1−3「唐突なる退職」

「…やっぱりさ、佐々木さんは病院に行った方がいいよ。体じゃなくて心のさ」


 会社に戻った直後、先輩は私を給湯室に押し込めるなり、そう言った。


「電話の受け答えがまともにできないし、書類も確認しないとミスばかり。少しでもきつめに注意すれば、今回みたいに急にどっか行ったり、過呼吸になるし…多分、根本的な問題があるんでしょ?薬をもらって、しかるべき施設に行かなきゃ治らないんじゃない?」


 トイレに行くのは泣きに行くため。

 過呼吸になるのはそれを我慢してしまうため。

 すでに行っていた精神科医は「環境を変えろ」の一点張りしかなかった。


 …でも、ここで我慢しなければならない。

 そうしないと今後も社会に馴染むことができない。


「佐々木さんは頑張ろうとしているのはわかるよ?でも、どんなに努力しても、根本がダメならそれが解決できない。この意味わかる?わかってないでしょう、目を見ればすぐにわかるんだから」


 ぐちぐちと続く言葉に「…ごめんなさい」と謝ると「全くよ」と返ってくる。


「今日はもう帰ったら?有給使いなさいよ、医者に行って話を聞いてきたら?」


 ぐっと胸の詰まる感覚と共に目頭が熱くなる。


 …いけない、また泣きそうになる。

 ここで泣いてはいけないと口を開けるとヒューヒューと息が漏れる。


「あー、また過呼吸?こっちで上に話しておくから、ちゃんと病院に行ってよ。明日には診断結果を話してもらうから…それとも一緒について行ってあげる?」


 心配そうな顔をしながらも、内心ではイラついている先輩。


 最初こそ彼女は私に親身にしてくれたが、時間が経つにつれ、プライベートにズカズカと侵入し、人を追い詰めるのが得意な人だと知った。


 …でもこれでは、もはや逃げ道すらない。

 病院から診断書が出たら会社を辞めねばならない。


(そうなってしまったら…生活していけない)


 私は顔を隠すように頭を下げ「一人で大丈夫です…帰らせていただきます」と半ば枯れた声をあげ、逃げるように荷物をつかんで自分の車へと転がり込む。


『…こりゃひどい、端から見てもパワハラじゃないか』


 会社と自宅の途中で車を止めて嗚咽を漏らす。

 スマートフォンから聞こえる【師匠】の声にすら応える気力がない。


 …結局、頑張ってもこうなるのか。

 必死に会社にしがみつこうと耐えての仕打ちなのか。


 【師匠】はしばらく黙っていたが、やがて溜息をついてこう言った。


『こんな職場辞めちまえ。怪獣一体を転送すると500万円入金されるしな』


 途端にガバッと顔を上げる私。

 …そんな大金、今まで聞いたことがなかった。


 【師匠】は続ける。


『体に変調が出ている時点で辞めた方が良いんだよ。それでも、お前さんが無理して仕事にしがみつく理由としては…多分、金に困ってるんだろ?』


 …イエスっていうか、普通はそんなものだろう。


 人は仕事をしたくてしているわけではない。

 趣味を仕事にできるのなら楽しいだろうが、そうではない人がほとんどだ。


 生活するには金がいる。

 金は勝手に湧いてくるものではない。

 稼ぐためには頭か体を使わねばならない。

 でも、私にはその両方が欠けていて…


『だから俺が指導してやるって言っているんだ。そうすれば、お前さんは少なくとも生活には困らない身分にはなれるさ…と、お前さんの会社から電話だぞ』


 通話ボタンを押せば人事課からの電話だった。


『…ああ、ようやく繋がりましたね佐々木さん。先ほど、人事部長が貴女の先輩と相談して現状を確認させていただいたのですが…結論から言いますと、明日から仕事をお休みしてください。本人の証言と証拠のテープはいただきましたから、労災扱いで今月の欠勤は有給扱いに、退職金については後日書類を送ります』


 唐突といえばあまりに唐突な話、私は慌てて聞き返す。


「ちょっと待ってください…退職金って何ですか?私、辞めるんですか?」


 すると相手は「いえ」と否定する。


『退職は来月末です。その日まで佐々木さんの口座には月ごとの給料が振り込まれますし、今まで受けていたハラスメントの状況を鑑みて人事部長が休むよう指示を出したもので…と言っても、会社の電話回線やパソコンが先ほど復旧したので書類の送付は明日になりますが…よろしいですよね?』


 そして「もういいだろ」と言わんばかりにプツンと電話は切れてしまう。

 同時に【師匠】の声が響いた。


『…さっきの給湯室の会話を録音して、匿名でお前さんの会社の人事に送らせてもらったんだ。証拠も揃っているし退職理由としても十分…良かったじゃないか、場合によっちゃあ退職金も出ない場合もあるからな。これで書類が届けば、後腐れなく仕事を辞められるぞ』


 【師匠】の声にヘナヘナと力が抜ける。

  

 …こうして私は明日から会社に行く必要がなくなってしまった。

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