6にちめ「月下美人」
いつまでも見とれていると変に思われる。八束はひとまず、お礼を言うことにした。
「ありがとう、助けてくれて……」
頬が赤くなっている気もするが、ちゃんと薄闇に隠れているだろうか。
「いえいえ。お気になさらないでください。それよりお怪我はありませんか?」
「え?……あ、大丈夫。おかげさまでこの通り、ぴんぴんしてますから」
こう尻餅をついたままだと格好がつかない。少女が手を差し伸べようとしたタッチの差で、八束は立ち上がってみせた。手のひらの小石を、お尻の汚れと一緒に叩き落とす。
目の高さが逆転する。
一七六センチの八束を基準とするに、少女の身長はおおよそ一六〇センチといったところ。同い年の平均身長くらいだろう――ごついブーツでいくらか底上げされているのかもしれないが。
ところで朗らかな微笑みと顔を合わせていると、くすぐったい気持ちになるだろう。八束はむず痒さを笑ってごまかしながら、つくづく思うのだった。
なんて感じのいい子だろう。
美人だし、スタイルもいいし、人当たりも申し分ない。まさに『立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花』といった感じ。神様は彼女に肩入れしすぎじゃなかろうか。
思い返すと今日は普通科の荒廃っぷりにうんざりするわ、気味の悪い視線に家まで上がり込まれるわ、不良に絡まれた挙げ句、殺されそうになるわと散々な一日だったが、彼女との出会いが嫌なことをすべて水に流してくれる。
夜風が吹き抜ける。いつしか路地裏は春の夜らしい涼しさに満たされていた。
上の空な八束に、少女が歩み寄る。ガラス色の声が言う。
「それはそうと……やっと二人きりになれましたね」
「うん…………うん?」
目が点になる……聞き間違いかな?
今のは『やっと二人きりになれましたね』とか、二人きりになれたことが嬉しい的な発言だった気もするが……いやいや、なんだその急展開?
この物語は辛気臭い男子高校生の冴えない日常を描いた
突拍子もないアドリブに大根役者は大混乱――ダジャレか。だが舞い上がっちゃいけない。
少女が羽織っているのは我が校陸上部の赤ジャージ。ということは、通う高校が一緒……であっても陸上部の部員。インドア系もやしっ子には一生縁のない運動部系女子なのだ。
第一、彼女とは初対面。面識のない異性を相手に『あなたと二人きりになれて嬉しい』なんてセリフを言うわけが――、
「どうかされましたか? 八束さん?」
面識……あったんですね。
少女は八束を下の名前で呼んだ。一年をともにした元クラスメイトですら『ハチタバ』と読み間違える名前を親しげに。
どうにも少女は八束をよく知っているようだ。
けれど……はて。こんな可愛い子、知り合いにいたっけな? 一度見たら忘れられない子だろうに、さっぱり思い出せない。
まあ同じ高校らしいし、たまたま知っていただけという線もあり得るのか。
というのも八束はこれでも定期テストで長らく学年の首席に座っているから、そこそこの知名度はあったりする。
だが交友関係の狭さゆえ、大概がハチタバ勢だ。名前と顔がちゃんと一致できるのは少数の友人か、去年テストの山を買っていた顧客の一部、あとはとある事情から敵意剥き出しな理数科の連中くらいだろうか。
それを踏まえると友人でも顧客でもない、まして理数科生でもない彼女が八束を間違えずに呼べるということは、やはり面識があったとしか考えられない……とはいえ、一向に思い出せないとは、これいかに。
難しい顔のまま黙ってしまった八束を見て、少女が突然、何かを見抜いたように目を丸くした。
「もしかして、どこか痛むんですかぁっ!? そういえばさっき、おなかを殴られていましたもんね!」
「だ、大丈夫だからっ!! もう痛くも何ともないですからぁっ!!」
慌てて駆け寄ろうとした少女を、すんでのところで押しとどめる。
ただでさえ女の子相手で言葉尻が他人行儀になっているのに、これ以上近づかれると緊張して喋れなくなる。八束はたじたじだ。
「それなら……どうして難しい顔をされていたんですか?」
「え、え〜っと……なんでだろう?」
君のお名前が思い出せないからなんて、言えるわけないじゃないか。
蒸し暑さもタバコの臭いもとうになくなったはずなのに、またも息苦しくなってきた。
「そうですね……当ててみましょうか?」
ここで少女の表情が急に子供っぽくなる。可愛い……じゃなくて。今は思い出すことに専念しないと。勘付かれる前に。
八束は焦る。対する少女は「あ、分かりました」と粒揃いの歯を見せた。
「もしかして、この人たちを心配されているんじゃないですか? でしたらご安心ください。少し気絶してもらっただけですから。しばらくは起きないかと思います」
少女は「さあ、どうですか?」と自信ありげなしたり顔を見せる。これまた可愛い……って!
「そうじゃなくて! 俺が知りたいのは、つまりその……」
もどかしさのあまり、サンダルが足下のBB弾を歯ぎしりする。
「……ごめん。どうしても君の名前が思い出せないんだ」
沈黙が夜風に載って、二人の間に割って入った。
「え……?」
もっと傷つけない聞き方があっただろうに、よりによってストレートに聞いてしまうなんて。口下手な自分が憎い。
下げた頭に罪悪感が重くのしかかる。八束は手のひらに爪を立てた。
「赤羽月乃です。同じ普通科の」
ところが心配とは裏腹に、返ってきたのは実に明るい声だった。
驚いて顔を跳ね上げると、そこには憂いなど微塵も感じさせない少女、赤羽月乃がいた。
「……あっと、赤羽さん……赤羽さんね」
まさか、ああも晴れやかな笑顔が返ってくるとは……思いがけない自己紹介に拍子抜けして、握り拳が緩くなる。杞憂だったのかな?
八束は涙一つない少女の様子に首をかしげながらも、名前を復唱してみた。
赤羽月乃。
どこかで聞いた覚えのある名前だ。しかも耳にしたのはつい最近な気がする。
「いいんですよ、無理に思い出されなくたって。忘れちゃうのも無理はありません。こうしてお話するのは、去年の学園祭以来になるわけですから」
「……学園祭?」
「はい。学園祭の時、八束さんは運動部の屋台通りの傍で缶ジュースの売り子さんをされていたじゃないですか。そこでお買い物をさせていただいた時、ちょっとだけお話したんですよ」
「そうだったんだ……」
なるほど。月乃には悪いが、思ったよりも浅い関係だった。
確かに去年の学園祭の二日目だったか、八束は運動部のクラスメイトから店番を押しつけられて、小一時間、飲み物を売っただろう。校内の自動販売機が相次いで売り切れになったこともあって、それなりに繁盛したのだが、どうにも月乃はお客さんの一人だったらしい。
学外の人間だって大勢来場し、学校中が黒山の群衆で埋め尽くされたあの日なら、月乃のようにきれいなお客さんの接客をした記憶でも、人混みに埋もれてしまったって不思議じゃない。
「思い出せなくて本当にごめん。会ったことすら忘れるなんて最低だよね」
「自分を責めないでください。私は気にしていませんから……ねっ?」
「そうは言っても……って、なんか俺の方が慰められてない?」
傷ついたのは月乃の方だったはずなのに……面目ない。八束は苦笑した。
「赤羽さんも普通科なんだっけ?」
「これからはずっと同じクラスですね。不束者ですが、どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそよろしく……なんか今の、嫁入りするみたいに聞こえなかった?」
ふと先程の『やっと二人きりになれましたね』が脳裏をよぎったが……まさかな。八束は独り言を掻き消すように提案する。
「立ち話っていうのもあれだし、そろそろずらからない?……ほら。こいつらに目を覚まされちゃ面倒だし」
八束は思い立ったが吉日だと、いの一番に歩きだした。というわけで二人で出口を探すことになる。
「そういえば午前中は用事でもあったの? 学校では見なかったけど」
記憶が確かなら、オンボロ教室に月乃の姿はなかったはずだ。
月乃は制服の上から部活動のジャージまで羽織って、いかにも登校日といった格好をしているのに、どうして教室にいなかったのだろうか。
「ちょっとした野暮用がありまして。本当は行くつもりだったんですけど……」
「そうだったんだ……でも来なくて正解だったかも」
「そうなんですか?」
「行ったところでオリエンテーションもなければ、学科代表とかの役員決めもなかったし。それにみんな好き放題してるのなんのって。初日からあれを見せられると、この先やっていけるか自信がなくなっちゃうもん……って」
ふと月乃の頭に目が行った。
歩くたびに月光を瞬かせる不思議な髪……はたして、あの白い髪は地毛だろうか?
考えてみると月乃だっていっぱしの普通科生だ。凜の赤髪や玲奈の金髪のように、あのきれいな髪も普通科デビューで、わざわざ脱色したのかもしれない。
この子に限って、そんなことはないだろうが……待てよ。八束は地面に転がる不良DだかEだかの亡骸を見て思い出した。彼らを屠ったのは他でもない彼女だったはずだ。
もしかしたら月乃にも、普通科生らしいバイオレンスな一面があったりして。
「どうかされましたか?」
「あ~っと……なんでもない」
そんなわけないか。なんたって赤羽月乃は見た目通り、純真可憐な女の子なんだから。
それに八束はなんとなく思うのだった。
青白い光の正体やBB弾の出所など、あの件については深入りしない方がいいんじゃないかって。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます