第二章

5にちめ「月のような女の子」

 八束はただいま薄汚れたコンクリートを背にして、七人の怖い顔に囲まれている。

 場所はじめじめした路地裏の奥地。迷路のように入り組んだ突き当たりのため、逃げたくても逃げられない。


 ちくしょう。制服を着替えていれば、サンダルさえ履いていなければ、逃げ切れたはずなのに……とかく帰宅部のもやしっ子が嘆いている。

 こうなるなら家から出ないで、例の視線と仲良く調味料を啜っとくんだった。今さら後悔したところで後の祭りである。


 しゃくれがガムを吐き捨てる。

「なんで逃げたァ?」

 ガムをぐにぐに踏みつけながら、悪人面が八束を睨んだ。


 香料とタバコの混じった口臭が鼻を突く。

「そりゃあんな風に絡まれたら、誰だって逃げたくなるでしょう……ね?」

 声は萎んでいた。ビビりすぎて目も合わせられない。だってどいつも悪役レスラーみたいな顔なんだもん。年齢はそう違わないはずなのに、この迫力はなんだ?

 走って出た汗と冷や汗とが、じっとり混じり合う。肌に貼り付いたシャツが蒸し暑く、悪臭も相まって息が詰まる。


「そォか。そりゃあ悪いことをしちまったなァ……でもよォ、かわいそうなのは俺の方なんだわ」

 しゃくれが足下の金属バッドに手を伸ばす。

「誰かさんのせいで俺のハートはいたく傷ついた。こりゃあ慰謝料もんだ。それとこの靴にはっついたガム。こいつの弁償も合わせて五万は貰わねェと」


「言い掛かりはよしてください。純情を踏みにじったのはともかく、ガムはさっき自分で踏んづけた物ですよね? それを俺のせいにするのは、お門違いじゃないですか?」


 しゃくれは金属バッドをどう使うつもりなのか。もちろん八人で仲良く野球をしようというんじゃない。あれで八束を叩きのめすつもりなのだ。

 冗談じゃない。足が竦んでしまう。あんなので殴られたら、骨が折れるどころじゃないだろう。金属だし凹んでいるし。


「口答えするたァ生意気だ。やっぱ一〇万な」


 なんと、金額を倍に跳ね上げられた。財布には三千円も入っていないのに……どうしよう?

 フルボッコだけは勘弁してほしいが、助けを呼ぼうにも、ここは人気のない路地の奥。大声を出したところで、誰も来やしない。


「一〇万はちょっと……二千円にまけてくれませんか?」

「いちいち癪に障る野郎だなァおい。こりゃあ灸を据えてやる必要がありそうだ……」


 にったりと笑みが浮かんだ。しゃくれはバッドを握り締め、八束の頭を目掛けて力いっぱい振り下ろす――っ!?

 しかしホームラン狙いの大振りは避けやすい。とっさに上体を横へ。空振りした金属バッドが後ろの壁にぶち当たった。

 悲鳴が上がる。「痛ってえァッ!!」

 バッドが転がり、くぐもった金属音が路地に響いた。砂粒が散る。


「なんで避けたアッ!!」

「目の前にバッドが迫ってきたら、誰だって避けるだろ普通!!――って人間相手にスイカ割り感覚でフルスイングするなぁ!!」


 危うく殺されるところだった……心臓が拍動して、体中から嫌な汗が噴き出す。


「てめぇら、そいつを押さえろ」

「「うす」」頷く不良BとC。


「あ、それは反則……くそっ、これじゃ避けられないだろ!」

「当てなきゃ殴る意味がねェだろうがッ!」


 八束はたちまち取り押さえられた。必死に振り払おうとするが、まるで歯が立たない。さらに脇腹を殴られ、身動きを封じられた。万事休すだ。


 しゃくれが固めた右拳に「はぁ~……」と息を掛ける。その悪臭でパンチ力が上がるのだろうか。

 どうであれ人差し指から小指まで、指という指を着飾る悪趣味なシルバーリングの数々は、きっとメリケンサックみたいな効力を発揮することだろう。

 少なくとも鼻骨と前歯が折れるのは覚悟しなければならない……いや、覚悟したくない。


 しゃくれが目の前に立った。

「まずは右ストレートからいくか」


 あの目は語っている。サンドバッグ感覚でぶん殴るつもりだと。

 まずい……早く何とかしないと。

 右拳がめいっぱい引かれる。ミドル級の全体重を拳に載せるつもりだ。


 悪趣味なメリケンサックが月明かりに晒される。左足で踏み込んで、そして――来る!

 八束はぎゅ~っと目を瞑った。自分がぶん殴られる瞬間まで、目を開けていられなかったのだ。


「……………………?」


 ところが……変だな? いつまで経っても拳が来ない。八束は恐る恐る薄目を開けてみた。


「……えっ?」


 目の前の景色はよく分からないことになっていた。しゃくれが右拳を掻き毟るように押さえ、涙目で悲鳴を噛み潰しているじゃないか。

 いやはや、何が起こったんだ? 悲鳴を上げるのは、こっちの役目だったはずなのに。

 目を丸くしているのは八束だけじゃない。他の不良も同じ顔をしている。これはいったい……? 呆然とした者同士で顔を見合わせるも、誰も何も分からない。


 月が分厚い雲に隠れ、薄闇がいっそう濃い黒に染まる。次の瞬間、両肩が軽くなった。

「……え?」

 突然のことで、自由になった体がたたらを踏む。


 背後から上がる二人分の悲鳴に振り向くと、不良BとCがどういうわけだか膝から崩れ落ちているじゃないか。痛みに悶え、苦しそうに震えている。

 不良たちがざわめきだす。得体の知れない恐怖が足下から這い上がってくる。


 震え上がって逃げ出した不良DとE。けれど闇の中で青白い光が二度光ったかと思うと、悲鳴も足音もぴたりとやんでしまった。


 八束は息をするのも忘れていた。

 見たものはすべて景色のまま。それが何か、判別するまで思考が繋がらない。

 この路地裏で何が起きてるんだ?


「…………?」

 足下にプラスチック製の音が跳ねてきた。見ると、米粒くらいの何かが転がっている。

「これって……BB弾?」


 野太い悲鳴が上がった。青白い光も一緒だ。さっきよりも近い。またしても悲鳴と閃光が……っ!?

 目を見開いた。あれは……人影?

 見間違いじゃない。青白い閃光の中に、確かに人影らしき何かがいただろう。


 暗闇の中に何者かがいる。それは不良たちを一人また一人と仕留めながら、こちらに近づいてきている。

 いったい何者だ? 敵か味方か?

 八束は震える左足を引いて身構える。背中を壁に任せて。


「誰だァッ!? そこにいるのはッ! 隠れてねぇで出てこいッ!」


 不良Fも同じ人影を見たのか。手頃な石ころを握り、闇に向かって叫んでいる。けれど声は虚勢を張るように震えていて、腰が引けている。

 そんな恐怖に飲まれた顔も……青白い光が走った。不良Fの顔から表情が消えた。拳ほどの石ころが地面に転がり、彼自身も糸が切れたように崩れ落ちる。

 背後から小柄な人影が走り去る。そして闇の中へ。


 また見失った。「くそっ――」

 八束は視力が悪い。

 眼鏡酔いしやすい体質から普段は裸眼で生活しているが、小さな文字や遠くのものは眼鏡なしだとぼんやりとしか見ることができない。

 ただでさえ一〇メートル先の顔を識別できないのに、闇に隠れた人影など探し出せるはずがない。


 そんな八束を嘲笑うように、何者かの気配が傍を横切った。

 あかい残光が二つ。速い。

 反射的に振り向くも一足遅かった。二撃の稲妻が、蹲る不良BとCにとどめを刺した。

 そしてまたしても……正体を見定める前に逃げられてしまう。


 だが、すぐ近くまで来ているのは確かだ。

 八束はとっさに飛び退いた。拳を構え、人影の逃げた辺りを凝視する。

 どこからでも掛かってこい!……なんて大口を叩く余裕はない。今やサンダルから伸びる自分の影すら恐ろしく思える。


 息を殺す。


 あれが敵か味方か分からない今、次の狙いは自分かもしれない。

 それでも『逃げる』という選択肢は許されなかった。あれの正体が掴めない以上、下手に動けないのだ。

 とにかく背中を見せてはいけない。強迫観念に飲まれていく。


 路地裏から音が消えた。

 立っているのは八束だけ……いや、

「あ……が……」

 暗闇の中で、しゃくれが起き上がった。指輪だらけの右手も、今は力なく垂れている。

「てめェ……」

 ぜぇぜぇと荒い息とともに、剥き出しの歯茎から涎が漏れ、血走った涙目が八束を睨む。しゃくれは何かに取り憑かれたような足取りで、一歩また一歩とこちらに迫る。


 下手に動かない方がいい。そう叫ぶべく、喉に力を込める八束だったが……しゃくれが何やら取り出した。震える涙目がぎょっと見開かれ、叫ぶ。


「なにしやがったんだてめエアアアアッ!!」


 恐怖でとち狂った絶叫を上げ、しゃくれが飛び掛かる。左手からギラリと、無機質な光をぎらつかせて。

 悪趣味なシルバーリングじゃない。あれはまさか……ナイフ!?


「ええええっ!? ま、待て、落ち着けって! あれは俺がやったんじゃ――」


 八束を見据える目は、それでも八束が見えていない。錯乱している。

 迫り来るのは折り畳み式のペティナイフ。刀身は短いが、それでも心臓を一突きにするには十分な長さだろう。


 逃げなきゃ……今度こそ殺される。現実味を持った死の恐怖に、八束は逃げ出そうと後ずさる。ところが、その行為が裏目に出た。


「――っぁ!?」


 両足が交差した。まずい。足が縺れ、体が地面から切り離された。

 一刻も早く路地裏から逃げなきゃいけないのに、こんな時に限って尻餅をつくなんて。絶望の蔦が思考という思考を飲み込んで、頭が真っ白になる。


 心臓を目掛けて迫るナイフ。

 無様に尻餅をつく八束。

 待ち受ける結末。一巻の終わり。


 ナイフが心臓に辿り着くまでの数秒間、十秒にも満たない一瞬のはずなのに、八束には途方もなく長い時間に感じられた。

 周りの景色が、飛び掛かるしゃくれの動きが、スローモーションのように長く、ゆっくりに引き延ばされる。聴覚も嗅覚も死んでしまった。

 八束はまるでサイレント映画でも眺めているような、不思議な感覚に落ちていった。


 だが突然、目前を白銀が駆けた。

 ……人影? 緩んだ時間が引き戻される。

 息を吹き返した嗅覚が真っ先に感じ取ったのは、優しげな残り香だった。


 二つの紅が尾を引く。白銀の影がしゃくれの前に立つ。八束を守るように。


 影はナイフを叩き落とすと、続けざまに二発目、三発目の打撃を懐へ。よろけたところにもう一発、膝蹴りを入れ、跳ね上がった顎に容赦なく回し蹴りを食らわせた。

 一瞬だった。

 しゃくれの巨体が地面を転がって、動かなくなった。少し遅れて、暗闇のどこかでナイフの落ちる音がした。そして路地裏に静寂が訪れた。


 疾風のように現れ、そして去った危機。命拾いした八束は拍子抜けする。助かった……のか? よく分からないが、あの影に助けられたようだ。


 八束は尻餅をついたまま、ぼんやりと救世主の背中を見上げた。絶体絶命の窮地から救ってくれた彼は、どんな顔をしているんだろう?


 雲が流れ、月がまた姿を現す。

 薄闇が晴れる中、彼が振り返る。

「……えっ?」


 透き通った白い肌。

 西洋人形を連想させる、整った顔立ち。

 月光を吸い、幻想的な色彩を放つ白い髪。

 ルビーのように澄んだ瞳。


 は息を呑むほど美しい女の子だった。


 月明かりの下で、少女が微笑む。

「お怪我はありませんか?」


 その声は透き通ったガラス色。鼓膜に触れた途端、まるで砂糖菓子のように耳に馴染んでいくような、心地よい響きだっただろう。

 八束はしばらく言葉を忘れてしまった。

 澄んだ紅を見ていると、路地裏の蒸し暑さも、生死不明のまま転がったしゃくれたちや青白い光の正体も、つい先程まで生きるか死ぬかの瀬戸際にいたことさえも頭から消えてしまう。


 いま見ているのは夢じゃなかろうか。思わず頬をつねりたくなるくらい、少女の美しさは現実離れしている。

 物語に登場するお姫様のような、絵画の向こうの聖母のような、誰をも魅了する理想的な『美』が彼女には揃っている。

 いや……彼女を前にすると、自分がいかに『美しい』を軽々しく使ってきたかを痛感させられる。それしき言葉では力不足な気がしてきた。


 だったらどう表そう?……そうだ。

『夜空に浮かぶ、あの月のような女の子』というのはどうだ?

 ありきたりな表現だが、八束にはこれこそ彼女を表すのにぴったりな言葉に思えた。

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