アンナとゾーイ

蚕豆かいこ

第1話

 アンナ・ポペスキューは母親から、しばしば「おまえはレイプされて生まれた子だ」と聞かされた。


 体から酒のにおいがにじみ出てくるくらいウオッカを喰らって悪酔いしたとき、あるいは男に――自業自得の感が強いとはいえ――捨てられたとき、もしくはその両方のとき、母は決まって鼻にしわを寄せて、毎度毎度まるで初めて明かすようにしてののしった。「おまえはあたしが十四のとき、リヴァー・オークス・ドライヴの向こうにあるバプテスト教会で牧師にレイプされたときに孕んだ子なのさ」

 

 だが、母親をレイプしたという男は、ときに牧師であり、ときに学校の副担任教師であり、ときに〈あらゆる戦争を終わらせるための戦争パート2〉でヨーロッパに行ったきり連絡のつかない叔父であったりした。母が話すたび、アンナの父親は変容した。


 いずれにせよテキサスは、痩せ細った小麦と綿花の畑が黒い風とともに地の果てまで続くかと思われるほど広いくせして、レイプ被害者のほうが咎められ、唾を飛ばされる土地である点でだけは、一つ星の旗の下に染め抜かれていた。アンナと母の生家がある「死刑の町」ハンツヴィルはとくにその色が濃い。だから母は泣き寝入りするしかなかった。レイプされたと訴える女は恥を知らない、だからそんな女のいうことは信用できない。自分はレイプされた被害者だと主張できる相手はアンナだけだった。しかもアンナには母親をレイプした男の血が半分流れている。二重の意味でアンナは共犯者だった。


 だが、どの家であっても三世代前の不祥事から昨夜の夕食の内容まで知れ渡っている狭い町では、アンナと母親の身上を知らない者はいなかった。町民も母を襲ったのがどこのだれかは正確には知らない。重要なのは、アンナの母が、レイプされるほどふしだらな女だったということだ。


 バーではカウボーイハットにブーツの薄汚れた男たちがバドワイザーの瓶片手にいう。「女ってのは、てめえから誘って寝たくせに、翌朝になるとレイプされたってわめく生き物だからな」。家を守るその妻たちが井戸端会議で口々にいう。「そういうことされたのは、彼女のほうにも下心があって、のこのこついていったからでしょう。本当に嫌なら断れたはずだもの。まだ十四だったの? まあ、小さい娼婦だなんて、けがわらしい!」


 郊外にあるハンツヴィル刑務所でオールドスパーキーが老体に鞭打って仕事をするとき、つまり電気椅子に死刑囚が座らされて死刑が執行されるときは、罪状にもよるが、全米からおおぜいの記者たちが市に駆けつけて、町はちょっとしたお祭り騒ぎになる。屋台も出る。死刑反対派のデモを嘲笑いながらビールを飲むのもいい。そして死刑がない日は、アンナの母親を攻撃するのが代わりの娯楽だった。死刑囚は死刑になるようなクズだから電気椅子にかけられると胸がすく。レイプされるような淫乱な女はクズだからいくら攻撃してもいい。……


 母は耐えかね、ますます酒に溺れる。酔ってアンナに暴力をふるう。家にアンナの居場所はなかった。かといって外を歩けば「あのあばずれの娘」と大人たちににやにや笑われ、あるいは正義の怒りをこめて石を投げられる。


 子供にとって世界は家と学校しかない。家にはいつ爆発するかわからない火薬庫のような母がいる。学校へ行けば、苛烈ないじめが待っている。同い年の男の子たちがデイヴィ・クロケットのあらいぐまの帽子もとらないくらいからアンナは痛めつけられてきた。彼らはスーパーマンだったり、バットマンだったり、ザ・フラッシュや、キャプテン・アメリカだったりした。あこがれのヒーローたちになりきって、力を合わせて、アンナというヴィランをやっつける。男の子たちは皆たまらない高揚感に熱狂して毎日夢中になった。


 女の子たちは、殴る力が弱いので、道具を活用した。はさみでアンナの髪をふぞろいに切ったり、接着剤で尿道を性器ごと閉じさせたりした。


 小学校五年生の夏、クラスでいちばん体格の大きなクーパー・バージェススミスという男の子が、学校から出てすぐのところでみつけた犬の糞を素手でつかんできて、爆笑するクラスメイトたちに押さえつけさせていたアンナの口にねじこんだ。クーパーと母親が、彼の父親に虐待されているということは、なかば公然の秘密だった。アンナも真夜中にブロード・モア・ドライヴとウォーターズ・エッジ・アット・ザ・エイティーンを挟んだバージェススミス家からクーパーの父親の怒鳴り声を聞いたのは、一度や二度ではなかった。


 アンナが糞を飲み込まず、吐いたことにいらだったクーパーがおもいきりこめかみを蹴り飛ばした。気を失ったアンナはそのまま捨て置かれた。昏倒しているアンナを助けようとする人間はいなかった。覚えのない痣が増えていたから、通りがかったさいにフットボールの練習くらいはしていったのかもしれない。


 そんなだから持ち物がなくなるくらいは日常茶飯事だった。はじめのころはアンナも教師に相談した。教師はうんざりしていった。「きみは友だちを疑うのか? 泥棒だって? きみはクラスメイトを犯罪者にしたいのか?」。つまり、彼はこういいたいのだ、とアンナは理解した――おまえが泣き寝入りしていればすべて丸く収まるんだ、すべて。アンナの去り際、教師が同僚にため息をつきながら漏らしたのが聞こえた。「片親だからろくな子に育たないよ。まして、あの母親だからな」


 アンナを守ろうとする教師はいなかった。それどころか、いじめの指導をする教師さえいた。


 アンナが純粋なブロンド白人だったからこそ、まだその程度ですんでいた。


 近所に黒人の一家が引っ越してきたことがあった。周辺の白人たちはロッキー山脈よりも想像力をたくましくして、その黒人一家にあらゆる嫌がらせを断行した。いじめという労働には安息日はなかった。彼らのメッセージはシンプルだ――ただちにここから出て行け。アンナの母親も嫌がらせに参加した。ことさら精力的にだ。一家に一刻も早くこの地を去りたいと思わせるためにあらんかぎりの知恵を絞った。いじめられるつらさを知っている母だった。その母が誰に命じられたわけでもなく嬉々としていじめる側に回っていることが、アンナには不思議だった。抑圧された人間は、痛みを経験して他者に優しくなるのではなく、さらなる弱者に“報復”したがる生き物なのかもしれなかった。


 黒人一家の三人いる子供のうち、長男が自宅の二階へ続く階段の手すりから首を吊った。しばらくもしないうちに家は売り家になった。町は平穏な日常に戻った――黒い異物がまぎれ込んで気の休まらない非日常から、あばずれのポペスキュー母娘に唾を吐く日常へと。


 アンナが十四歳になった一週間後、母親は蒸発した。顔にサインペンで「わたしはファックが好き」と落書きされ、服もずたずたに切り裂かれたので下着姿で学校から帰ると、小さな家に母の姿はなかった。三日経っても母が帰ってこないので、自分は捨てられたのだとようやく覚った。


 児童福祉施設や市の職員が草の根を分けてアンナの親類を探した。もし市内でミドルティーンの白人の少女が野垂れ死にでもしたらさすがに市の責任問題になりかねない。アンナはアラバマのアンダルージアにいる母方の祖父母に引き取られることになった。


 ヴィルヘルム二世に目にもの見せた〈サン=ミエルの戦い〉からの帰還兵でもあった祖父は、体罰こそ女と子供をまっとうな人間に矯正させる唯一の手段と信じ切っていて、アンナも初日からベルトでぶちのめされた。老齢とはいえ大男だったので、その腕っぷしから生み出される暴力はあのクーパーでさえ足元にも及ばなかった。人間はあまりにもひどく殴りつけられると脱糞してしまうのだということをアンナははじめて知った。祖母はアルコール中毒であるばかりか、夫に影よりも従順に従うばかりで、アンナを庇うなど想像の外だった。


 一年も経たないうちに、アンナは祖父母の家を飛び出すことになる。


 あてもなくさまよいながら、アンナは自らの境涯を顧みた。なぜ自分は幸福な人生を歩めないのか。母がレイプされたからだ。その娘だからだ。アンナは自分自身を激しく憎んだ。おまえが淫売の娘だから、あたしはこうしてお腹を空かせて、帰る家もないホームレスになっちまったんだ。なにもかもおまえのせいだ。アンナは自分への復讐に燃えた。自分が最も忌み嫌う行為を手づから犯して、できるだけ痛めつけてやるのだ。


 復讐の手段は売春だった。生まれてこのかた淫売の娘と面罵されてきた。人生をねじまげた姦淫こそが自分にふさわしい罰に思えた。ヒッチハイクや、食事や、ときには一本の煙草のために売春した。アンナは笑った。見なよ、あんたのおまんこは、煙草一本ぽっちの価値しかないのさ! 自分の心に亀裂が入るのを感じて、アンナは勝ち誇る。ざまあみろ。


 各州を娼婦として根無し草みたいに放浪した。十五年で回った州は両手の指より多い。どこであっても体はできるだけ安く売った。ほんとうはただでもよかった。しかしながら、アンナにとってはたったひとつの資本でもあった。

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