9にちめ「一月三一日」

 指の間から生温いものが滴る。白のシャツが襟から赤く染まっていく。

 八束はがむしゃらに地面を蹴った。苔生したビニールパイプの傍を、ノブのないドアの前を、ファンの抜け落ちた室外機の脇を駆け抜ける。

 しかし見えるのは壁、壁、壁――。いくら走っても、閉塞的な景色が開けることはない。


「くそっ……」


 一向に出口と出会えない。路地裏は迷路のように入り組んでいる。

 とにかく通った道はどれも行き止まりだ。少なくともそれらは避けなくては……とは思うも、殺風景な路地裏では、枝分かれしたどの道も同じように見えてしまう。


 押さえても押さえても、指の隙間から血が溢れてくる。左肩一帯は痛々しい赤に染まっていた。

 脱出するのが先か、気を失うのが先か……夜風に載ってやってきた何者かの足音!


「まさか……っ!?」


 霞む視界に映るのは一番いの紅。それら二点が周囲の湿気を切り裂きながら迫ってくる。不気味な尾をたなびかせ、獰猛な牙を剥き出しにして。

 赤羽月乃だ。後を追ってきやがった。

 八束は恐怖を強引に噛み砕き、逆流した酸素を無理やり肺に押し戻した。もう死に物狂いだった。一センチでも一ミリでもいいから、距離を離さないと。その一心で背中に鞭を打った。


 もう振り返る余裕はなかった。十字路を当てずっぽうで右に曲がる。暗闇が徐々に薄らいでいく。

 八束は黒ずんだガムを踏み、ポリバケツを突き倒し、もがくように突っ走る。激痛に顔を歪め、分かれ道に直面するたびハズレを引かぬよう祈りながら。

 しかし行けども行けども景色は薄汚れたまま。一向に抜け出せない。終わりが見えない。不安が、焦りが、恐怖が、八束の心を支配する。


 足音が徐々に近づいてきている。月乃がすぐ後ろにまで迫ってきている。

 首筋からとめどなく血が滴る。景色は霞み、聴覚も鈍りはじめた。もう体が持たない。いつ意識が飛んだっておかしくない。


「――っ!」


 T字路に飛び込んだ瞬間、左半身を人工的な光が照らした。赤と黄色、ピンクと緑。多彩な光が向こうに広がっている。

 ――出口だ!

 やっと悪夢のような路地から抜け出せる。目の前の希望に引き寄せられるように、血で濡れた左手を伸ばす。


 鮮やかな光が広がる。待ちに待った外の景色がすぐそこに……カシャン。安っぽい金属音がした。硬質の網の感触が手の腹に食い込んだ。


 人工の光に顔が濡れ、ピンボケした世界に輪郭が添えられる。

 電信柱に垂れ下がる電灯。赤字の電光看板。色褪せた料金表。まばゆい光に照らされるのは、乱雑に置かれた自転車とバイクの一群。

 目の前に広がるのは、確かに待ち焦がれた外の世界だろう。ところが……グロテスクな左手が握る物、それは薄緑の金網だった。直径一センチにも満たない針金の網が唯一の逃げ道を塞いでいた。

 ここは駐輪場の裏手。金網で封鎖されたである。


「こんなの、ありかよ……」


 今の八束は檻から街を眺める猿のようなものだ。いくら向こうの世界に憧れたところで外へは出られない。ただ指を咥えて眺めているだけ。それがいま許された、唯一の悪あがきだった。

 ほんの数ミリ先に探し求めていた場所があるのに、指先で触れることさえできるのに……。

 金網に背中を任せ、ずるずると腰を下ろす。諦めがついたのかもしれない。空を見上げると、いつの間にか雲の割れ目から月が顔を出していた。


「もう八束さんったら……いきなり突き飛ばすなんて、びっくりするじゃないですか」

 ガラス色の声が聞こえる。

「ですが……思い直してくださったんですね」


 建物の影から真っ白な頭が顔を出した。斑模様の空気を漂わせ、ぬらりぬらりと歩み寄る。瞳は血糊のように赤黒く濁り、不気味に傾いた顔はケタケタと笑っているだろう。


「い、かぇ……て、ぁ……があ……る」


 いかれてやがる。そう言いたかったのに、ろれつがどうも回らない。ぼやけた世界が赤と白の塊に埋め尽くされていく。


「息が荒くなってますね……血もいっぱい出ていますし……」

 人らしい重み。耳元で誰かが喋っている。熱っぽい息遣いが聞こえる。

「血ですか……八束さんの……」


 繊維質な感触が八束の頬を撫でた。両肩を掴まれ、首筋で生暖かいものがピチャピチャ音を立てはじめた。きっと生き血を舐め取っているんだろう。

 気持ち悪い……。

 声は出なかった。今や指一本動かせない。

 それをいいことに、月乃は美味しそうに舌を動かす。このまま血が枯れるまで舐め続けるつもりだろうか。


「…………」


 何か考えようと言葉を組み合わせても、すぐに崩れて散らばってしまう。どうにでもなれと思えてしまう。

 代わりに思い出すのは一月三一日。初恋が終わった日のことだった。


 耳障りな音がやんだ。

「――ス――ても――――か?」

 月乃が何か言ったようだ。


 視界が白い顔で覆い尽くされる。

 口はべっとりと赤く汚れていた。

 そして、唇が触れ合った。


 ……血生臭い。


 鉄の味が口中に広がり、べたついた感触が唇同士を結びつける。八束は噎せるほど濃い臭いに溺れていく。次第に意識が遠のいていく。


 一月三一日の放課後、八束は生徒会室に呼び出されただろう。

 椋浦穂積むくうらほづみ。当時、恋人だった子に――。




 夕焼けに染まった生徒会室。

「――穂積~っ?」

 一月末のこの日も、穂積はそこにいた。


「あっ……ごめんね、急に呼び出して。もしかして忙しかった?」

「凜たちとだべってただけだから全然。穂積こそ生徒会の用は済んだの?」


 八束は手探りで明かりをつけた。

 部屋中の茜色が追い出される。


 黒炭のように艶やかな髪。白雪姫を思わせる肌。利発そうな眉。瞬きで風を起こせそうな長い睫毛と、それに縁取られた黒曜石の瞳。

 穂積は夕空を背に立っていた。

 私立西園高校の生徒会長であり、八束の自慢の恋人。穂積は『夜目遠目笠の内』なんて補正がなくたって十分綺麗だろう。


「今日はもう遅いから。残りは明日、生徒会のみんなでするつもり」

「そっか……それで用って?」


 一月最後の放課後、八束はこうして生徒会室に呼び出された。

 何の件か、心当たりはないのだが……なぜだろう。穂積はひどく浮かない顔をしている。ずいぶんと言い出しづらい内容らしい。


「急ぎの話ならともかく、言いにくいことなら無理して言うことないさ。俺も気長に待つし」

「別に急用ってわけじゃないんだけど……」

「それなら帰りながら、もう少し考えてみても……そうだ。今日はどこか寄り道していこっか。ほら、最近は生徒会やらテスト期間やらで忙しくて、なかなか遊ぶ機会がなかったし」

「大丈夫。いま言わないと、もっと言いづらくなるから」


 黒曜石の瞳がテーブルを越え、まっすぐ八束を見つめた。

「やっぱり、今ここで言うね」

 どうしてだろう。嫌な予感がする。次の言葉は聞いてはいけない気がする。


「私と別れてほしいの」

「…………えっ?」


 穂積が切り出したのは、なんとも耳を疑いたくなる話だった。

 ――別れてほしい。

 あまりのことで声は脱色してしまう。暖房が効いているはずなのに、急に空気が冷たくなった気がする。


「……冗談、だよな?」

「ううん、本気」

「でも……なんで?」

「ごめんね……でも、もう決めたから」


 まさか別れを切り出されるなんて……だって付き合い始めた五月からこれまで些細な喧嘩はあれど、別れ話が出るくらい険悪な仲になることは一度だってなかったんだ。それどころか、去年の学園祭でベストカップル賞に選ばれるくらい仲がよかったはずなのに……どうして?


「それじゃ納得できない!」

 狼狽のあまり声が大きくなる。

「頼むから、わけを聞かせてくれ。もしかして嫌いになったとか?」


「そんなわけない!」

 今度は穂積が叫んだ。

「八束君を嫌いになるわけないじゃん!」


 声は廊下まで響いた。

 嫌いじゃない。でも別れたい。

 穂積の言葉は支離滅裂だ。


「……全部、私が悪いの」

 しばらくの沈黙を挟み、穂積はそんな言葉を口にした。

「私ね、八束君と一緒にいると不安でたまらなくなるの。だって……どんなに勉強しても八束君の成績に追いつけないんだもん」

 穂積が打ち明けたのは、八束に対する切実な思いだった。

「覚えてる? まだ私たちが入学したての頃。よく『勉強を教えてほしい』ってお願いしにきたよね。あの頃はまだ私も一番で、八束君を前から引っ張るくらいの余裕があった。でも……今は違う。今は八束君が一番で私が二番。気付いたら後を追う立場になってた」


 穂積の言う通り、二人が出会ったのは去年の四月のこと。入学試験の首席である穂積に、八束が勉強の手解きを請うたのがきっかけだった。

 当時、学年最下層の学力しか持ち合わせていなかった八束のために、穂積は毎日のように勉強に付き合ってくれた。

 そのおかげで八束の成績はみるみる上がっていき、二学期最初のテストでは、ついに穂積を抜いて学年の一番になった。


 その頃には、二人は恋人同士になっていた。

 お互い初めてのお付き合いだったこともあり、手を繋ぐだけで赤面してしまうくらい初々しい関係が続いていたが、それでもお互いを想う気持ちに変わりはなかった。

 そして秋口からは、学年の首席と次席という関係も変わらなくなった。


「私だって頑張ったよ? 八束君の見えないところではずっと勉強してたし、デートの前の日だって遅くまで机に向かってた。でも……駄目だった。どうしても追いつけない。隣に立てない。いつの間にかね、不安になってたの。このまま置いていかれちゃうんじゃないかって。成績が貼り出されるたびに、八束君が手の届かないところに行っちゃう気がして怖かった」


「俺が穂積を見捨てるはずないだろ」


「分かってる。八束君はそんな人じゃないって……でも怖いの。だって私には勉強くらいしか取り柄がないんだもん」


「そんなことない。穂積の取り柄なんて、いいところなんて、勉強以外にもたくさんあるじゃないか」

 八束は思わず叫んでいた。

「俺のドジにも目を瞑ってくれるくらい大人だし、自分よりまず人を気遣う優しさだってある。生徒会長になって学校を変えるっていう志は素直にかっこいいと思えた。それに、それに――」


 別れたくない。その思いが八束を感情的にさせる。

 対して穂積は落ち着いていた。まるで彼女の中では、もう自分たちの関係に終止符が打たれてしまったように。


「私ね……そういうところが好きなんだ。そうやっていつも励ましてくれる優しいところが……でも、だからこそ終わりにしたいの」

 エンドロールを見送るような瞳が八束に微笑んだ。

「今の関係のままだと、きっと恨んじゃう。ひどいことを思っちゃう。もしかすると『こうなったのも八束君のせいだ』って八つ当たりして、優しさすら疎ましく思っちゃうかもしれない。そんな風にはなりたくない。大好きな八束君を汚したくないの。だから、そうなる前に……お願い。きれいなまま終わらせて。まだ八束君を好きでいられるうちに」

 そこまで言うと、穂積は唇を結んだ。


「でも……そんなのって……」

 八つ当たりなんて、いくらでもしていい。傷つけたって構わない……そうは言えなかった。

 言えないじゃないか。穂積は一緒にいると、ひどく不安になるのだという。それなのにどうして『ずっと傍で支えてやる』なんてセリフが吐けようか。


 穂積の言葉に嘘はない。別れたいだけの言い訳だったら、あんな寂しそうな顔はしないだろうから。

 別れたくない……でも、別れなくてはならない。八束がどれだけ一緒にいたいと願っても、穂積はもう一緒にいられない。

 結局、頷く以外の選択肢は残されていなかった。


「…………分かった」

 床を向いた声。

「穂積がそれでいいなら……」

 八束は顔を合わせていられなかった。


 ……別れよう。


 息の詰まる言葉だった。できれば死ぬまで口にしたくない言葉だった。

 夕空が次第に夜の色に染まっていく。


 一月三一日。

 この日、八束の初恋が終わった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る