02
ちょっと押すだけでも、パンケーキは結実子のナイフの角度通りに沈み込む。弾力のあるクッションみたいだ。
傾いてこぼれ落ちそうになる生クリームの先端を、
「あ、ごめん」
「あたしも押さえたほうがいい? 縦に切るんでしょ」
「うん。それから六等分か八等分にしたほうが食べやすくなるかも」
「わかった」
クリーム自体はあっさりしていそうだが、メイプルシロップとまざり合っているし、全体の量が量だから
教授の声が、俺の脳内に流れてきた。
『ちなみに、今の君は両腕を上下左右に動かせば視点を切り替えられるぞ。やってみなさい』
「マジっすか」
天才か?
俺は壁になってはいるが、五感は正常に働いているし、身体の感覚もちゃんとある。
言われた通り、試しに右腕を伸ばしてみると、ぐるんと空間が時計回りに回転した。怜佳のちょうど真後ろから二人を眺める位置に変わる。
「おぉ、すごいですね!」
『天井や床からも観察できるようにしたからな。仮想空間だからこその立体感も追求してみた』
「この装置、うまくいけば特許も取れるんじゃないですか?」
『はっはっは、まだ実験段階だぞ。焦るな焦るな』
上機嫌な教授の言葉も、俺の感動の声も、女子二人には当然聞こえない。
ゼミに入ってよかった。この装置のためだけに、〈ショーゲキジョー!〉の版元やアニメ制作会社に交渉してオリジナルのシチュエーションで制作してもらい、怜佳役と
百合作品に登場する男キャラはモブでも邪魔だ――なんて過激な意見も、ネットじゃよく見かける。だが、こうして〈壁〉にさえなっていれば自分はモブにもならない。画期的だし最高かよ。
怜佳がナイフを平たくパンケーキに当て、フォークで反対側を軽く押さえる。結実子のナイフの先が自分のほうへ慎重に進んでくるのを見つめるうちに、怜佳は小さく笑った。
「どうかした?」
「なんか、ウェディングケーキの入刀みたいだなって」
「えぇっ?」
結実子のうろたえる声と同時に、フォークの動きもぶれる。
その反応もまたかわいくて、俺のにやけ顔はひどくなる一方だ。ナイス、怜佳。
「結実子の顔、やたら真剣だし」
「そんなに?」
「デートに誘って正解だった」
「もー、怜佳ってば」
むくれた結実子の表情は、すぐに照れ笑いに変わった。
いつもは台本のページをめくったり小道具を作ったりしている指が、今はパンケーキを切ることに使われている。それも、怜佳と一緒に過ごす時間だからこそだろう。俺の口角も自然と上がる。
やがて、どうにか八等分に切ったパンケーキを、二人は四切れずつ分け合った。
俺はまた腕を伸ばし、テーブルが中心になる横からの視点に切り替える。
いただきます、と推し二人は笑顔で料理を口に運んだ。
生クリームやメイプルシロップとまとめて味わう一口分のパンケーキは、やっぱりふんわかとした食感なんだろう。噛めば噛むほど濃密な味になっていくのかもしれない。超絶山盛りの生クリームを、二人はパンにジャムやマーガリンを塗るように、パンケーキの表面や側面に少しずつ塗りつけながら食っていく。
結実子が、満面の笑みで喜んだ。
「おいしーい! これヤバい、ほっぺた落ちそう!」
「よかった。あたしが万が一ギブアップしたら、結実子にあげるね」
「え、うん。それはそれでうれしいけど、怜佳もがんばって」
「善処する」
「完食したら、賞品もらえるんだっけ」
「らしいよ。でも、それも結実子にあげる」
「え、怜佳はいらないの?」
手を止め、意外そうに見つめる結実子に、怜佳は微笑みだけ返す。
怜佳にとっては、結実子としゃべったり笑ったりする時間と空間こそが、何よりも幸せなご
ボリューム満点のパンケーキを、怜佳は合間にオレンジジュースを飲みながら胃に収めていく。甘さと酸味が口の中で躍り合うのも、演劇に似ているかもしれない。それぞれの持ち味をバランスよく主張するという意味で。
結実子のほうが、食べるペースが怜佳よりちょっと速い。ものすごい早食いというわけでもないが、やっぱり好物は別腹扱いなのか。もぐもぐと動く頬はゆるみっ放しで、笑みも絶えない。
その
怜佳がスッと伸ばした指で掬い取り、舐めた。結実子の体温がほんのりと移ったものを。
「クリーム、付いてるよ」
「え、あ……ありがと」
戸惑って揺らぐ結実子の瞳が、照れたように怜佳を見た。
ナイス! さすが怜佳!
自分の存在が〈壁〉になっているのに、ガッツポーズできる感覚がちゃんとあるのも、なんか笑える。
「怜佳って、たまにさりげなくどきっとするようなことやるよね」
「そう?」
何でもないように振る舞う怜佳だが、その胸の中心はきっとドキドキしているだろう。部内オーディションや公演本番の緊張感とはまた別の、高鳴り。
作品本編序盤の怜佳は、演劇部の若い女性顧問に恋をしていた。結実子への感情は、それとはまたちょっと違っているはずだ。怜佳は、本編ではまだ告白してはいない。
結実子は、怜佳とは親友でい続けたいと思うだろうか。この想いが恋やそれよりもっと深いものかもしれない――なんていつか怜佳が伝えたら、結実子は拒んで離れちまうだろうか。
それでも、怜佳は自分の気持ちに嘘はつきたくないはずだ。今までも、これからも。
――あたしは、結実子の〈特別〉になりたい。
本編でそういう
怜佳が一切れ目のパンケーキをやっと食い終わろうとしていた時、不意にずいっと別のそれが差し出された。
「はい、あーん」
フォークの差出人は、いたずらっぽい笑みを浮かべて怜佳に催促する。
マジか、そこでそういうことするか! たまらんぞ、結実子!
意外だったのか、怜佳も何度かまばたきをした。
アを発音する形に開いた口へと、パンケーキのかけらがやわらかく押し込まれる。ん、と閉じた唇に、フォークの先端がかすかに触れた。
あれ? この後、結実子が自分のパンケーキを食ったら、間接キスになるな。わかっててやったのか? 最高か?
「やっぱり、一緒に食べるとおいしいね」
「うん」
結実子のとびきりの笑顔が、今の怜佳にとっては最高のデザートだろう。
なんかもう、ごちそうさまですとしか言いようがない。世界の誰よりも先に、推し二人の特別なドラマを仮想空間で鑑賞できる幸せを、生クリーム超絶山盛りパンケーキの代わりに噛みしめる。
パンケーキ完食制限時間が一時間なら、この立体映像も一時間以内には終わるか。まだほんの数分しか経っていない気もするが。今の時点でも充分面白いのに、一体これ以上何が起きるっていうんだ。
俺がごくりと生唾を飲み込むと、結実子がアップルティーのカップから口を離して言った。
「ねぇ、怜佳」
「ん?」
「先生のこと……もう吹っ切れたんだよね?」
「うん。そうじゃなかったら、文化祭でも本気出せなかったよ、きっと」
演劇部の女性顧問は、過去に旦那を病気で亡くした。その事実を知らずに片想いしていた怜佳は、知っていてあえて黙っていた結実子と口喧嘩をしたこともあった。だが、その後勇気を出して顧問からその詳細を聞き、結実子と一緒に旦那の墓参りに行ったのだ。顧問のこれからの幸せを願って。
「そっかぁ。ならよかった」
「改めてごめん、いろいろ迷惑かけて」
「ううん。わたしこそ、ずっと黙っててごめんね。怜佳が先生の旦那さんのこと知ったら、傷つくんじゃないかと思って……なかなか言い出せなくて」
「公演にも影響が出ると思ったんでしょ。でも、あたしは教えて欲しかった」
パンケーキを一口サイズに切る怜佳のフォークが、皿に当たってカチンと硬い音を立てた。
「確かにショックだったよ。先生は独身だと思ってたし。でも、事実なら事実としてちゃんと受け止めたかったから」
「うん……」
「結実子はいつも部員全員に気を遣ってるし、あたしのことも心配してくれたんだよね。それは素直に感謝してる」
黒い
なんか、いい雰囲気になってきたぞ。まさか、このまま怜佳が結実子に……!?
アニメじゃ拝めなかった神展開が繰り広げられるなら、期待しないわけがない。
「あたしは言いたいことはその場でハッキリ言うから、先輩や同期が退部していったのも、大体はあたしのせいだとは思う。ぶつかっていくから敵を作りやすい」
「怜佳、それは――」
「先生もあたしの肩を多少持ってくれたけど。人間関係も含めて部として成り立たないなら、このままあたしも辞めて廃部になったほうがいいのかな、ってヤケになってた時期もあった。先生の負担を増やしたくなかったし」
パンケーキをちょっとずつ口に運びながら、怜佳は淡々と思いを打ち明ける。
結実子はフォークを動かす手を止め、怜佳の次の言葉を待った。舞台の幕が開く直前と同じくらいの、適度に緊張した表情で。
「そんな中でも、結実子だけはあたしの味方でいてくれたよね。すごく頼もしかった」
「だって……怜佳の言い分は、何も間違ってなかったから。先輩たち、いわくつきだからって、あの台本を捨てようとまでしたし」
「ありがと。卒業生が書いたものだし、あたしたちの判断で勝手に処分するわけにもいかないしね」
「わたしもホラー苦手だから、実際に中身を見るまではちょっと怖かったけど。テーマも話も面白そうだったし、怜佳が本気で[[rb:演>や]]りたいって言ってくれたから、一緒にがんばろうって思えたんだよ」
結実子の真剣な眼差しにも、訴えかける声色にも、怜佳への信頼が満ちあふれている。
俺の百合脳だと、メイプルシロップのとろりと絡んだ生クリームが、二人の関係を表しているようにも見えた。それをぱくりと一口分味わい、怜佳は唇に冷たい笑みを浮かべる。
「バカみたいだよね、『この劇を最後まで演じたら、自分が恋した相手は必ず死ぬ』なんて。確かにあたしは先生に失恋したけど、公演は大成功だったし、部員もみんな元気だし」
「やっぱり、ただの噂だったんだよね。思い切ってチャレンジしてほんとよかった。わたしも後悔してないよ」
山盛りの生クリームをパンケーキに塗りつけながら、結実子はほっとしたように微笑んだ。
演劇部の〈呪いの台本〉は、ずっと部室の棚に保管されていた。掃除した時にそれを見つけた怜佳が上演したいと提案しても、上級生たちは激しく拒否し続けた。それを
「わたし、八方美人だなって自覚あるし、怜佳をイライラさせちゃったこともきっとたくさんあると思う。でも、怜佳がわたしの欠点をちゃんと言ってくれたから、しっかり向き合えた。いつも自分の意見がハッキリ言える怜佳はほんとかっこいいし、演技も上手いし、わたしの憧れだよ」
「ありがと。でも……憧れだけ?」
「え?」
きょとんとする結実子に、怜佳は意味ありげな意味を浮かべる。パンケーキの小皿を一旦脇へ除け、テーブルの上で軽く腕を組んだ。
「あたしは、結実子に憧れられるより、ずっと隣を歩いて欲しいって思うよ。雲の上にいるわけじゃないんだし」
「あ、じゃあ、ええと……対等でいたい、のかな?」
「そういうこと」
怜佳の片手が、フォークを握る結実子のそれにそっと重なる。
いいぞ、いいぞ。こういうさりげないスキンシップもたまらん。
「あたしが意見を言うのは、別に『かっこいい』とか褒められたいからじゃなくて、単純に自衛のためなんだよね。嫌なことは嫌って言うし、問題を解決するにはどうしたらいいかって提案もちゃんとしたい。芝居っていうか部活は全員で協力しないと成り立たないしさ。あたしの独りよがりじゃ意味がない」
「うん」
「ただ、自分の主張だけを押し通して孤立したら元も子もないし、頼れる誰かがそばにいてくれないと心が折れそう」
「それが……わたし?」
意外そうに訊く結実子に、怜佳は真剣に[[rb:肯>うなず]]いた。
「でも、わたしより頼り甲斐のある人なら、ほかにもいるよね」
「ううん、結実子じゃないとだめ」
「えっ、な、なんで?」
怜佳の押しの強さにたじたじになる結実子にも、俺はニマニマしちまう。
いいぞ、もっと攻めてくれ。
怜佳の顔に微苦笑が浮かぶ。
「先生のことで限界オタクみたいになってたとこ、結実子にしか見せらんないしさ。あんまり他人に自分の弱みは見せたくないけど、結実子には安心して吐き出せる」
「限界オタクって……まあ、先生絡みではしゃいだりときめいたり死んだ魚みたいな目になったりする怜佳は、見てて楽しかったけどね」
「最後のやつは忘れて欲しい。きっとひっどい
「やだ」
「えぇー」
「怜佳のそういうとこは、わたししか知らないんだなってうれしいから、ずーっと
押される一方かと思いきや、にんまりと笑って反撃する結実子もまたたまらん。
拗ねたようにちょっとむくれる怜佳だったが、すぐに自信に満ちた不敵な笑みに戻る。
「結実子にも、あたししか知らない
「え、怖っ。たとえば?」
「たとえば――」
席を立った怜佳は、フォークを握る結実子の手を取り、甲に軽くキスをした。
動作も流れも自然すぎて、結実子も俺も固まっちまった。
「れ、怜佳?」
「言っとくけど、これは芝居じゃないから」
「え、えっ?」
頬を赤らめてあたふたする結実子の
「文化祭が終わったらこうしようって決めてた。だから最後までやり切れた」
耳元に顔を近づけ、彼女は仲間であり親友でもある女の子に告白した。
「――あたしは、結実子の〈特別〉になりたい。この世界の誰よりも」
怜佳がぎゅうっと結実子を抱きしめると、彼女も怜佳の背中におずおずと両腕を回した。
「ほ……ほんとに、わたしでいいの?」
「結実子じゃないとだめって言ったでしょ。信じられない?」
「そんなことない!」
混乱もあってか、泣きそうな顔で結実子は即答する。怜佳の肩に顔を埋めるようにして、感極まった声をこぼす。
「わたしも……怜佳とずっと一緒にいたい。選んでくれて、好きでいてくれてありがとう」
「結実子……!」
そして嬉しげに見つめ合った二人は、ついにゆっくりと唇を重ねた。
は? 最高かよ。
俺の脳内に、『I will always love you』が大音量で流れ始めた。
よし、ここに結婚式場を建てよう。むしろ、このカフェ自体がそうなればいい。
こんな素晴らしすぎる装置を造ってくれた教授、完璧な作画で二人とその場面を表現してくれたアニメスタッフさん、全力で演じてくれた声優さん――本当にありがとう。
れいゆみ、てぇてぇ。マジで生きててよかった。
尊すぎる光景に合掌し、俺も泣いた。
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