8にちめ「月の裏」

 たどたどしく上擦っていた声も、今や面影はない。脳みそが茹で上がりそうだった病的な熱だって、すっかり冷めてしまった。


「一つ、聞いてもいいかな?」


 この一瞬で赤羽月乃に対する印象が変わってしまった。さっきまでの月乃と、目の前にいる月乃。二人が別人に見える。

 ブーツの踵がアスファルトに降り立った。むっとした眼差しが八束を仰いだ。


「その返し方はあんまりじゃないですか? この想いを打ち明けるのに、私すっごく勇気を振り絞ったんですよ?」

「ごめん……でも気になって仕方ないんだ。聞かせてほしい。赤羽さんが俺を助けた経緯について」


 返答はない。青白い顔はむくれたままだ。

 八束は深呼吸を一つ挟んだ。


「赤羽さんはさっき、俺のピンチを救ってくれたよね。自分より大きな相手に立ち向かうなんて正直かっこよかったし、今もすごく感謝してる。でも……思ったんだ。『あの場で助けが来るのは、おかしくないか?』って」

 表情に変化はない。

「だって俺が襲われたのは、人気のない路地の奥だよ? たまたま通りかかったなんて、とてもじゃないけど考えられない。それに偶然にしては準備がよすぎるじゃないか」

 ジャージのポケットに目を落とす。

「赤羽さん、エアガンを持ってるでしょ? じゃないとあんな場面でBB弾なんか転がらないもんね。それと不良たちを襲った稲光。あれはさしずめスタンガンってところかな。ともかく、そんな物を持ち歩くやつなんているもんか。ポケットのそれは、俺を助けるために持ってきてくれたんだよね?」


 否定しない……ということは、つまり肯定。沈黙は推理を裏付ける何よりの証拠だった。


「つまるところ助けられたのは偶然じゃなかったんだ。赤羽さんはどこかで俺のピンチを知って、戦う準備をして駆けつけた……ここまでは推測できた。でも、そこに至った経緯が分からない」

 紅い瞳を見据える。

「だから教えてほしい。赤羽さんがどこで騒ぎを聞きつけて、どう駆けつけたのか。そもそもどうして助けてくれたのか」


 鬼が出るか蛇が出るか。八束はパンドラの箱に手を突っ込んだ。もう後戻りはできない。

 ただ、予想できることはある。赤羽月乃の正体は多分……暗闇がいっそう黒く濁っていく。


「どうして助けたのか……そんなの、好きだからに決まってるじゃないですか」

 闇の向こうから冷たい笑い声が聞こえた。

「好きだから危機にいち早く気付けたわけですし、好きだから助けにも来られたんじゃないですか。すべては八束さんが好きだから。助ける理由は『愛』だけで十分でしょう」

 血のような紅がぎょろりと見開かれる。

「こうして二人きりになれるチャンスはそうありませんからね。みすみす見逃してしまうなんて、できるはずありません。ですから助けるに至った経緯は単純で……ちょっと失礼しますね」


 ここで月乃が近づいてきたかと思うと、いきなりポケットに手を突っ込まれた。

「ひっ――」

 慌てて飛び退くと、手には鮎沢家の鍵が。どうやら一瞬のうちに抜き取られたらしい。

 月乃は右手で鍵のキーホルダーを口元へ、左手で自身のスマホを八束へ。


「『聞こえますか?』」

「――っ!?」


 スマホから発せられたのは、月乃のそれと瓜二つなガラス色の声だった。音質はいまいちだが、後から八束の息を呑む音まで聞こえただろう。

 これって……もしかして……。

 月乃は八束の青ざめた反応が愛しくて仕方ないといった笑みを浮かべる。


「こうしていつものように声を聞いていたら、たまたま八束さんに危機が迫っていることを知りました。そこで私は役に立ちそうな物を揃えて、家を飛び出しました。あとはご覧になった通りです」


 そこまで言うと月乃は唇を結んだ。

 蒸れた肌を一滴の汗が伝う。


 何の気なしにつけていたボタン電池型のキーホルダー。ペットボトル飲料か何かのおまけだったそれには、なんと音を拾って月乃のスマホへと送信する隠し機能が搭載されていた。

 最初からそうだったのか、知らないうちに手を加えられたのか。分からないが、あんな物、機械に疎い八束だって知っている。

 盗聴機。それ以外の何ものでもない。

 それと捲し立てるような返答の端々から得られた情報も合わせれば、例の仮説を証明できるだろう。


 これではっきりした。

 赤羽月乃はストーカーだ。


 この出会いは運命とか偶然とか、そんなロマンチックな言葉で表していいものではなかった。

 命拾いできたのは鮎沢八束だったから。出会ったのは、月乃が下心より駆けつけたから。つまり二人は出会うべくして出会ったのだ。


「さあ、次は八束さんの番ですよ」

「あ、うん……」


 八束は盗聴器つきの鍵を恐々受け取った。

 知らなかったとはいえ、まさかこんな悍ましい物を身につけていたとは。四六時中、盗聴され放題の環境で生活していたとは。

 仕切り直しと言わんばかりに、またも月乃が距離を詰めてくる。


「私のこと好きですか? それとも嫌いですか?」

「そう聞かれると、嫌い……じゃないけど」

「……けど?」


 下手に断って怒らせてしまうのは危険だが、かといってOKを出すと後が怖い。

 八束は目を泳がせる。

 それなのに月乃はお構いなしだ。回答をぐいぐい迫ってくる。


「けど……その……そうだ! このまま立ち話っていうのもあれだし、とりあえず場所を変えない? 続きはどこかで晩御飯でも食べながらってことにしてさ」


 ひとまず場所を移さないと……なにせここは人気のない路地裏だ。こんな場所でストーカーと二人きりなんて危険すぎる。いつ襲われても不思議じゃなければ、助けを呼んだところで、誰の耳にも届きやしないのだから。


「そう言って話をうやむやになさるおつもりじゃないですか?」

「えっ……」

「嘘をついちゃ駄目ですよ。八束さんの考えは何だってお見通しなんですから」

「別に嘘とかじゃなくて、俺はただこういう話って、落ち着いて話せるところでするべきだよなって思っただけで、その――」


 弁解しようとした、その時だ。

 ――ドスン。

 固く冷たい感触が首を掠めた。


「もう。往生際が悪いですよ」

「…………」


 視界の端に異様な物が見切れている。ぴんと張った糸のような感触が、首の皮に一本の線を引いている。

 八束は闇に順応してきた目で、首筋を這うそれを辿ってみた。


 首筋を這う金属質の感触。

 正体はだ。


「あ……あか、あかはさん?」


 見破った途端、まるで血管に氷水を流し込まれたような感覚が全身を駆け巡った。

 嘘だろ、おい……怯える声に反応して、肉厚な刃が首の産毛を削ぎ落とす。

 こけおどしのおもちゃじゃない。これは紛れもない本物の凶器である。


「荒っぽい手かもしれませんが、こうでもしないとお話を続けられないんですから、仕方ありませんよね」


 あてがわれた刃が八束を睨む。駄目だ……体が竦んで動けない。深呼吸でもしようものなら、大事な血管が切れてしまいそうだ。

 こんなことをしておきながら、月乃は悪びれる素振りを見せない。それどころか、頬が柔らかく持ち上がっているじゃないか。

 この女、狂ってる……。

 ナイフだって十分怖いが、今の八束には、あの青白い微笑みが恐ろしく見えてならない。こんなの正気の沙汰じゃない。


「勘違いしちゃ嫌ですよ? いつもこうした手段に走っちゃうわけじゃないんですから。ただ今日はいつもと違う……そう、今日だけは特別なんです」

 いったい何がおかしいのか、月乃が笑いだす。

「ようやく二人になれたからでしょうか。今日の私は自分でもびっくりするくらい積極的なんです。その気になれば、こんなこともできちゃうんです……えいっ」


 意を決したように、月乃が胸に飛び込んできた。

「――ひぃっ!?」

 戦慄しているだけに、この体当たりの衝撃は凄まじく、息は逆流。心臓は跳ね上がった。首の薄皮に刃が食い込んだ気がする。

 月乃の手を離れたボウイナイフは、いまだ壁に刺さったまま。八束の血を啜る瞬間を虎視眈々と待ち構えている。


 しばらくの沈黙が訪れた。


 月乃は八束の胸に身を委ねたまま。それでも恥ずかしいのか、這わせた手はシャツを掴んでいて、頬は熱っぽく赤らんでいるだろう。


「聞こえますよ、八束さんの胸の音……ドクン、ドクンって。私のと同じくらい高鳴ってて……」

 月乃の体温が左胸をじんわり温める。

「やっぱり八束さんも想ってくださっていたんですね。嬉しいです。私たちが本当に相思相愛だったなんて。夢みたい……」

 シャツの胸ポケットがぎゅ~っと。今度は愛おしそうに握られる。


 こうなると発狂の一歩手前だ。ひどく粟立った鳥肌では冷や汗も枯れ果て、肺が強張ってしまい、息を吐くことすらままならない。

 対照的に月乃の周囲には乙女チックな空気が漂っている。そのピンク色の脳内では、どうにも吊り橋効果的な聞き間違いのせいで、二人は相思相愛だと解釈されたらしい。


「今度は八束さんからも、私への気持ち、聞かせてくださいませんか?」


 胸元から、じっと八束を……八束ではないを見上げる紅い瞳。それは彼も自分と同じ感情を、同じくらい持っているんだと信じて疑わない眼差し。

 ――そうか。『結晶作用』だ。

 八束は今になって、月乃の見ているものの正体が分かった。


 月乃は八束を見ているんじゃない。八束に投影したを見ているのだ。


 彼は私の思い描く理想の男性だ。私の求めるものすべてを与えてくれる。そんな彼が私を嫌うはずがない。私が彼を想うように、きっと彼も私を愛しているに決まっている。

『恋愛論』でスタンダールが『結晶作用』と表現したように、月乃は八束を運命の人だと思い込んでいる。だから紅い闇には何も映っていないのだ。


 月乃は『愛している』を求めている。それ以外の言葉は何一つ受け付けない。なにせ彼女が見ているのは妄想で作り上げた『鮎沢八束』であって、彼は拒絶なんて絶対にしないのだから。


「八束さんも好きなんですよね? 愛してくださっているんですよね? でしたら焦らさないで、言葉にしてくださいよ……ね?」


 興奮して見開かれた瞳が八束を覗く。その紅い闇に引きずり込もうと、幾千もの手を伸ばす。

 八束は飲まれまいと、死に物狂いで逃げ道を模索した。パニック状態の頭で、この場における最善の言葉を捻り出す。


「赤羽さんはその……とっても魅力的だと思うよ? 美人だしスタイルもいいし、俺じゃ釣り合わないくらい……だからいいのかな? 俺なんかで。赤羽さんなら、もっといい人と巡り会えそうだけど――」


「八束さんだからいいんです。八束さんじゃなきゃ駄目なんです」


「そうは言うけど……俺は赤羽さんが思ってるほど、たいした男じゃないよ。別に二枚目ってわけでもないし、社交性がないから口下手だし。それに女の子の喜びそうなことなんて見当もつかない男だから。赤羽さんとそういう関係になっても、すぐに飽きられちゃうんじゃないかな」


「そんなことはあり得ません。八束さんを嫌いになるわけないじゃないですか」


「いや、実際問題――っ!?」


 ぎゅ~っと。八束を黙らせようと、背中に手が回される。柔らかくも所々固い、いろんなものがまぜこぜになった感触に包まれる。


「分かりますよ。そうまでして諦めさせようとする気持ち……」

 胸元で生暖かい声が言った。

「心配なんですよね? またって」


 この瞬間、思考が凍り付いた。

 刃に血液が染みていく。


「まだ失恋して三ヶ月と経っていないんですもん。心の傷が癒えていなくたって当然です。ですが、なにも自分を卑しめてまで新しい恋から遠ざかることはないんじゃないですか? 好きなら好きでいいじゃないですか」


 ガラス色の声が頭に入ってこない。

 脳裏に浮かぶのは一月三一日。生徒会室で起きた


「それに心配することはありません。私はあの女と違って、絶対に八束さんを悲しませませんから」


 一月三一日。あの日、八束の中で一つの関係が終わりを迎えた。


「やめろ……」

「あの女と違って、ひとりにさせませんから」


 一月三一日。あの日、八束は理数科への進級希望を取り下げ、普通科に進むことを決めた。


「やめてくれ……」

「あの女と違って、ずっと傍にいますから」


 ガラス色の声があの日と重なる。

 一月三一日。あの日も確か――、

 大事な何かが切れる音がした。


「――やめろォッ!」


 無意識だった。なみなみに注がれた感情が溢れ、気付けば月乃を突き飛ばしていた。反動でナイフが首の肉を巻き込み、粘っこい鮮血を引きずり出す。

 逃げなきゃ……八束は走りだした。早く逃げなくちゃ……月乃から、から。

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