第2話

 年明けに北ベトナム人民軍が無敵のはずのアメリカ軍を打ち負かし、四月にキング牧師が凶弾に倒れたかと思うと、六月にはロバート・ケネディも兄と同じ運命をたどった一九六八年のその日、アンナはイリノイ州ウィネトカに流れ着いていた。せせこましく家が寄り集まっている町だった。十月も中旬に差しかかり、ミシガン湖周辺にも秋が忍び寄っていた。何日か前の客のせいで肛門に鈍痛がまだ残っていたアンナは、ニック・コーウィン・パークの木立の影を寝床に選んだ。まちがいだった。突如現れた三人の少年たちにアンナは取り囲まれ、レイプされた。アンナは激しく抵抗した。なぜなら、アンナの肉体はアンナの自由意思によって責め苦を受けねばならないのであって、不本意な強姦は、肉体を貫通してアンナ本人をもまとめて破壊するからだった。


 サイレンよりも高く叫んで両腕を振り回した。つぎの瞬間、頭部にすさまじい衝撃が走った。世界が激しく揺れた。立っていられなかった。ビールびんで頭を殴られたとわかったのは、星のまたたく夜空を背景に、少年の一人がびんを持った手を振り下ろそうとしているのが見えたからだった。少年は何度もびんをアンナの顔に叩きつけた。そのたびにアンナの手足は別の生き物のように跳ねた。そのさまがおかしかったのか、少年らの笑い声が聞こえた。


 腕で頭をかばい、仰向けの状態からうつ伏せになって這おうとした。後ろ髪を掴まれた。アスファルトが遠ざかり、直後に一瞬で目の前に迫ってきて、視界は白く染まった。アンナは気絶したのだ。次に目が覚めたときには、病院のベッドの上だった。


 看護婦に呼ばれた黒人の刑事が、フランケンシュタインの怪物さながらに管につながれ包帯だらけで寝かされているアンナを訪ねた。刑事はウェイントラウブ警部と名乗った。


「犯人どもはきっと捕まるだろう」


 ほかに何を言われたかアンナは覚えていない。だがシドニー・ポワチエの時計を二十年くらい進めたような老刑事は、アンナをことさらに蔑むでもなく、被害者として丁重に取り扱った。アンナは、信じてみようと思った。


 歩ける程度には回復したころ、ウェイントラウブから犯人グループと思しき三人を拘引したので面通しをしてほしい旨の連絡があった。警察署でマジックミラー越しに揃いのオレンジのジャンプスーツを着せられた十五人の男たちと向かい合った。アンナは彼らのなかから難なく三人を見つけた。それは警察側が犯人と目していた三人とぴったり合致していたので即座に送検された。


 裁判の前日、アンナを弁護士が訪問した。退院したアンナは近辺でいちばん安いモーテルに泊まっていた。既製品ではないスーツに身を固めた弁護士は、場違いもはなはだしかった。


「証言の辞退を考えていただきたいのです」


 開口一番がそれだった。アンナは証人として出廷する予定だった。


「頭蓋骨にクソが詰まってんのかい?」


「わたしは起訴された少年の一人のご両親に弁護を依頼されました。依頼人は証言を辞退していただければあなたにお詫びもかねて一〇〇〇ドルを支払う用意があると」弁護士は厚みのある封筒を南北戦争の時代に作られたかのような古びたナイトテーブルに置いた。「悪い話ではないでしょう」


「こっちは頼んでもいない救急車を呼ばれて、病院に入れられて、しめて九五〇〇ドルの請求書がきてるんだけどね。あんたのくそったれ依頼人のくそったれなどら息子のおかげでね!」


「あなたが証言したとしても、わたしは無罪を勝ち取れます。それがわたしの仕事だからです。口をつぐんだだけであなたは一〇〇〇ドルが手に入る。出廷すれば、カネはもらえず、九五〇〇ドルを全額自力で返済することになり、それでいて裁判にも勝てない。利口な選択をしてください」


「帰っとくれ」〈タレイトン〉の煙草を指に挟んでいた手が震えた。「帰っとくれ!」


 翌日。公判の冒頭陳述で、被告人の三人はいずれもアンナのほうから誘ってきた、だが終わり際にいきなり叫ばれて、わなに嵌められたと思ってとっさに逃げただけだと無罪を主張した。アンナは激昂した。


「なにいってんだ、よくもそんなぬけぬけと……」


「静粛に。証人は求められたときだけ発言してください」


 判事にたしなめられても、アンナの怒りは容易にはおさまりそうになかった。裁判は波乱の幕開けとなった。


 検察立証でアンナは予定通り証言台に立った。


「あなたを襲った犯人はこの場にいますか?」


「ああ」


「その犯人を指さしてください」


 アンナはふんぞり返る三人に人差し指を順番に突きつけた。


「本事件のあった十月三日の午後十一時十二分、警察に事件現場の近隣住民から通報が入っています」クック郡の地方検事が犯罪立証を行なった。「女性が血を流して倒れていると。通報者は日課にしている犬の散歩中でした。被害者はアンナ・ポペスキュー。対応に当たった警官が救急車を手配し、彼女はアドヴォケイト・スーザラン総合病院へ緊急搬送されました。被害者の膣内および直腸内からは三つの異なる血液型の精液が検出されました。血液型は被告人三人と一致します」


 検事は判事に鑑定書を渡した。


「身寄りのない無抵抗な女性を狙った卑劣な犯罪です。どうか厳正なる判決を」検事が陪審員たちに訴えかけてしめくくった。真摯な表情で頷いた陪審員も何人かいた。


 被告反対尋問では、被告人の弁護士――アンナに証言の辞退を求めた男だ――が、きのうのことなどなかったかのような何食わぬ顔でアンナに質問した。


「あなたのご職業は?」


「異議あり」検事が声を上げた。「本件とは関係のない質問です」


 申し立てを受けた判事が老眼鏡から弁護士を覗き込んで意図をはかった。


「本件と深く関わる質問です」弁護士は余裕のある立ち振る舞いを崩さず法廷全体に語りかけた。「なぜなら、彼女の答えですべてが明らかになるのです――レイプなど最初からなかった。悪意あるでっちあげだと」


 アンナはたちまち沸騰した。「なにいってんだ、この糞野郎……」


「静粛に。法廷侮辱罪で退廷を命じますよ」


 警告した判事は弁護士に続きを促した。


「彼女の職業こそが、本件の鍵を握っているのです」


 判事は弁護士からアンナに視線を移した。「証人は弁護人の質問に答えてください」


「娼婦だよ」アンナはへの字口で答えた。「流れのね」


 陪審員席の空気が変わった。


「なんだい、娼婦ならレイプされてもしょうがないってのかい!」


「警告は三度目です。次はないですよ」判事がガベルを叩いた。


「あなたはこのイリノイ州で娼婦として仕事をしたことが?」


 弁護士が目元に嘲笑を滲ませた。証言台をつかんで身を乗り出しているアンナは奥歯を嚙み砕きそうになっていた。


「したよ。それが?」


「回数は?」


「なんだって?」


「何人の客に買われましたか?」


「異議あり――」焦燥を募らせた検事が立ち上がった。「悪意のある印象操作です」


 判事も認めた。「弁護人は必要な質問のみをするように」


 だが、アンナに対する陪審員たちの心証を悪化させる弁護士の戦略はすでに達成されていた。それに――弁護士にはまだ手札があった。


 再尋問では、検事が再びアンナに質問した――経済的事情からやむをえず娼婦をしていること、州法を犯していないこと、あくまでも被告人三人にレイプされた事実には変わりないこと、といった回答を引き出し、アンナのイメージ回復を図った。だが、陪審員たちの同情を引こうとして、アンナが娼婦にならなければならなかった理由まで訊いたのは、失敗だった。アンナは正直に答えた。つまり自らへの復讐だと断言した。淫売の娘として生まれた自分を罰するために娼婦へ身を堕としたのだと。煙草一本と引き換えに性交したときには胸がすくようだったとも訴えた。検事の「しくじった」という顔は見ていなかったが、陪審員たちのアンナを見る目が急速に冷めていったのはわかった。彼らの顔はこう語っていた――この女のいうことは支離滅裂で信用できない。アンナはもどかしかった。どうしてわかってくれない?


 アンナをよそに判事が被告人一人ずつに棄却請求をするかどうか訊ねる。三人ともにやにやしながら請求すると答えた。判事が努めて事務的にアンナに棄却するか否かを訊く。アンナは感情的になる。「するわけないだろ! あたしは被害者なんだ!」


 裁判は次のステップに移った。被告立証だ。被告人の弁護士はジャケットを整えて、


「本日は、被害者――と呼ぶのが正しいかもわかりませんが――を買ったことのある人間に証人として来ていただいています。彼女の素顔を知る重要な判断材料となります」


 この場に呼んでもよろしいですか、と判事に許可を求めた。


 判事は許可した。


 証言台に立った男には確かに見覚えがあった。頭は禿げているがひげが濃いその白人男は、聖書に手を置いて宣誓したのち、弁護士の質問を受けた。


「あなたは最近、娼婦を買ったことがありますか?」


「異議あり。弁護人は本件とは関係のない質問を繰り返しています」検事の声は心なしか自信に欠けていた。


「だいじなことです」弁護士は自信にあふれていた。「われわれは無実の人間たちを犯罪者として裁こうとしているのかもしれないのです」


 判事は弁護士に頷いた。「質問を続けて」


 満足そうな笑みで弁護士は先の質問を繰り返した。


 男は答えた。「ええ、一度」


「買うときに、お互い交渉すると思います。内容や金額なんかを」


「そうですね、しました」


「具体的にどういった交渉を?」


「彼女は」男はあごをなで、ねっとりとからみつくような視線をアンナに向けた。「まずわたしに、なんでもいいからやりたいことを言ってくれと。そこから、できるできないを交渉したいと」


「あなたはなんと?」


「ほんとになんでもいいのかよって思って、へへ――だめもとで、尻を使いたいっていったんだ」


「すると彼女はなんと答えたのですか?」


「いいよって。本当かよって訊きなおしたくらいでさ」


「それで、実際に彼女の“お尻”は使ったのですか?」


「ああ、もうばっちり。彼女、おれが突っ込んでるあいだ、めちゃくちゃ喜んでたぜ。相当な好き物だと思ったね」


 陪審員席から嘆きのため息が盛大に漏れた。十字を切る敬虔な者もいた。判事がガベルを叩いて注意した。


 一方でアンナははらわたが煮えくり返りそうになっていた。自分の身体にひどいことをすれば復讐心が満たされる。肛門を使わせるのもその一環だった。「喜んでた」のは、尻までもが犯されて、その苦痛と屈辱もあいまって、自分がとことんまで堕ちたことが実感できたからだ。気持ちよかったからではない。それでは罰にならないのだ。


「それだけですか?」


「いいや。終わったあと、おれのを口できれいにしてくれたぜ。てめえのクソがついた、おれのナニをよ」


 ついに陪審員らの数人が口を押さえて退廷した。


 休廷を挟んで裁判が再開されたが、依然として場は弁護士の支配下にあった。


「ミス・ポペスキューは、客が望めば肛門を使わせ、口淫もする娼婦でした。そんな彼女の膣内は言うに及ばず、直腸から精液が検出されても」弁護士は大げさに肩をすくめてみせた。「なんの不思議もありません。彼女はただ仕事をしただけだったのです。そしてコトが終わったあと、被告人らとその親を脅すためにレイプ被害をでっちあげた」


「異議あり。それでは被害者が重傷を負っていた説明がつきません」


 しかしこの異議申し立ては検察の勇み足だった。弁護士が見逃すはずもなかった。


「では被告人らが彼女に暴行を加えたという証拠は? 被害者が重傷を負っていた説明がつかない? それを調べるのは警察の仕事です。賢明なる陪審員のみなさんにおいては、すべからく法の精神を思い出していただきたい――疑わしきは罰せず。われわれは無実の証拠がないものを有罪にするのではなく、有罪の証拠がある人間だけを罰しなければならないのです。被告人の三人がたとえ被害者と性交に及んでいたとしても、それが強姦であったかどうかをどうやって証明するのです? まさか、被害者の訴えを百%鵜呑みにして、証言だけを証拠として、被害者が指さした人々を有罪にしていくのですか、魔女裁判が横行した暗黒時代のように? もしそんな蛮行がまかりとおってしまったなら、それは司法への冒涜、民主主義への冒涜、この国の基本理念である自由と平等への冒涜にほかなりません。――証言。それは唯一絶対の証拠とするにはあまりにあやふやで不確かなものです。もし偽証だったら? あるいは勘違いだったとしたら? 自称被害者の指一本で、無実の人間が刑務所に送られ、電気椅子にかけられる、みなさんはそんな世界がお望みですか?」


 陪審員の幾人かが思いつめた顔でかぶりを振った。


「われわれはよく考えなければなりません」弁護士の熱弁は続いた。「もし、証言だけを頼りに前途ある善良な若者たちに濡れ衣を着せてしまったら? イリノイ州とアメリカ合衆国の司法の歴史に、わたしたちの名前とともに汚点が残るでしょう、二十世紀も半ばを過ぎたこの現代に、われわれは時計の針を何百年も巻き戻し、証拠もなく人を裁いていたあの野蛮な時代へ退化してしまったのだと。そんな悪しき判例を残せば、次は必ずわれわれに報いが返ってきます。他人事ではないのです。まったく見たこともない“被害者”が、あなたや、あなたの大切な人を指さして、ある日突然こういうのです――あいつにレイプされたと。それはあなたかもしれない。あなたのお子さんかもしれない」


 弁護士は陪審員に手を差し伸べながらいった。陪審員たちはみな熱心に聞き入っていた。


「事件の真相はこうです――被告人三人は被害者に誘われて性交に及んだ。女性の身体に興味のある年頃です。しかたないでしょう。しかし終わったあと、被害者は叫んだ。レイプされたとうそをついて脅迫したかったのか、その真意はわかりません。びっくりした三人は思わず逃げ出した」弁護士はきょとんとした顔を陪審員らに印象づけてから、ふたたび口を開いた。「それで終わりです。そのあとのことは被告人たちは知りません。現場から去ったのですから。たしかに被害者は瀕死の重傷を負った状態で発見されましたが、三人が去ったあとにだれかに襲われたのかも。そういう可能性を排除できない以上、彼らを裁くことは適当ではない――司法に携わる者のひとりとして、わたしはそう思うものであります」


 完全無欠の被告立証だった。アンナはあきれて声も出なかった。検察の反対尋問も、反証も、最終弁論も、もはや陪審員十二人の結論を動かすことはできなかった。陪審評議のため別室へ移動した陪審員たちはやけに早く戻ってきた。


「われわれ陪審員は、全員一致で、被告人三人を無罪にすることを決定しました。ミス・ポペスキューの証言には信憑性を疑わせる部分がすくなからずあり、客観的にみて彼らを有罪にするべき事由が見当たりません」


 陪審員を代表する一人が確固たる口調で告げた。


「ふざけんなよ、このオカマ野郎!」


「証人は静粛に」


「あたしはこのガキどもに殴られて、レイプされたんだ。なんでこいつらを守ろうとするんだ、犯罪者なのに! どうしてだ。保護すべきは加害者じゃなくて被害者なんじゃないのかい!」


「証人に退廷を命じます」


 判事が裁定を下したとき、犯人の少年の一人が、喉を反らせながら、手で「あっちいけ」とジェスチャーした。激怒のあまりアンナの視界が歪んだ。衝動のまま席を飛び出して三人に飛びかかった。司法がなにもしてくれないなら自分の手で裁きを下すのだ。だが法廷の警備にあたっていた警察官たちの動きのほうが速かった。アンナが被告人席にたどり着く前に追いつき、警棒で渾身の一撃を右肩に浴びせた。アンナは激痛に思わず膝からくずおれた。警官たちは錯乱した娼婦が動けなくなるまで手足を滅多打ちにした。事件の夜の再現のようだった。抵抗できなくなると後ろ手に手錠をかけられ、連行された。そのときの三人の、最高に面白い見世物を見るような笑みが、アンナの眼底に強烈に焼きついた。


 勾留されたコートワースの留置場では、警察官たちの嘲る声が漏れ伝わった。「売女のレイプ被害にいちいち耳を傾けてたら、ダンボみたいな耳があっても足りねえよ」

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