第6話 ヘルツィヒフレーダー:バイゴーン・デイズⅠ

 今日、めでたく齢十六になったガルバス・ベゲッドにプレゼントされたのは、真新しい靴でもなければ輝く腕時計でもなく——安酒の空き瓶だった。


 投げつけられた瓶はガルバスの顔の横を通り過ぎ、自宅の薄い壁に当たって粉々に砕け散った。

 夜だというのに碌に明かりも無い室内は、粘つくような暗闇と父親の酒臭い息で満たされている。

 ここ、フェルティリジーロの貧民街で大量に出回っている『安くて強い酒ジン』に酔わされた父親の足取りはおぼつかない。

 それでも彼は時間をかけてガルバスの目の前までやってきた。


「何が軍隊だ、馬鹿野郎。軍服なんか着やがって」


 蛇行した線を描く拳は、避けずともガルバスには当たらない。

 父親は尚も虚空に向かって拳を繰り出す。


「それで俺より偉くなったつもりか。あぁ?」


 この拳が何より恐ろしい時代が自分にもあった、とガルバスは感慨深く思う。

 だが今はどうだ。ふらふらと頼りない動きで、おそらくは二重にも三重にも見えているであろう息子の幻影を追っているだけだ。


 殺せるのだろうか、とガルバスは胸中で自問自答する。


 それは自分に実の親を手にかけられるのか、などといった悠長な問いではない。

 研究者が仮定を実証するために実験を行うような、そんな冷静な疑問だ。

 たとえば背後に飛び散っているガラス片。あの中で一番鋭利なものを手に取り、急所を刺せばこの父親は死ぬのだろうか、と。


 酔っ払いの相手も飽きてきたので、ガルバスはくるりと踵を返した。

 そしてガラス瓶の破片の中でも一際大きくて先端の尖ったものを手に取ると、尚も喚きちらしている父親の心臓めがけて突き刺した。


「あっ——?」


 呆けたような声を上げ、父親は呆然と自分の胸を見下ろしていた。

 かねてから予備役として軍事訓練を受けていたガルバスの狙いは正確無比だった。

 三番目と四番目の肋骨の間に刃が九センチ以上入れば、心臓に到達する。

 ガルバスがゆっくりガラス片を引き抜くと、やがて父親は鮮血を撒き散らして、仰向けにどうっと倒れた。


 板も張っていない土がむき出しの床に、闇の中でも分かる赤い血溜まりが広がっていく。

 父親は白目を剥き、口角から血の泡を吹き、酔って真っ赤にしていた顔をどんどんと青ざめさせていった。

 一方、ガルバスは返り血を全身に浴びていた。

 酒精が血液の隅々にまで行き渡っていたのだろう、それは生臭いと同時に少し酒臭かった。


 やっぱり刺せば死ぬんだな、とガルバスはひとまずの結論を得た。


 散歩をするような軽い足取りで向かったのは台所の隅だった。

 そこにはすでに酔い潰れた母親が倒れ伏している。

 呑気にいびきをかいていた。

 さて、他の人体の急所はどこだっただろうか。

 ガルバスは顎をさすりながら思案して、そういえば——と思いつく。


 日に焼けた首筋をさらしていた母親の耳を手で畳み、その裏を思い切りガラス片で突き刺す。

 そこは脳に近い場所だった。

 母親の体はびくん、と跳ね、それからいびきがぱたりと止んだ。

 静かになったな、とガルバスは満足した。

 そして父親の時も脳を狙えばよかったと後悔する。

 そうすれば酒臭い血にまみれることもなかった。


 ——まぁ、いい。


 ガルバスは胸ポケットから支給された煙草を取り出すと、マッチを擦って、火をつけた。

 深く呼吸すると肺の隅々まで煙が満たしていく。

 ガルバスは火がついたままのマッチをどうしたものかと眺め、ぽいっと家の隅に放った。

 そこには粗末なわらのベッドがあった。

 ガルバスはいつもここで寝かされていた。


 藁にはあっという間に火がつき、面白いように轟々と燃えさかった。

 やがて炎は家の壁を焼き、屋根を焼き、両親の死体を焼いていった。

 ここで死ぬのはご免だったので、ガルバスはさっさと家を後にした。

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