第三章

10にちめ「見た景色と聞いた話」

 ずいぶん懐かしい夢だったな……。

 久しぶりに見た茜色の景色。あれは二ヶ月前、八束が実際に目にした景色だった。

 一月三一日。八束はあの日、初恋の相手である椋浦穂積に振られた。それは冬らしく澄み渡った、夕空の下での出来事だった。


 あの日までの八束は穂積の傍にいたい一心で、がむしゃらに勉強していた。

 穂積は入学試験で史上最高点を叩き出した秀才で、元々勉強の苦手だった八束からしてみれば、雲の上の存在だった。

 そんな彼女の恋人でいたいなら、同じくらい勉強できなきゃいけない。無学無識なままだと、今に愛想を尽かされるんじゃないか。恋人になれて有頂天になる一方、そんな強迫観念に日夜脅かされることとなった。

 不安を掻き消すには勉強するほかない。だから机に齧り付いた。日を追うごとにペンだこが固くなっていき、視力もみるみる落ちていった。


 そして気が付くと穂積の上にいた――点数はいつも僅差だったから『肩を並べた』と表現した方がいいだろうか。

 とにかく安心した。これで一緒にいられる。

 初めて一位を取った時は、今までの努力が報われたんだと大いに喜んだ。貼り出された席次を見つめる穂積が、隣でどんな顔をしていたかなんて、気にも留めないで。


 穂積だって必死だったはずだ。人一倍勉強しない限り、あんな高得点は取れないし、何より彼女の頑張りは八束が一番よく知っていた。

 テストが近づくとそわそわしだして、不安を悟られまいと見え透いた空元気を出す穂積のことだ。きっと定期テストや模試のたびに八束の点数を気にしていたに違いない。単に自分の点数がどうこうという問題じゃなかったのだ。

 八束が上にいる。その位置関係がずっと穂積を苦しめていた。


 それなのに、八束はあの塞ぎ込んだ顔から何も汲み取ってあげられなかった。悩みの原因が自分にあると気付かず、お門違いな言葉を贈り続けて。見上げる者の気持ちを、その苦しみをあれほど味わったというのに。


 こうして振り返ると、振られて当然だったのかもしれない。だって二度と見上げまいと誓ったあの景色を、あろうことか一番大切な人に見せてしまったんだから。

 不本意ながら終わったと思っていた関係は、本当は終わるべくして終わったんじゃないか。あの日を思い出すと、八束はついついそんなことを考えてしまう。


 次第に視界がはっきりしてきた。

「……ん?」

 真っ先に目に映ったのは、見覚えのない天井だった。少なくとも家のそれじゃない。それに枕の高さにも、シーツの触り心地にも覚えがない。まるで人様のベッドにお邪魔しているような感じがする。

 ここは……どこだ?

 ベッドは柵で囲われ、足下には横長のテーブルが橋渡しされている。端に下がっているボタンはナースコールだろうか。どこもかしこも病室のそれっぽい。

 病室?……だとしても、どうして?

 寝起きだからか、目覚める前の記憶が抜け落ちているようで、どうにも思い出せない。知らないうちに服装が入院患者のそれになっているし、何かあったことに違いないのだが。


 それにしても首の辺りがやけにごわごわするな……反射的に首を掻いた。

「――っ!!」

 首に巻かれた包帯。それに触れた瞬間、まるで電撃が走ったように記憶が蘇った。


 赤羽月乃という同い年の少女がいた。彼女は絶体絶命の窮地から救い出してくれ、いきなり『付き合ってください』と告白……もとい脅迫してきた。薄汚れた壁へ詰め寄り、肉厚のナイフをちらつかせて。

 仰々しく巻かれた包帯の内側には、あの時の生傷が隠れているのだろうか。


 はっと病室を見回した。この殺風景な景色のどこかに、あのストーカーが潜んでいるかもしれない。

 しかし懸念とは裏腹に、一人部屋らしいここには、それらしい人影どころか人の気配すらない。廊下から立ち話が聞こえるくらい、しんとしている。

 薄手のカーテンを透かして、暖かな日の光が差し込む。どうやら悪夢のような夜は明けたらしい。


 思い起こすに八束はストーカーの魔の手から逃げ切れず、道半ばであえなく気を失ったわけだが、病院にいるということは、あのあと誰かが運んでくれたのだろうか。

 それなら月乃はどうなったんだ? ここにいないということは、警察にしょっ引かれたとか?

 考えれば考えるほど疑問ばかり湧いてくるが、ともかく今は時計が見たい。置き時計なり携帯電話なり、周りに時刻を知れる物がないか見回す。


 そんな中、ある物に目が留まった。

「…………?」

 見舞客用だろう丸椅子に、正体不明の紙袋が載っている……なんだこれ?

 女性向けファッションブランドのロゴの入った紙袋には、付箋紙が貼り付いている。

 見覚えのある汚い字で一言。

『成仏しろよ』

 玲奈の仕業だった。どうにも気を失っている間に、見舞いに来てくれたようだ。


「まだ死んじゃいないっての」


『成仏しろよ』だなんて縁起でもない――とは思うものの、こんな意地悪な冗談でも八束は笑ってしまう。

 あの路地裏に足を踏み入れてから、ずっと非日常が続いていたので、この汚い字を見るだけでも『やっと日常に帰ってこられたんだ』と安心できた。

 八束は何だかんだで友達思いな連中に感謝しながら、口のセロハンテープを剥がした。


「うわ……ぐっちゃぐちゃ」


 中身は、文化祭で貸しっぱなしだった制服だった。玲奈的には『着る服がなかろう』と見舞いついでに返品したつもりなんだろうが、ただ雑につっこんである。

 借り物なんだから、返す時くらい丁寧に扱えばいいものを……あ~もう、シャツもスラックスもしわだらけだ。

「……はぁ」溜息が零れた。

 制服は後でハンガーに掛けるとして、時計は?……紙袋の口を閉じて、また辺りを探す。


 テレビの傍に、何やら光る物がある。それを見た途端ぎょっとした。

 これは……例のキーホルダーだ!

 八束は慌てて引きちぎった。




 八束は黒木通りを早足で進む。

「いったい何がどうなってるんだ!?」

 路地裏での一件は不良の件も含めて、なかったことにされていた。

 病院の医者や看護師に聞いても、警察に問い合わせても、答えは一緒。四月七日の夜に傷害事件なんて起きていない。首の傷は単なる事故によるものということで片付けられていた。

 それにいざ退院しようとすると、手術や入院に掛かった一連の支払いが、すでに誰かの手によって済まされていた。まるで八束が病院にいた記録すら消失してしまったかのように。


 何かがおかしい。八束の認識と周囲の反応とが明らかに食い違っている。あの夜の出来事が誰の記憶からも消えてしまっている。

 まるでパラレルワールドに迷い込んだような異常事態に、八束はとうとう疑心暗鬼に陥った。

 一年も登下校を繰り返したはずなのに、学校が学校と思えない。校門も桜並木も廃校舎だって、まったく知らない物に見える。授業開始のチャイムでさえ、聞き覚えのない旋律に聞こえてしまう。


 とにかく今は自分の知っている誰かに会いたい。会って、この異様な世界が妄想の産物に過ぎないのだと確信したい。

 しわくちゃなシャツに袖を通し、サンダルのまま黒の並木道を抜ける。家に荷物を取りに帰る余裕はなかった。


 薄汚れた昇降口の傍に宅配ピザのバイクが止まっている。だが今はそんな物にいちいち構っていられない。壁の大穴から廃校舎に踏み入った。穴だらけの廊下を早足で抜け、中央階段を上る。


 今は四月九日の正午らしい。例の夜から二日も経っているそうだが、今はその情報すら疑わしく思える。


 普通科の教室からは昼飯時らしく、聞き慣れた笑い声が聞こえる。何やらおいしそうな匂いもする。

 凜たちだ。急ぎ足に拍車が掛かる。

 ここで教室から配達員が出てきた。八束は振り向きもしなかった。建て付けの悪いドアをこじ開ける。


 がらんとした教室に彼らはいた。赤と金と黒の頭がピザを囲んで、楽しそうに談笑している。

 凜と玲奈と、それから田中。いつものメンバーがいつものように笑っている。

 ……なんだ。やっぱり何も変わってないじゃないか。

 凜も玲奈も相変わらず。田中とはしばらく会っていなかったが、相変わらずの顎髭&オールバックで、泣く子も黙る眼光を三白眼に灯している。


 何も変わっていない。やっぱり今までのことは白昼夢に過ぎなかったんだ。

 学校に宅配ピザを呼びつけるなんて……まったく。頬に柔らかさが戻っていく。なんだかずっと悪い夢を見ていたようだ。

 やっと日常に戻ってこられた。夢の終わりを実感して、胸を撫で下ろそうとした、その時だった。


「――八束さん!」

 ガラス色の声に名前を呼ばれた。


 あかい瞳が、跳び上がるようにこちらを見る。いつもの景色に白い異物が混じっている。

「え……」そんな……まさか。

 八束はその場で固まった。信じられない。


 

 しかもあの三色の輪に溶け込んで。

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