第3話

 一ヶ月近くして、アンナの法廷侮辱罪については不起訴処分となった。留置場を出たときは雪がちらついていた。


 事件はもうすでに無罪が確定して決着がついている。検察側は敗訴したら上訴できない。司法はアンナを傷つけた連中に罪を償わせる機会を永遠に失った。


 三人のにやけた顔が脳裏を離れなかった。忘れようとすると、どの記憶を忘れたいか指定する作業が入るのだから、強制的に思い出してしまう。何度もそうしているうちに脳髄にこびりついて固定化されてしまった。寝ても覚めても、食事中も、にやけ面が休むことなくアンナを苛んだ。有罪判決さえ下っていればひと区切りがついたはずだった。事件と折り合いをつけて一歩ずつでも前進できるようになっていたかもしれない。だがやつらは無罪放免され、法的にはアンナを半殺しにした真犯人は不明のままで片付けられている。区切りのつけようがなかった。折り合いのつけようがなかった。これでは前に進む決意など固めようがなかった。


 区切りをつけるには、折り合いをつけるには、自分の手で方をつけるしかない。にやけ面をやつらの死に顔で上書きすることでしか、アンナは事件から解放されないのだ。


 最初に目に入った銃砲店に入った。釣り具のようにさまざまな銃器が陳列されていた。


「あたしでも使えるやつがほしい」


「なら拳銃だね。この書類に氏名と住所、電話番号、それに社会保障番号を書いて。登録がすんだら連絡する。だいたい一ヶ月くらいを見ておいてくれ」


 アンナはあっけにとられた。


「社会保障番号だって? しかも、一ヶ月待てって?」


「規則だからね」


「そんな番号もってるわけないだろ。金と銃を交換してくれりゃそれでいいんだよ!」


「警察を呼ぶぞ」


 アンナは店主に中指を立てて店を出た。


 しばらくも歩かないうちに、声をかけられた。背の高い白人だった。ハンツヴィルの男たちと同じ目をしていた。


「見てたぜ。売ってくれなかったんだろ」


 胡乱だと思っているのを隠さずにアンナは「それが?」と訊き返した。


「訊くが、ニガーを殺すための銃か?」


「なんだって?」


「隠さなくったっていい。クソみたいなきれいごとはなしだぜ。おれもあいつらには脳みそがボイルになっちまいそうなくらい頭にきてる。見たかよ、こないだのメキシコシティーオリンピックの、トミー・スミスとジョン・カーロスを……まさに“より忌々しく、より汚く、より醜く”だぜ。ニガーどもはますます調子づいてきてやがるってわけだ。あんたも街にはびこるスイカとチキンを貪るのがお似合いな黒ナス連中に、アメリカの正義ってもんを教えてやりたいんだろ? あのいかれたジェームズ・アール・レイみたいによ」


 黒人たちが権利を主張しはじめていた。保守的な白人たちは脅威に感じていた。だから白人たちはかえってこれまで以上に黒人への弾圧を強め、黒人をことさらに人間とは認めようとしない姿勢を強めていた――今までどおり差別させろと。


 だが、アンナにはどうでもよかった。マルコムXもキング牧師も、KKKも。銃が手に入るならどうだってよかったのだ。


「ああ、そうさ」アンナはなるべく相手が喜びそうな言葉を連想した。口でのサービスはお手の物というわけだった。「ニガーを殺す銃を探してるんだ。あの真っ黒な頭を連中の好きなスイカみたいに吹っ飛ばして、かわいそうなお仲間と一緒にあの世へひとっ飛びさせてくれる銃をね。売ってくれるのかい」


「そうこなくっちゃあな」


 男は自宅へ招いた。汚い部屋だった。黒い民族衣装のようなものが壁にかけられていた。頭衣には白抜きのスカルマークがあった。


「おれの親父は、ブラックレギオンだったのさ」


 自慢そうに語った男は、部屋の奥から精肉を包装するようなワックスペーパーにくるんだ、持ち重りのする包みを持ってきた。受け取ろうとすると引っ込められた。


「八〇ドルだ」


「使い方も教えてくれるかい?」


「いいぜ。弾もつけといてやる」


 包みを開くと、銀の回転式拳銃が姿を現した。銃身が円筒ではなく六角形になっていた。なにより全長が六インチあるかないかというおもちゃのような小ささだった。隠し持つにはもってこいだ。


「アイヴァー・ジョンソンM1900だ。サーハン・サーハンがロバート・ケネディを殺ったのもこのメーカーの銃なんだぜ」


 男はアンナに小さな凶器を握らせた。壁に向けて構える。腕を伸ばすと意外に重くなる。


「死んでもいいやつ以外には絶対に銃口を向けるな。五発しか装填できないが、なに、最初の一発か二発でけりがつかなけりゃ一巻の終わりなんだから問題ない。だが撃ち尽くしたら、ここから銃を下に向けて折る。勢いよくだ。そしたらシリンダーに入ってる殻薬莢が勝手に飛び出す。そして新しい弾を込める。忘れるな! この国では年間三万人が銃で死んでるが、そのうち撃たれて死んだのはほんの一握りだ。たいていはホルスターに戻すときに暴発しててめえを撃ってる。拳銃はしまうときがいちばん危険なんだ――」


 アンナは銃をズボンのウエストにねじこんで外へ出た。すれ違う人々がみなアンナが銃を隠し持っていることを知っているように思えた。アンナは虚勢を張るためにわざと蓮っ葉に歩いた。そのうち気にならなくなった。


 アンナはパーク近辺で年配の男に絞って売春した。終わって後始末をしているとき、世間話のように「ここいらで、レイプをでっちあげて脅迫しようとしたばかな女がいたそうじゃないか。おかげでこっちまで商売がやりにくくなったよ」といえば、「ああ、子供たちを捕まえてレイプ犯に仕立てようとしたんだからな。あこぎな淫売さ。子供たちの一人の父親とは幼馴染でね。この近くさ」「へえ、どこ? ここから見える?」「グリーン・ウッド・アヴェニューとスコット・アヴェニューが交差する角の家さ。……やつとやるのはかんべんしてくれよ。穴兄弟になっちまう」という調子だ。


 家を監視した。雪が積もったある夜、少年が一人出ていった。あとを尾けた。フォレストウェイ・ドライヴ沿いに歩き、隣町のノースフィールドへ続くタワー・ロードと交差する、スコーキーラグーンズという自然公園へ行きついた。ほかの二人はすでにいた。勢ぞろいしたというわけだ。草地にはテントが設営されていた。


 音のない夜だった。テントに入った三人の話す声も難なく聞き取れた。「やっぱり、ナタリー・ウッドのおっぱいは最高だよな」「まったくだよ。こないだ、シカゴのカスケード・ドライヴ=インで『草原の輝き』がかかってたんだけど、服の下のおっぱいばかり想像して、たいへんだったよ。〈プレイボーイ〉はおれの世界を変えてくれたんだ」「そのとおり。〈プレイボーイ〉は特別な雑誌なのさ。〈フェイマスモンスター〉がいくら面白くても、おっぱいは見られないからな」「あさってだったか? おまえんちのパリ旅行?」「ああ。つぎにおまえらと会えるのは来年だな」……血気と若さにあふれた、気の置けない友だちとの時間をなにより大切にする、普遍的な少年たちの姿がそこにあった。アンナのことなどとっくに忘れているようだった。だから思い出させることにした。


 テントのファスナーをだしぬけに下ろして、顔を突っこんだ。こもっていた少年たちの体臭。そのなかで三人が驚いた顔を並べていた。


「よう、クソガキども」


 笑ってみせると、ようやく一人がアンナであることを認めて落ち着きを取り戻した。「なんだよ、クソ淫売じゃねえか。おれたちのちんぽの味が忘れられなかったのか?」


 それが彼の遺言になった。アンナは「いいや、顔を忘れに来たんだ」といってから、一転して無表情になって、拳銃を向けた。少年の笑みが凍り付いた。アンナは引き金を引いた。耳をつんざくような破裂音がして、少年の鼻っ面から血飛沫が散った。アンナの顔にも熱い返り血が飛んだ。足を投げ出した少年は滝のような鼻血を流していた。目にはすでに光がなかった。


 残りの二人は、発砲の大音響に恐慌状態となって逃げようとしたが、唯一の出入り口にはアンナがいた。彼らは復讐者に背を向けてテントを破ろうと必死に試みた。アンナはその一人の背中に向けて撃った。彼は力が抜けたように動かなくなった。息はあった。ひとまず置いておいて、最後の一人は後頭部を狙った。たった六フィートもない距離だったが、.38口径の弾頭は少年の頭の右を通過してテントの布地に穴を開けた。弾を当てるのはこんなに難しいのか、と思いながら、撃鉄を起こしてしっかりと狙いを定めた。


 逃げられないと悟った少年がきびすを返し、中腰で突進してきた。銃を奪おうとした。だが撃鉄を起こされた銃の引き金はおどろくほど軽い。銃声が響いた。アンナから手を離して、自分の喉を押さえる少年の指のあいだから、みみずのように血が這い出ていた。その頭に銃口を押し当ててとどめを刺した。


 事切れていない少年にも完全な死が必要だった。だが引き金を引いても撃鉄の落ちるカチリという虚しい音がするだけで、弾は出なかった。アンナは教えられたことを懸命に思い出しながら銃を下へ折った。連発したせいで銃身もシリンダーも熱を持っていた。薬莢が薬室から吐かれなかった。戸惑い、銃を上へ傾けると、折れていたフレームが元通りに接合されてしまった。


 そうしてまごつきながらも、なんとか使用済みの薬莢をまき散らすように捨て、焦りから震える手で新しい弾薬を一発だけ込めた。


「助けて。救急車を呼んで……」息も絶え絶えに生き残りがいった。「なんでおれがこんな目に」


「あたしをレイプして殺そうとしたくせに、なにいってんだい」


「だって、抵抗したじゃないか」少年は泣いているようだった。「抵抗せずにおとなしくやらせてくれていたら、おれたちだってあんなことしなかった」


 アンナは少年の後頭部に銃口を押しつけた。うつぶせに倒れている少年に、いまからおまえを殺すというメッセージを明確に伝える必要があった。「やめろ!」彼はその短い言葉を言いきることができなかった。声は銃声がかき消し、命は銃弾がかき消した。


 三つの死体が転がるテントで、アンナは力なく座り込んだ。ついで銃を投げ捨てた。鼻腔をえぐるような硝煙の刺激臭と、むせ返る血の臭いに、いまさら気づいた。〈タレイトン〉を立て続けに三本吸った。いますぐにこの場を去らなければならないことは理解していた。だが、達成感と疲労感の両方がアンナの身体を奪い合っていて、なにかきっかけがないかぎりは、しばらくは動く気にもなれなかった。


 きっかけはもたらされた。一台の車が草地の近くで停まった。下りてきた男がテントに向かってまっすぐ歩いてきた。男は親しげに声をかけてきた。「シャヴィー、ママがおまえのパスポートが見当たらないっていってるぞ。いったん父さんと一緒に戻りなさい」男は懐中電灯とともにテントのそばまできた。「シャヴィエル。どうせまだ寝てないんだろう?」


 アンナは銃をひっつかんで飛び出した。そのまま男を横目に走った。「おい!」懐中電灯の光が追ってきたが、すぐに光はテントへ向けられ、アンナは闇に埋没した。


 直後、神の名を叫ぶ声が、夜の潟湖せきこと草原を駆け抜けていった。


 すぐに警察が追ってくるのは確実だった。キーの差さっている車はないか探した。


 家々は煌びやかなイルミネーションをまとい、庭先にクリスマスツリーを飾っている家もあった。アンナはようやく、あしたが二十四日であることを思い出した。


 ウィネトカの住宅街は、多くの家がクリスマス休暇で旅行をしているらしく、防犯のためタイマーで照明がオンになっているだけで、人の気配がなかった。


 だが、窓に人影のある家が一軒だけあった。クリスマスの飾りのない家だった。

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