第8話 幼馴染失格⑤
それは、ずっと……そこにあった気がする。何かが喉の奥につっかえているような……そんな息苦しさを、ずっと感じていたんだ。あのとき――まりんの見舞いに部屋を訪れ、その一言を言い損ねてしまったときから……。
ようやく――だ。
ようやく、言えた。
すうっと胸が軽くなるのを感じながら、同時に、どっとこみ上げてくるものを感じた。勢いよく何かが押し寄せてくる。まるで箍が外れたみたいに……言葉が溢れてくるようだった。
「ごめん――」と俺は噛み締めるように再び言って、まりんを力強く見つめた。「あのとき……置き去りにしてごめん。一人にしてごめん。ずっと後悔してたんだ。あのとき、ちゃんと傍にいなかったこと。俺のせいで、もう少しで、まりんは死にかけ――」
「違うよ、ハクちゃん!」
ハッとして顔色を変え、まりんは俺に詰め寄り、腕をきゅっと掴んできた。
「ハクちゃんのおかげで、まりんは生きてるんだよ。あのとき、ハクちゃんが助けに来てくれたから、まりんは今、こうしてここにいるの」
芯の通った力強い声だった。
緊張が滲む、深刻そうな面持ちでまりんは俺をじっと見つめ、一語一語、丁寧に紡ぐように続ける。
「まりん、頑張ったんだよ。あの日から……二度と、ハクちゃんを泣かせないように、て一人で頑張ってきたの。いっぱいクラスの子に話しかけて、たくさんお友達も作ったし、ママやお医者さんの言う事、ちゃんと聞いた。どんなに嫌なことも我慢してやった。面倒臭くても検診は欠かさず行って、呼吸法も練習して、お薬もしっかり飲んだ。全部……ハクちゃんのために頑張ってた。ハクちゃんのおかげで……頑張れたんだよ」
「……」
そう……だったのか――と声にすることもできなかった。
感心するよりも、単純に驚いていた。
知らなかったから……。
確かに、あの日からまりんの周りには女友達の姿が見えるようになった。気づいてなかったわけじゃない。ちゃんと気づいてはいても……俺はきっと、見てはいなかったんだ。まりんが無事かどうか――それしか、俺は見ていなかった。それ以外はどうでもいいことだったから……。まりんの体調以外の変化に関心がなかったから……。
だから、知らなかった。まりんが、そんな努力をしていたなんて。
「ハクちゃん……気づいてる?」
するりと俺の腕から手を離し、まりんはどこか哀愁を帯びた微笑を浮かべた。
「発作……もうずっと出てないんだよ。軽い発作も……その兆候も、小五の時からずっと出てないの。お医者さんもね、中学生になって初めての健診で、『もう立派な普通の女の子だね』って言ってくれたの。身体も成長して、薬も効いてる。体質だから『完治』することはないけど、前ほど神経質になる必要はない。激しいスポーツはまだ勧められないけど……無理さえしなければ、もう『普通』に生活していい、て。
だから……ママもパパももう心配してないんだよ。まりんのこと、信じてくれてる。ママもお仕事始めて、家から出るようになって、パパと喧嘩することも無くなった」
「あ……」と目を丸くする。
確かに、そうだ。
中学になってしばらくして、おばちゃんがパートを始めたらしい、と母親から聞いた。
そのときには、まりんも部活を始めていたし、おばちゃんは六時には帰宅していたから……まりんが夜に一人で留守番――なんて事態になることもなく、大して気にしていなかった。
なるほど、そういう事情があったのか――と言いたいところだが。
……妙だ。
「しかし、まりん……」と思い返して、眉根を寄せる。「たしかに、発作はしばらく無かったが、最近まで兆候は出ていただろう」
「へ……?」
「急に顔に火照りが見受けられたり、呼吸が荒くなったり……だな。よく苦しそうにしていた」
すると、やはり……まりんの顔はかあっと真っ赤に染まり、
「それ……違……だから、それも……ハクちゃんが……!」
「俺が……?」
「は……ハクちゃんが……」
言いさし、俺を見つめるまりんの眼にじわりと熱がこもるのが分かった。
何かを言いたげに……しかし、キュッと唇は固く引き結び、まりんはしばらく黙り込んでから、ついと視線を逸らし、
「ハクちゃんが――熱過ぎるからだよ!」
「俺が……熱過ぎるから!?」
なんだって――て、いや、全く良く分からんぞ!?
「どういうことだ、まりん!?」
ガシッと両肩を掴んで訊ねると、「ひやん!?」とまりんはびくりと飛び跳ね、
「だから、こういうことだよお!」
わあ、とやけになったように叫んで、俺の胸に手を置き、ぐっと俺を押し退ける。
「こ……こういうこと……?」
「とにかく……」と顔を赤らめたまま、まりんは俯き、「もう……厭なの! やめてほしいの」
「やめて……ほしい、て……」
熱過ぎるのを……か? しかし、そう言われても……イマイチ、俺の何がそこまで熱過ぎるのか、よく分かっていないから、なんとも対策のしようがないのだが。
目を白黒させるしかない俺の胸元を今度はぎゅっと掴むようにして、「ハクちゃんだけ……なの」とまりんは切なげな声で言う。
「ハクちゃんだけが……まりんをまだ、あのときのまま見てる。まりんのこと……いつまでも、あの日、死にかけた子として見てる」
ギクリとして、反射的に身が強張る。
死にかけた子――そう言われて、はっきりと思い浮かんでしまう。まるで、今、目の前にいるかのように。ぐったりとして、泥にまみれて横たわるまりんの姿が……。
「だから、ちゃんと……見てほしいの」
再び、まりんの声に力がこもるのが分かった。
意を決したように顔を上げ、涙も消え、澄み切った瞳でまりんは俺を真っ直ぐに見つめ、
「ハクちゃんのせいで、死にかけた子なんてどこにもいない。そんな幼馴染……初めからいないの。ずっとハクちゃんの傍にいたのは、まりん。あの日、ハクちゃんに助けてもらった――わたしなの」
わたし――たどたどしく、慣れない様子でまりんが口にしたそれが、一瞬、誰を意味するのか、分からなかった。
まりんの口からその呼び名を聞いたのは初めてで。そして、まりんがそう呼ぶ彼女は、バッサリと髪を短くし……まるで何も恐れを知らないような、迷いのない確かな眼光をその瞳に宿して、俺を見つめていたから。
別人――のように思えた。
俺の知ってる『元幼馴染』は――、あの日、消え入りそうな声で『行かないで』と言った幼い少女は――、生死の狭間で、虚な目で俺を見つめていた彼女は――、もうそこにはいなかった。
「だから、ちゃんと……わたしを見てほしい。一人の……普通の女の子として見てほしい」懇願というよりは祈るような声色で言って、まりんはふわりと静かに微笑んだ。「それで、いつか……国矢くんに伝えたいことがあるの」
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