第5話「うつという病」

 早朝……いや、まだ深夜とも呼ぶべきタイミングで、電話が鳴った。


 着信相手はフカミで、僕は嫌な予感を覚えた。

「はい、新垣です。どうかしましたか?」

『ごめん、マネージャー。こんな時間に電話して』


 僕は寝ぼけ眼をこすりつつ、「気にしないで下さい」

「何かあればいつでも連絡をと言ったのは僕ですから。……それより、一体何があったんですか?」


 電話口からフカミの重たげな吐息が聞こえてくる。

『あのね、薬をちゃんと飲んだんだけど、こんな時間に目が覚めちゃったの』

「そうなんですか」

『寝直そうとしても眠れないの。おまけに体が動かないの』

「ふむ。……頓服薬は飲みましたか?」

『あれは覚醒を促すものだから。飲んだらますます眠れなくなっちゃう』

「それは失念していました、申し訳ありません」


 つい癖で、頭を下げてしまう。


 フカミは『大丈夫』と言うが、声には張りがない。

『ココアも飲んだんだけど、全然ダメ。それどころかますます体が重くなっちゃって。それなのに眠れないの。ずっと目がギンギンするの』

「それは辛いですね」

 

 言いながら僕は体を起こし、すでに着替えを始めていた。


 フカミがこういう連絡をしてくる時は二、三か月に一回程度だ。その一回は必ずといっていいほど、レッドゾーンに突入している。

 

 つまり、精神的にやばい。

 

 すぐに駆けつけないと何が起こるかわからない。

 

 幸いにしてフカミには、すぐに連絡できる相手がいる。つまり僕だ。深夜に叩き起こされるのはしんどくはあるが、フカミのマネージャーである以上、泣き言や文句などは言ってられない。

『マネージャー……』

「はい、どうかしましたか?」

『あたし……ううん、なんでもない……』

「なんでもなくはないでしょう。こういう時ぐらい、きちんと弱音を吐いて下さい。一人で抱え込まないで下さい。前に約束したでしょう?」

『うん……』

 

 約束というのは、僕がフカミのマネージャーになってから一か月後に交わしたものだ。その時は早朝に叩き起こされ、急いでフカミ宅に駆けつけた。彼女はぼんやりとした目でカッターを見下ろしており、その時は心臓が止まるかと思った。

 

 僕はフカミの手からカッターを取り上げ、「もう二度とこんなことはしないで下さい」と怒鳴った。フカミは驚き――それから目を伏せ、「ごめんなさい」と言った。

 

 それから僕とフカミは約束を交わした。何かあったら、いつでも必ず僕を呼ぶこと。一人で抱え込まないことを。

 

 そして、フカミが自傷行為に及ぼうとしたことは誰にも話していない。周囲に余計な心配はかけたくないし、人の口に戸は立てられないからだ。

 

 僕は着替えを済ませ、ヨーグルトとバナナを適当に口に放り込み、車のキーを手に取った。

「今から行きます。その場でじっとしていて下さい」

『ていうか、そもそも動けないし……』

「常に通話できるようにしていますから。ちょっとうるさいかもしれませんが、我慢して下さいね」

 

 靴を履くのもドアを開けるのももどかしい。

 

 僕はダッシュで地下駐車場に赴き、ほとんど飛び込むようにしてバンに乗り込んだ。


     〇


 深夜だから道は空いていて、普段は二十分ほどかかる距離を十五分程度に縮めることができた。

 

 フカミ宅に着いた時、鍵はかかっていた。常に通話できる状態にしていたため、僕はドアの前でスマホを耳に当てる。

「フカミさん、ドアは開けられますか?」

『……無理』

「体が動かないんですね?」

『うん。……頑張ればなんとかなるかもしれないけれど』

「いえ、大丈夫です。動かないで下さい。合鍵を使いますから」

 

 僕は合鍵でドアを開け、すぐさま足を踏み入れた。照明を点け、真っ先にフカミの自室へと向かう。

 

 フカミはベッドの上でまっすぐに天井を見つめていた。連絡してもらった通り、目はぱっちりと開いている。その目が僕に向けられた時、フカミははぁっと息をついた。

「来てくれたんだね、マネージャー……」

「当たり前です」

 

 僕はベッドの近くに屈み、「失礼します」と言いながらフカミの額に手を当てた。特に熱はないようで、ひとまずは安心した。

「マネージャー……起こしてくれる?」

「大丈夫なんですか?」

「うん。なんか、お水が飲みたいの」

「わかりました」

 

 僕はフカミの体を起こすのを手伝い、壁際にもたれかかせた。それからキッチンで水を用意し、フカミに飲ませてあげる。その間にもフカミの頭はゆらゆらと揺れていた。

「ありがと、マネージャー」

「いえ。アイドルの体調の把握はマネージャーとしての務めですから」

「うん……」

 

 いつになくフカミはしおらしかった。

 

 普段のフカミは「死」に関するワードがこれでもかというぐらいに飛び出してくるが、それすらも吐かなくなった時が一番まずい。

 

 うつ病患者の中には気づけば屋上に立っていた、気づけば踏切の前に立っていたということがあるらしい。僕にはまだ理解の及ばない感覚ではあるが、生と死の境界線が曖昧になっていることはうかがえる。

 

 もちろん、常日頃から「死にたい」と言っている人にも要注意、と関連書籍で読んだことがある。死にたい死にたいと言っている人ほど死なないという俗説があるが、そんなものはアテにならない。

 

 けれど、フカミを見ている限りどこまで本を参考にすればいいのかわからないのは事実だった。ひと口にうつ病患者といってもその症状の重さは人それぞれで、希死念慮の度合いも人によって異なる。

「マネージャー……」

「はい、なんでしょう」

「やっぱあたし、ダメだよね」

「なぜ、そう言うんですか」

「肝心な時に体が動かないんだもん。ライブまでもう時間がないのに。もっとアルミとミルキと合わせられるようにしたいんだけど……」

 

 語尾がどんどん弱くなる。

 

 今のフカミなら大丈夫――


 言いかけ、それは無責任だと思い止まった。

 

 言葉だけで保証しても、フカミは納得しないし受け止められないだろう。こういう時に不用意な励ましは禁物であると僕は肌で知っていた。


 僕がマネージャーとして励ましたつもりのその翌日に、フカミは自傷行為に走ったのだから。

「フカミさん、僕に何かできることはありますか?」

「……わかんない」

「そうですか」

「マネージャーにはほんとに感謝してるの。こんな時間なのに来てくれて。でもあたし、ダメなんだ。どうやったらいつもみたいにできるのかわからないの。頭の中がぐるぐるして、ぐにゃぐにゃしてて気持ち悪いの。どうしたらいいのかわからないの」

「…………」

「一人にさせてほしいって気持ちもあるのに、一人にしないでほしいって気持ちもあるの。変だよね。矛盾してるよね」

「いいえ、変ではありません」

「変だよ、きっと。あたしおかしいんだ」

 

 壁にもたれかかっているフカミは、手元のコップに目を落としていた。先ほどから僕の顔をまともに見ようとしていない。目を合わせるのが怖いのかもしれない。もしかしたら僕に怒られるかもしれないと――

 

 そこまで考え、小さく頭を振った。

 

 フカミのことはフカミにしかわからない。加えて今のフカミは、自分のことさえわからない状況だ。それなのに僕がとやかく考えてもしょうがないだろう。

 

 僕は僕。

 

 フカミはフカミ。

 

 当たり前のことだけれど、いざ直面すると難しいものだ。

「フカミさん」

「……なに」

「フカミさんは自分のことがおかしいって思うんですね?」

「うん」

「もし、僕がフカミさんのことをおかしくないって言っても、今のフカミさんはそれを信じてくれますか?」

「……無理だと思う。マネージャーにどんなに励ましてくれても、やっぱあたしダメだって思っちゃうかもしれない」

「そうですか。アルミさんやミルキさんでも?」

 

 フカミはふるふる、と力なく首を振った。

「アルミにもミルキにも心配かけたくないし、迷惑かけたくない。こんなところ見られたくないし」

「なるほど。でも、僕ならいいんですね」

「だって、マネージャーにはあたしの一番ダメなところ、見せちゃったし」

 

 アイドルになりたての頃を言っているのだろうと僕はすぐに察した。あの時はフカミにとっても、忘れられない一件か。

「あたしはダメなんだ。アイドルとしても、人間としても」

「それは言いすぎです」

「ううん、きっとそうだよ。だってうつを患ってるアイドルなんかいないでしょ?」

「いいえ、います」

 

 フカミは心もち、顔を上げた。

「現役でうつを患っているという人の話は聞いたことがありませんが、アイドルを卒業してからうつを発症したというケースはいくつかあります。これまでのストレスが爆発したか、燃え尽き症候群と併発したか……詳しくはわかりませんが、フカミさんの症例は決して珍しいものではないのです」

「そう、なんだ」

 

 フカミは再びうつむいた。

 

 僕は頭の中でいくつもの言葉を選んでは、自分で却下した。何がどうきっかけでフカミが泥沼にはまるかわからないからだ。

 

 だけど、これだけは言える。

 

 フカミには元気を出してほしい。

 

 アイドルとして輝いてほしい。

「フカミさん、僕は……ちょっとだけ寂しいです」

「なんで?」

「いつものフカミさんなら、抱っことかおんぶとかってすぐ言うじゃないですか。でも、それすらも言わないことが少しだけ寂しいのです」

 

 フカミははっと息を呑んだ。どうやら今まで気づいていなかったらしい。それどころか顔が赤面しているのは気のせいだろうか。

「……ごめんなさい」

「なぜそこで謝るのですか」

「いつもいつもワガママばっかり。マネージャー、いつも人の目を気にしてくれているし。あたしがワガママ言うばっかりで、マネージャーには苦労をかけちゃう」

「苦労ですか」

「だってそうじゃない」


「いいえ」と僕は言った。


「確かに大変な時もあります。でも、それ以上に嬉しいのです。フカミさんが僕を頼ってくれていることが。僕がフカミさんの力になれていることが。だから苦労とは思っていませんし、それで罪悪感を覚える必要はないのです」

「…………」


 フカミの手が動いた。コップをベッドに下ろし、「マネージャー」

「なんでしょうか?」

「膝枕、してくれる?」

「はい、いいですよ」


 僕はベッドに深く腰かけた。


 フカミはぐぐぐ、と体を動かし――なんとか僕の膝までたどり着いた。ぼふ、とフカミの頭が膝に落とされ、痛みを覚える。女の子の頭でも、思いっきり落とされると痛いものなんだなとつい考えてしまう。

「マネージャー」

「はい」

「いつもありがとう」

「いいえ、どういたしまして」


 フカミはそれっきり、何も言わなくなった。


 僕もそれ以上何も言わなかった。


 しばらくして、カーテンから朝陽が差し込んできた。もう朝か、と思う同時――フカミの寝息が聞こえた。すぅ、すぅ、とすっかり安心している様子だ。


 僕は慎重にスマホを取り出した。アルミとミルキとコーチ、それから各関係者に連絡をするためだ。フカミがこの調子では、僕もこの場から動けそうにもない。


 社長に叱られちゃうか。


 僕は内心ため息をつき――スマホをタップした。


 その間にもフカミは眠り込んでいる。


 僕は彼女の横顔を見下ろし――我知らず、笑顔が漏れていた。

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