4にちめ「逃げるが勝ちは負けフラグ」

 ラーメン屋を出た後は、そのまま夕方まで遊び歩いた。

 ダーツやらビリヤードやら。地味な人間には馴染み薄な遊びばかりだったが、友達と一緒だから十分楽しめた――と小学生レベルの感想でもまとめておこう。

 空が赤い。マンションへ帰る頃には、遊び疲れてくたくただった。鍵を開けて、ドアノブを回す。


「ただいま~」


 もちろん一人暮らしだから『お帰り』を返す家族はいない。それでも言わないともっと寂しくなるから、八束はなるべく『ただいま』を言うよう心掛けていた。


 玄関の明かりをつけ、靴を脱ぐ。そのまま勉強机に直行。カバンを置き、ハンガーにブレザーとネクタイを掛ける。靴下を脱ぎ、それから首をぐるんぐるん。肩こり持ちの八束に手提げカバンはどうも相性が悪い。


「この際、買い換えちゃおうかな……でも、そんなお金はないし」


 そう呟きながら、靴下を洗濯籠にぽいっ。今度は台所のシンクへ。うがいや何やをして、タオルに手を伸ばした。

 やっぱり肩こりがひどい……ぐにぐに肩を揉みながら、冷蔵庫を開ける。


「さてさて、今日の夕御飯は……何もない。そういえば食材を切らしてたんだっけ」


 つい昨日まで二泊三日の帰省をしていたこともあって、冷蔵庫はすっからかん。ペットボトルが一本と、ケチャップなどの調味料しかない。


「さすがに調味料をおかずにお茶を啜るのはひもじいな……仕方ない。買い物に行きますか」


 立ち上がった……その時だった。

 が背中を舐めた。

 この視線は八束のよく知るものであり、今日はまだ遭遇していなかったものでもある。


 間違いない、例の視線だ。

「――っ!?」

 はっと振り返る八束だが、もちろん一人暮らしの部屋に『何者か』などいるはずがない。


「気のせい、だよな……」


 声が震えていた。気のせいだと思いたいが、鳥肌が治まらない。嫌な寒気がする。

 こんなことは初めてだ。今まで跡をつけられることはあっても、気配が家に上がり込むことは一度もなかったのに。


「何なんだよ、もう……」


 八束は気味の悪い視線に追い立てられ、早足で勉強机へ向かった。

 財布を取って、さっさとスーパーに行ってしまおう。そう思ってカバンに手を伸ばしたのだが――、


 手が止まった。「えっ……」

 まさか……電池切れの置き時計の針が、なぜか動いている。


 一瞬、電池が息を吹き返しただけかと思った。けれど置き時計は時刻通り『五時二六分』を指しているじゃないか。電波時計の機能なんてついていない安物なのに。

 こんなの、留守の間に誰かが電池を入れ替えたとしか考えられない。つまりこの部屋には……八束も知らないが出入りしている!

 八束はすっかり青くなって、カバンから財布と携帯電話を引っ張り出し、制服のまま家を飛び出した――。




「やっぱり疲れてるのかな?……はぁ」

 ラーメン屋で玲奈が冗談っぽく言っていた『憑かれている』という線も、なきにしもあらずかも……なんて。

「そんなわけないか」


 夕方の道路は賑やかだ。下校中の中高生や仕事帰りのサラリーマン、タイムセール目当てでスーパーに急ぐ奥様方等々、とにかく人が多い。

 だからだろうか。家を出てから例の気配は一切感じなくなっていた。


 しかし憩いの場の家でさえ、例の怪奇現象じみた気配を感じるようになるなんて……この先どこで休息をとればいいのやら。

 やっぱり一度、警察に相談してみようか?

 真面目に検討するも、すぐに溜息をついた……駄目だ。証拠も何もないじゃないか。


「まあ気を取り直して、夕御飯のおかずでも考えますか」


 これ以上悩んだって堂々巡りするだけで、何の解決にもならない。ストレスが溜まるだけだ。ここは気分転換に別のことを考えよう。

 なにも現時点でストーカーがいると決まったわけじゃないんだし。それに気配の正体がノイローゼの見せる幻覚だったとしたら、それこそ深く考え込まない方がいいだろうから。


 というわけで議題は今晩のおかずだ。

 自炊族の八束は朝昼晩の三食を自分で作っている。

 立ち読みや主婦友達との立ち話で得たレシピを参考にしては、お財布と鮮度、旬なんかも考慮して、いろいろ挑戦してみたり。男の一人暮らしのくせに、真面目に主婦業を営んでいたりする。

 とはいっても料理好きなわけじゃなく、ご飯はちゃんとしたのを食べたいという一心で頑張っているだけなのだが。


 近くの台所からきつね色の匂いが漂ってきて、空っぽの胃袋を刺激する。夕御飯のおかずにコロッケでも揚げているのだろうか。

 コロッケもありかな?……いやいや。八束は難しい顔で首を振る。


「今の時期といえば、やっぱりタケノコか。でもタケノコって下拵えがいちいち面倒だから……そういえばこの間、ホタルイカの水揚げがニュースになってたっけ。ホタルイカもありかな……って」

 八束は立ち止まった。

「……なんか俺、さっきから独り言ばっかり言ってない?」


 先程からずっと独り言を呟いている気がする。すれ違った中学生に変な目で見られたのは多分そのせいだろう。

 独り言といえば……八束はふと、ヘミングウェイ作『老人と海』の一節を思い出した。

 確か作中の『老人』曰く、独り言をするのは『そのために迷惑するものもいないから』だそうだ。

 すると八束が所構わず呟いているのも、それを聞いて迷惑がる人間が傍にいないからかもしれない。なにしろ今は独り身だから。


「…………」


 大海原に一人ぽつんと取り残されたような孤独……とまではいかないが、無性に寂しくなってきた。

 八束は思った。

 凜が言っていたように、ストーカーらしき気配に悩まされる今だからこそ、独り言を会話に変えてくれる誰かの存在が必要なのかもしれない。

 とはいえ、ないものねだりに過ぎないのだが。なんたってあの玲奈に色物扱いされた八束さんだもんな!……独り言の代わりに溜息をついた。


 目的のスーパーマーケットは近い。大通りに入ったため、人の数が倍に膨れ上がった。知っている顔もちらほら確認できるだろう。同級生だ。

 けれど気付いたからといって、挨拶を交わすことはない。顔見知りだろうが、向こうがそれを望んでいないのだ。


 部活帰りだろう、重そうなエナメルバッグを肩に掛ける体育科生のグループが、こちらに気付いたようだ。途端に『げっ、普通科の鮎沢……』と揃って嫌な顔をされた。そのまま他人ぶられて素通り。目すら合わせてくれなかった。


 いやはや、去年まではテストの山を提供してあげる仲だったのに……まあ、それも仕方ないのか。

 というのも学校のお荷物である普通科生は同級生にも嫌われている。


 普通科生は落ちこぼれだ。在籍していてもエリート校のブランドには何の足しにもならず、それどころか問題ばかり起こすから面汚しでしかない。

 そんな連中と誰が仲良くなる? 誰だって縁を切りたくなるはずだ。

 普通科生は西園高校に在籍する生徒の大半から疎まれている。とりわけ自分をエリートだと自負している人間は、あからさまに嫌悪感を曝け出す傾向にあるだろう。


 それを踏まえて体育科生たちの目を思い出してみると、どれも道端で馬鹿騒ぎする不良集団を見るような、蔑むような目だった。

 ちょうどシャッターの下りた店先でたむろする、あのゴロツキのように――。


 去年までレコードショップだった店の軒先は、不良の溜まり場となっていた。

 通行人の迷惑なんて毛頭気にしないのだろう、柄の悪い男たちがシャッターを背にタバコを吹かしたり、通りかかった女の子にナンパなんかをしている……って、


「なに見てんだ、てめぇ」


 他の誰でもなく、八束を目掛けてずかずか近づいてきた不良A。しゃくれた顎をぐわんぐわんしゃくらせながら、すごい形相で威嚇してくる。

 これはあれだ。俗に言う『ガンを飛ばす』というあれだ。


 ヤバい……本物の不良に絡まれた。途端に血の気が引いた。

 まずいことになった。八束は青ざめた顔を下に、目を四方八方に泳がせる。


「えっと……」


 周りの通行人は誰も助けてくれない。知っている顔も知らない顔も『お気の毒に』と見て見ぬ振りをする。

 そりゃそうだ。こんな傷害事件の一歩手前みたいな場面に出くわしても、首を突っ込もうなんて誰も思わない。夫婦喧嘩は犬も食わないのだから、不良の喧嘩なんて誰も食いやしないのだ。


 ガムでも噛んでいるのか、しゃくれた顎が頭上でぐわんぐわん揺れている。

『目が合ったら即バトル!』だなんて、どこぞのRPGの敵キャラみたい。沸点が低いのか、友達の少なさゆえ出会いに見境がなくなっているのか。

 ともあれ、こういう場面は次のような言葉で切り抜けるのが正攻法だろう。


 八束は大きく息を吸って、

「ごめんなさい!」


 頭を下げる角度は、ぴったり九〇度。それからすぐに猛ダッシュ。

 つまりは『三十六計逃げるにしかず』。苦しい時の兵法頼みだ。


 人混みを掻い潜り、商店街を駆け抜ける。目的地だったスーパーまで辿り着いたが、もちろんタイムセールに参加している余裕はない。必死に腕を振った。


 ちゃんと謝ったんだから許してくれるだろう。八束は全力疾走しながら、後ろの様子を窺ってみた――が、

「なんか告る前に振られたみたいじゃねぇかアッ!」

 吠える不良A。柄に似合わず、ハートは純情だった。


「「「待てやゴラアアアアッ!!」」」


 不良A……愛称『しゃくれ』を筆頭に、七人の不良が八束を捕まえんと立ち上がった。いろいろと理解が追いつかないが、鬼ごっこの開幕である。

 はたして八束は、不良たちから逃げ切れるのか?

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