガタも私のことは数える程しか知らないのである。例えば、私が短編小説を好んで読むことは知っているはずだが、先日の数学の模試で25点しか取れなかったことは知らないだろう。まあ、その、なんだ。誰にでも秘密はあるということだ。


「……私はね。隠していることを全部知られても構わないと思うこと。それこそが私にとっての『恋』なのかもしれないな、と思うことにしたんだよ」

「まあ、一理ありますね。自分のことを知ってもらいたいというのも、恋には付き物の欲求ですし? 『知って欲しい』じゃなくて『知られても構わない』だから、消極的な感じは否めませんけどぉ」

「うん。まあ、恋とか愛とかを抜きにしたって、全部知られてもいいと思うか、知られたくないと思うかは大事な判断基準だと思うのだよ。仮にも共に暮らし、添い遂げる相手を探そうと言うのだからね。だから、そうだな。君の問いに合わせた答えを出すなら、私の好みのタイプは『この人になら全部見られても構わないと思わせてくれる人』ということになるね」

「それで、そういう相手は見つかったんですかあ?」

「まさか」


 そういう人に未だ出会えていないから、恋をしたことは無いと言ったのだ。もしかしたら一生、そういう人には出会えないのかもしれないな、とも思っている。何、気にしやしない。現代社会というのは、存外一人でも生きていける世の中だそうだから。


「さて、随分暗くなってしまったね。手元が見えないよ」

「あはは、廊下の電気はもうついちゃってますね」

「残りは二十部くらいかな? うん、これくらいなら、当日綴じたので問題なかろうね。どうせ見物客などそう来ない」

「また、身も蓋もないことを……」


 オガタは丁度頁を確認し終わった束をとんとんと机に落として揃えると、それを脇に避けて、重石代わりにペン立てを上に置いた。そのままギッと音を立てて立ち上がって机の上に放られていた部室の鍵を手に取ったので、私も鞄を持って立ち上がる。


「ああ……そうだ。帰る前に、私も聞いていいかい?」

「はい? なんでしょう」

「オガタくん、君の好きなタイプってどんなのなんだ? 一応、後学のために聞かせてくれたまえよ」


 オガタは面食らった様子でこちらを振り向いたが、瞬きのうちにあのにんまり顔になって、得意げにふふんと笑った。星がきらきら輝くような、花がひらくような微笑み。


「優しい人は、好きですよ」


 今度は私が面食らう番だった。なんだその、ありきたりでつまらん、十人並の答えは。私もそんな感じで、適当に煙に巻いてやればよかった。悔しさと気恥しさがじわじわ這い上ってくる。​──でも。


「どうしたんですか、先輩! 鍵閉めちゃいますよぉ!」

「何、ちょっと待て、今出るから!」


 でもまあ、悪い気持ちでもないな、と思ったことは、まだ内緒だ。

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恋愛の余白 鹿野 @kano2122

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